683 険とれて
俺は島田になにか言おうと思ったが、その前に島田が俺の肩に手を置いた。
生暖かい手だった。
けれど優しい感情が込められているように感じられた。
「榎本、あんたはよくやってくれたよ。だからもう帰りな」
「どうしてそんなこと言うんだよ……」
「私はべつにあんたのことを嫌いじゃないんだよ」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、島田は言う。
「嫌だ、俺は土方と戦うんだ」
「ダメだ、あんたを副長に会わせるわけにはいかない」
「どうして!」
「そしたら、あの人の決心が揺らぐかもしれない」
言葉の意味が分からずに、俺は島田の手を振り払った。
「土方に会うまで帰らないぞ。俺はあいつの手助けをするためにここに来たんだ」
「もう良いんだよ、どうせあんたが居ても何も変わらないさ」
「じゃあみんなで逃げよう」
少なくとも、もう五稜郭はダメだ。
俺たちは全員で逃げることだってできる。たぶんだけど、キャプテン・クロウの海賊船になら全員乗れるはずだ。ぎゅうぎゅう詰めになるだろうけど。
「そんなことをしようって人間は、もうここに居ないのさ」
「どういうことだよ」
「分からないんなら、やっぱり帰りな」
いいや、分かっている。
こいつらは死ぬつもりなんだ。
本当に、本当に死ぬつもりなのだ。
だけど俺はそのことが分かっていても、理解していても――同意することはできていなかったのだろう。
俺は、本当の意味で、死ぬつもりで戦ったことなんて無いのだから。
死ぬ気で戦ったことならこれまでもある。死ぬかもしれないと思ったことだって。だけど、最初から死ぬことを目的で戦ったことはなかった。
「おかしいよ……死ぬために戦うなんてなんの意味もない」
と、俺は駄々っ子のように言ってしまう。
「いいや、意味ならあるさ」
「どんな?」
「ここに新選組がいたと、そう後世の歴史には残る」
そんなことが何かしらの意味になるだなんて、俺には思えない。
「土方に会わせてくれ」
「説得するつもりかい? 無駄だよ」
「あんた、さっき言っただろ。決心が揺らぐって。それって、土方も迷ってるってことじゃないのか?」
「そういう意味じゃないさ」
「いいから会わせろ!」
なんなら切り捨ててでもこの場所を押し通ると、俺はそういうつもりだった。
俺の気迫が伝わったのか、島田はもう俺に帰れとは言わなかった。
「ついてきな」
と、俺に言う。
「ああ」
周囲の兵士たちが俺のことを遠巻きで見ている。
「新選組の隊士か?」
「そういうふうにも見えるけど……」
「強いのかな?」
「分からないけど、俺たちとは違うな」
どんな会話かと気になってみれば、好き勝手言ってくれちゃって。
俺たちとは違うだって?
そりゃあそうさ、俺は死ぬためにここに来たわけではないのだ。
どいつもこいつも優しい目をしていた。諦めと、そして悲しさと、最後に残ったちっぽけな闘志を混ぜ合わせた、優しい目だ。人は死を目前にすれば他人に優しくなれるものだ。
「あんたの存在は、もしかしたらこの弁天台場には毒かもしれないよ」
「それで結構」
俺はここに増援に来たのだ。増援である以上は、存分に戦ってやるさ。
それに――シワスのこともある。
やつを殺すのが俺の目的。そしてあのシワスは、数日後にはここ、弁天台場に攻めてくるのだ。舞台が整いつつあるのを俺は感じていた。
島田に通されたのは、弁天台場の隅っこにある小屋のような建物だった。どうやらそこが司令部のような場所らしく、中に土方がいるようだ。
「副長、榎本が来ました」
島田がノックしてから、言う。
「榎本? そうか、入れ」
島田が扉を開けてくれた。自分は入らないつもりらしい。「あんただけだよ」と、俺を見て言う。シャネルとアイラルンにも入ってほしくないようだ。
「じゃあ……とりあえず」
俺は中に入る。
部屋の中はランプの明かりで照らされていた。
土方はなにやら模型のようなものを眺めていた。どうやらそれはこの弁天台場付近の立体地図のようだった。
「よく来たわね、榎本シンク」
土方は俺を見て、女言葉で喋った。
「うん」
「ここまで来るのも大変じゃなかった? どうやって来たの?」
「海から船で。そうだ、ここに来る前に甲鉄艦を倒したぞ」
「あら、甲鉄艦を? それは凄い。大戦果ね」
なんだか不思議な感じがした。
これが本当に、あの土方歳三だろうか。
柔らかい口調に優しげな目。なんだか憑き物が落ちたみたいだ。
「五稜郭はどうなったの?」
「たぶん落ちたよ」
「そう……榎本武揚も死んだのね」
「だから俺がここに来た」
土方は少しだけ考えるそぶりを見せてから、ポツリと呟いた。
「次は私の番ね」
「死ぬつもりか?」
いまさら何を、と土方は笑う。
そう、笑ったのだ。
俺はこの女がこんなに簡単に笑うとは思わなかった。
「止めようとなんて思わないでね」
「……止めようとしても無理なんだろうな」
「そういうこと。それにしても、敵の方から攻めてくると思ってたのだけどまだ来ないね」
「ああ、それなら耳寄りの情報が」
「なに?」
俺は先程よった村でのことを土方に話した。
相手の隊長は人斬りシワスで、近日中にここに攻めてくる予定だということを。
「ふうん、なら明日にでもこっちから攻めようか」
「軽いな」
「どうせ死ぬなら、明日も明後日も一緒でしょ?」
なら一年後でも十年後でも一緒ではないだろうか。そんなことを言ったところで土方が納得するわけもないが。
「俺も行くからな」
「べつに良いけれど。でも組織だった戦闘にはならないと思うわ。ただ戦って、討ち死にするだけだから。そういうの、素敵でしょう?」
「シャネルみたいなこと言って」
「こういうの耽美主義って言うのよね」
「知らないよ」
土方はケラケラと笑った。
それで何を言うかと思えば、明日で終わりなのだからいまから宴会をしようと言い出した。
嘘だろう? と俺は言うのだが。本気のようだった。
人は死を目前にすれば他人に優しくなれるものだ。それはたとえ鬼と呼ばれるような土方でも、同じなのかもしれなかった。




