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660 問題だらけの俺(泥酔)


 雑多に空き瓶が散らばった部屋の中で、テーブルの上だけが整然としている。


 酔ったアイラルンが等間隔で並べた徳利にはなんの意味もなく、またそうすることに価値もない。そういった不条理を敷き詰めてドロドロに溶かしたものが泥酔という状態だ。


 さきほどから鳥の鳴き声が聞こえている。ホウ、ホウ、ホウ。その鳴き声はかつて幼い頃に祖父母の家で聞いた古めかしい置き時計の針の音に似ていた。


「朋輩、それは辛いことですわ」


「知ったようなことばかり」


「いいえ、貴方の悩みはわたくしの悩み。その懊悩にはわたくしまでも悲しくなります」


 芝居がかったような口調でアイラルンは両手をかかげた。


 その様子のあまりの滑稽さに、俺はおひねりでもくれてやるような気持ちで酒をついでやった。


 すでにワインは底をつき、俺たちは安物の日本酒をあおっている。


 電飾の明かりに透かしてみればよく分かるが、黄ばみがかった日本酒だ。


 日本酒といえば透明な液体であるのが相場で。水のように透き通って、それでいてアメのようになめらかで、味はどうなのだろうか。俺はこちらの世界に来るまでアルコールというものを摂取したことがなかった。


 俺たちが飲んでいる日本酒と、元いた世界にあった日本酒。どちらが美味いかは比べる術がない。比べようとも思わないが。


「シャネルさん、帰ってきませんわ」


「澤ちゃんのことを慰めてやってるんだろう」


「朋輩もシャネルさんに慰めてもらえばどうですの?」


 無視をした。


 肯定も否定もしない。言葉を口にすればその先にある理由まで言わなければならない。


 俺がシャネルを頼らない理由、彼女に慰めてもらわない理由。


「格好悪いからですの?」


 舌打ちをする。


「そうだよ」


 思考が読めるアイラルンを相手にして、隠し事はできない。


「べつにシャネルさんはそんなふうに思いませんわ」


「俺が思うんだ」


「殿方の心は複雑ですわね、どうして簡単におっぱいに顔をうずめたいって言えないんですの?」


「情けない男は嫌われる」


「それは朋輩の勘違いですわ。世の中には情けない殿方が好きな女性もいます、わたくしが見るに、シャネルさんはそれですわ」


「蓼食う虫も好き好き、か」


「あら、難しい言葉を知っておられますのね」


「知ってるだけさ」


「じゃあこういう言葉はご存知ですか? 老いたる馬は道を忘れず」


 知らないな、と首を横にふる。


 アイラルンの言い方は鼻についた。皮肉な調子が込められている。


 俺は床に落ちていた魚の小骨を拾い上げ、それを指先ではじいて飛ばす。小骨はアイラルンの金髪に髪留めのように刺さった。


「年長者の言うことは間違いはないので、はいはいと聞いておけとそう言っているんですわ」


 アイラルンは髪についた小骨をうっとうしそうにつまんで、そしてまた床に落とした。


 俺はアイラルンを見た。そして床に落ちた小骨を見た。


「そういうものか?」


「そういうものですわ」


 さてと、とアイラルンが立ち上がった。ずれた椅子を直してから、俺に流し目を送る。


 ベッドに誘っているのだろうか、たぶん違うな。


「わたくしはそろそろ寝ますわ」


「ちゃんと部屋まで戻れるか?」


 酔っ払ってそこらへんで寝転がっていることなんてザラな女神様だ。俺はアイラルンがいつか外で寝て凍死したって驚かないだろう。


「老いたる馬は道を忘れず、ですわ」


「そうかい」


 アイラルンは少しだけ嫌味に笑って部屋から出ていった。


 それとほとんど入れ違いにシャネルが戻ってきた。


「あらシンク、まだ起きてたの?」


「まあね」


「少し飲みすぎじゃないかしら」


 俺は部屋の中にある空き瓶をざっと数えた。けれどどうでもいいことだった。


「アイラルンだよ」


「あらそう」


 シャネルは文句も言わずに散らばった空き瓶を片付けていく。彼女がしゃがむたびに、長い髪がゆったりと床に落ちる。汚れてしまわないかと俺は心配に思う。


 シャネルは汚れてはいけない、と思った。


 俺がどれだけ汚れても、泥沼の中に沈むような人生を送るとしても、彼女だけはそんなものとは無縁で生きていて欲しい。それが望外ではないほどの美しさを彼女は持っているのだ。


 無言だった。


 シャネルが片付けている空き瓶の音だけが部屋の中に響いている。その甲高い音を聞いていると、俺はだんだんと自分がどんな顔をすればいいのか分からなくなる。


 飲みすぎたことに申し訳なく思えば良いのか、それとも照れ笑いでも浮かべればいいのか。一番簡単なのは不機嫌な顔をつくることなのだが。


 それとも、なにかシャネルを楽しませるよなことを言えば良いのだろうか?


 それとも、悩みでも打ち明けるべきか。


 それとも、このまま押し倒してみるか。


 どれもできないな、と思った。


「シンク」


 俺のよこしまな感情が伝わってしまったか、シャネルは不機嫌そうだ。


「どうした」


「これ少し中身が残ってるわ。飲んじゃって」


「ああ、分かった」


 手渡されるとっくり。


 その瞬間に2人の手が触れた。


 シャネルの手は少しだけ冷たかった。寒いところにいたのだろうか。


 なにか言葉にはならない感情のようなものが通じ合う。


「シンク」


「なんだ」


「また悩んでるのでしょう?」


 頷く、無言で。


「私になにかできることってあるかしら?」


 少しだけ不安そうな声色だった。そういう卑屈な言い方をするシャネルは珍しい。もしかしたら、彼女も不安なのかもしれない。


 ――なにが?


 それはきっと、俺の気持ちが離れてしまうのが。シャネルは敏感に俺の不安を感じ取った。しかし俺は彼女になんの相談もしない。


 こうなったとき、シャネルが思うのは自分はすでに信頼されていないのではないかということだ。好かれていないのではないかと不安なのだ。


「シンク」


 と、彼女は俺の名前をただ呼んだ。


 そして俺は、


「大丈夫」


 と、そう言った。


 本当は好きだ、や、愛してるだとか。そういう歯の浮くような台詞を言うべきなのは分かっていた。そうすることでシャネルも安心するのだということは。だが俺にはそれができない。情けない男だと笑いたければ笑え、それが俺なのだから。


「シンクがそう言うなら良いのだけど」


「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」


「そろそろ寝ましょうか?」


 俺はベッドに入った。シャネルが電気を消す。


「おやすみ」


 その言葉に、シャネルはなにも答えなかった。かわりに俺のすぐ隣に潜り込んでくる。


 そういえば昔、シャネルが言っていたことがある。


 愛の世界に言葉はいらない。


 あれはいつだったか? 確信に近い力強さをもって放たれた言葉だった。


 俺たちはなにも喋らない。だというのにシャネルは俺の意思を尊重するように俺を胸元に抱き寄せてくれた。


 甘い匂いがした。


 それでも俺は不安だった。悩みを抱えていた。


 俺はいままで、復讐のために生きてきた。そしてそれは達成された。しかしどうだ? その復讐のせいで俺は新たな復讐を産んでしまった。


 クリスは俺のことを憎んでいるはずだ、殺したいほどに。


 俺はいままで自分が何一つ間違いなどおかさずに来たと思っていた。当然の権利として俺のことをイジメていたやつらを殺して回った。


 だが本当にそれは正しいことだったのだろうか?


 いまさら俺はそんなことを悩んでいた。


 そして、その悩みは俺をがんじがらめにした。


 考えれば考えるほどに体が震えるほどに怖くなった。その震えを止めるように、シャネルは俺を抱きしめてくれる。


 俺は怯えるように目を閉じて、そして、眠るのだった。


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