666 市村くんの親代わり
これが負け帰ってきた人間の顔か、と俺は思った。「ダメだった」
と、土方は俺に申し訳無さそうに言う。
「ああ、大変だったみたいだな」
報告によればアボルダージュは様々な要因が重なって失敗することになったらしい。
なによりも大きかったのは、最初は三隻で行うはずだった突撃が、船の不調などがかさなり『回天』一隻で決行されたということだ。
それでも土方は必死に戦ったらしい。
普通なら臆してしまいそうなところを必死に……。
そんな土方のことを批判する人もいる。けれど俺は土方が悪いとは思っていない。誰が悪いとかではなく、運が悪かったのだ。
ならばそれは、もしかしたら俺のせいかもしれないとすら思った。
「気を落とすなよ、土方。失敗は誰にでもあるさ」
「お前が一緒に来てくれていれば、こういう事にはならなかったかもしれないな。私が新選組だけで行くと言ったから、こんな情けのない結果になった」
これは重症だな、と思った。
あの自信満々の土方が見るからに落ち込んでいる。
もしかしたら足の怪我が原因かもしれないな。人間、怪我なんてすると心まで弱るからな。
「まだやりようはあるさ、一緒に考えていこう」
「本当にそう思うか? だとしたらとんだ能天気だぞ」
「はっはっは、シャネルが言ってたんだけどな。こういう劣勢のとき、大将は笑ってるのが一番良いらしいんだよ。それくらい豪胆じゃないと部下たちが不安になるそうだ」
「ふんっ、すでに不安なんか通り越して絶望的だぞ」
「まあまあ、トシさん」
「トシさんって言うな!」
顔を真っ赤にして、土方は俺を睨む。
怖くはない。
むしろ可愛らしいとすら思った。いつもツンケンしてるからな、少しくらい落ち込んでいる方が女の子らしい。
「それで、足は大丈夫なの?」
土方はゴホン、と咳払いを一つする。
気持ちを切り替えて、また男言葉で話す。
「動かん。まったく清々しいまでに折れている。どうやら回天の甲板から甲鉄艦の甲板に跳び移ったときに折れたらしいが、戦闘中はまったく気づかなかった」
「アドレナリンが出てるからね」
「アド……? なんだそれは、ドレンス特有の言葉か?」
「ま、そんなところ。気持ちが高揚してると痛みとかを感じにくくなるわけ。それでも折れてることには変わりないんだけどね」
「だな、その無理がたたって動かなくなったのだと医者には言われた」
そのため土方はいま、刀を杖代わりにして歩いていた。普通の松葉杖を使わないあたり、なにかしらのプライドがあるのだろうか。
「あんまり無理するなよ」と、俺は言ってやる。
「無理などしていない。足が一本動かない程度、なんの問題もない」
いや、あるでしょ。けれど土方はこれでも戦うつもりなのだろうな。そういうやつだ。
俺たちはいま、五稜郭の敷地内のベンチに座っていた。
今日は良い天気で、少し春めいてきたようにも感じられた。
……よく考えたら『めいてきた』ってなんだ? どんな言葉だ?
という疑問はあるものの、俺は何も言わずに黙る。少しくらい深刻な顔をしておかないとな。さきほど能天気と言われたことをちょっとだけ気にしていた。
「市村は……」
と、土方がポツリと口にした。
「市村くんがどうしたの?」
まさか、アボルダージュで死んだのかと思った。
けれど嫌な予感はそこまでしなかった。
「市村は帰した、本土に」
その言葉を聞いて、俺は安心した。
「それは良い。彼はまだ殺し合いをするには早すぎる年齢だよ」
俺が元いた世界で見れば中学生くらいだ。それなのにこんな場所までついてきて、怖い思いもしただろう。大変な思いもしただろう。俺たちは彼に悪いことをしてしまった。
負け戦にここまで付き合わせてしまったのだから。
「あいつは帰りたくないみたいだったがな」
「市村くんの心にあったのは憧れの感情だよ。でもそんなのは中学生特有のハシカみたいなもんさ。強い人間に憧れる、殺し合いだって格好いいと思う、自分が特別な人間だと思いたい」
そんなところだろうさ、と俺は思った。
けれど土方はため息をつく。
「そんなことのために、あいつは付いてきたんじゃないさ」
「そうなのか?」
俺は市村くんのことをよく知らない。
彼とは少しだけ話したことがあるだけだ。いつもキラキラした目をしていて、俺たちのことを尊敬するように見ていたいように思う。
「あいつには兄がいたんだ。最初、2人で新選組に入隊してきた。鳥羽伏見の戦いの少し前のことさ」
「鳥羽伏見……」
もちろん名前くらいは聞いたことがあった。
旧幕府軍と新政府軍の戦い、だったはずだ。俺も榎本武揚という立場上、そういう話は何度か耳にする。ある程度のあいづちくらいは打てなければならないのだ。
「あいつの父親は大垣藩から追放されていてな、ガキの頃からずいぶんと苦労したらしい。それでも武士に憧れていたらしくてな……落ち目の新選組に入隊してきた」
「武士に憧れて、か」
「まるで私たちのようだろう? 本当は私もあんな子供を入隊させるゆなことはしたくなかったんだがな。どうも近藤さんが気に入って」
「へえ」
「目が良い、と言ってな。総司に似ていると」
沖田総司か、と俺は頷く。
どんな人かは会ったことがない。男なのだろうか、女なのだろうか、それすらよく知らない。
「それで入れてやったら、これが真面目な男でよく働く。私も気に入ってしまってな、珍しいんだぞ、この私が人を気に入るだなんて」
「だろうね、トシさんそこらへんの好き嫌い激しそうだし」
「……ふんっ、悪かったわね。で、ずっと連れてきていたんだが。まあ、ここまでだろうな。あいつは私の親戚のところに向かわせた。この土方歳三の武勇伝をきちんと後世に伝えてくれと説得してな」
「そうでもしないと市村くんは行かなかったかもね」
「ああ、私の名前など残したくもなくもないがな、お前はどうだ、榎本武揚?」
「うん?」
質問の意味がよく分からなかった。
「貴様の名前は確実に後世に残るだろうな、逆賊として。だがそれは貴様の本来の名前ではないだろう。なにせ貴様は――偽物なのだから」
「だな」
考えたことはなかった。
俺はいま榎本武揚としてここにいる。
ならば俺の行動の全ては、後の歴史から見れば榎本武揚のやった行動ということになるのだ。
俺はいつか榎本シンクに戻るときが来るのだろうか?
「考えておけ、榎本シンク」
土方は、もう俺の名前を知っている。
「うん」
「それにしても市村は兄に再開できるだろうか」
と、土方は言った。
「なに、市村くんの兄貴はまだ生きてるの?」
「おそらくな。あいつの兄は近藤さんの死を前後して隊から脱走している。まあ、あの頃は昔なじみの袂を分かつことになったからな。新入隊士などそれこそ数え切れないほど脱走したさ」
「それでも市村くんは残った」
「ああ、だからあいつは偉いわね。ちゃんと生き残ることができれば、きっと良い男になる。ただ申し訳ないと思うのは、市村にはまったくいい思いをさせてやれなかったこと。新選組の悪い時期に入って、そのまま負け続け。一度くらいは楽しい経験をさせてあげたかったけど」
「トシさんはさ、市村くんの親代わりだったわけだ」
「親っ!?」
おや。自覚がなかったのだろうか。
土方が位置村くんを語るときの表情はまるっきり母親のそれだった。たしかに市村くんにだけは優しかったしな。
「バカにしているのか、榎本!」
「まさか、真面目な意見だよ」
「くっ……」
土方は少しだけ考えた。そして「そうかもしれないな」と認めた。
こうして、市村くんは俺たちの元からいなくなった。
それは悲しいことではないはずだ。
おそらく……たぶん。




