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693 人のあれを笑うな


 ゆっくりと扉を開ける。すると中には誰もいなかった。


 暗い小屋の中。俺の目はよく見ている。


 ――いないのか?


 声は出さない。


 そのおかげで、小さな物音もよく聞こえた。


 ――奥の部屋だな。


 声が聞こえたわけではない。ただ呼吸の音が聞こえる。不規則な、興奮したような呼吸、それはシワスのものだろうと思った。


 そしてもう一つの呼吸。それは俺の耳をもってしてもほとんど聞こえない。小さな呼吸。いや、違うな。息ができていないのだ。なにかに防がれて、息が止まっているのだ。


 しかし時折抜けるように聞こえるかぼそい息は、どこか色っぽい気もする。クリスのものだろう。


 俺は足音をさせずに隣の部屋へとつながる扉の前まで歩いていく。そして、なんのためらいもなくその扉を開けた。


 目にとびこんできたのは裸の男女だ。


 俺はそれを見て、色々なことを思ったのだが、最初に思ったのはしょうもないことだった。


 ――目にとびこむってどんな表現だ?


 だってとびこむんだぜ、目に。痛くない? 似た言葉に目に入れても痛くないなんてものがあるけど、痛いに決まってるだろ。


 そんなくだらないことを考えてしまうのは、目の前の光景がとうてい受け入れがたいグロテスクなものだったからだ。


 人のセックスを生で見るのは初めてだった。


 それが嫌いな人間のものであり、しかも女の上にまたがって首を絞めているところなのだ。気の弱い俺からすればトラウマものだ。


 シワスはぎょっとした顔でこちらを見た。


「え、榎本――」


 どうやら俺の存在にはまったく気づいていなかったようだ。


「お楽しみのところ悪いが」と、俺は悪びれずに言った。「殺しにきた」


 刀を抜く。


 シワスは武器を持っていないが、厳密に言えばいま無手であるというだけ。


 シワスはクリスの首をしめていた手を離して、すぐに立ち上がる。それと同時に俺はシワスの脳天めがけて刀を振り下ろした。


 ロマンもない。色気もない。へったくれもない。


 ただシワスを殺すための一撃。


 だが。


「『武具錬成』!」


 中空に魔法陣が浮かぶ。俺はそれを見て『5銭の力+』が発動した瞬間を連想した。


 ガキンッ!


 と、音がして俺の刀が弾かれる。


 俺はそのまま切り抜けるよりも、一度引くべきであると判断した。


 後ろに下がり、刀を構え直す。刃こぼれの確認、どうやら大丈夫そうだ。


 それよりも、さきほどまで何もなかった場所に肉厚の刀が二本、浮いていた。それが俺の刀を止めたのだ。


 まさか腕に握るかたち以外でも武器を出すことができるとは思わなかった。


「榎本、お前いきなりなんだ!」


「………………」


 語ることはない。


 いまの俺は不思議なくらいに冷静だ。


 いままでシワスと対峙して、こんなに冷静になれたことがあっただろうか。水のごとく穏やかな心で、俺はシワスを眺めていた。


 怒りはもちろんある。


 憎しみもある。


 普通だったら思いっきり叫んで、斬りかかっていっていた。


 しかし俺は冷静だ。


 水は痛みを感じない。刀で斬ろうとしても斬れるわけではない。流れる川に手を入れてせき止めようとしても、水はすり抜けていくだろう。そしてその水には感情などもちろんない。


 そんな水のように俺はなっている。


「シワス、とにかく服を着て」クリスのしわがれた声が闇の中から響く。


 しかしシワスは憎しみを込めた目で睨みつけてくる。


 俺はそれをなんの感慨もなく見つめかえした。


 貧相な体だった。先日、この男は身の丈より大きな剣を振り回していたはずだ。しかしこの体のどこにも、あれほどの大剣を振り回せる筋力があるようには見えない。


 きっと、スキルのおかげだろう。こいつも俺と同じ『武芸百般』のスキルを持っているのだから。


「気持ち悪いんだよ!」


 それはこちらのセリフだった。


 どうして素っ裸の男を斬らなくてはいけないのか。あばら骨の浮き出た体や、ゴボウのような手足は見ていて痛々しさすらある。ちゃんと食べているのだろうか?


 そのくせイチモツだけは無駄にいきり立っている。そんなものを見るのもおぞましいが、見えてしまうのだから仕方ない。


 浮いていた剣が泥のように崩れ去った。


 と、思えばすぐにシワスの両手に刀が握られている。どちらも長めの刀だ、それを2つ、振り回すつもりなのだろうか。


 くるか、と俺は刀を中段に構えた。対してシワスは右手を上に、左手を下にした不思議な構えをとる。二刀流はそうやったことがないので知らないが、たしかにそう構えられると隙きの無さそうな構えだ。


 ――だからどうした?


 関係ないさ。


 距離をつめようとして、しかし怪しい気配を感じた。


 布団からクリスが立ち上がる。裸だ、俺は思わず目をそらす。見ないほうが良い、と反射的にそう思ったのだ。それが間違いだった。


 魔力の気配。


 それが溢れ出すようにクリスの杖からほとばしる。


 避けるしかない、その思考は決定的にまずいものだった。思考は俺から冷静さを奪った。


 回避。


 それと同時に俺は叫ぶ。


「危なっ!」


 クリスが放った魔法はただの爆発だ。


 しかしシャネルの使うような爆発ではなく、例えるならば光が弾けるようなものだった。目くらましとも違う、明確な殺傷力を持つ光。


 小屋の中にいては危険だと思った俺は開けた場所に出る。


 しかしそれで思考が定まってしまった。


 先程みたシワスとクリスの体が嫌なくらいに頭に残っている。


「ま、シャネルの裸でも見せてもらえれば全部忘れるだろう」


 軽口。


 を、たたきながらもそれがまずい兆候であると悟っている。


 まるでまどろみから覚めたように俺の思考はしっかりしはじめた。先程まではいい感じだったのに。


 冷静になれ、と自分に言い聞かせる。


 そのためにはせめて服を着て出てきてくれよ、と俺は願った。


 はたして、シワスとクリスは着物を着て出てきた。その頃には俺もまた冷静に戻っている。


 思考はクリア。


 憎しみはあるが、いますぐにでもシワスに向かって行かなければならない訳ではない。


 殺せればそれで良い。ただ実直にそう思う。


「いい加減にしろよ、榎本。お前そろそろうぜえんだよ。このゲームもそろそろ終わらせてやる」


「ゲーム……か」


 そういうつもりで戦っていたつもりはないのだがな、俺は。


 まあシワスがどんなつもりだろうが、俺は俺のやることをやるだけだ。


 早くしなければ五稜郭を占領した新政府軍が集まってくる。その前に終わらせる、そう思った。


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