642 蝦夷共和国はもつのか
しかし、大鳥さんは逃げた俺のことをしつこく追ってきた。
「待ってよ、榎本くん」
「ひいっ!」
情けない悲鳴を上げてしまう。
こんなところをシャネルに見られたら『痴情のもつれ』なんてことになりかねない。
「待って」
「な、なんですか」
「本当に連れないんだね。普通、こんな美人が誘ったら二つ返事だよ?」
「ああ、誘われてたの。知らなかった」
俺はそらとぼける。
「膝を交えて、とはこのさい言いません。一つだけ聞かせて」
「なんでしょう?」
「榎本くんはこの国が、本当に維持していけると思ってる?」
質問の意味が分からなかった。というよりも、考えたこともなかった。
「本当のところ、どうなの?」
「澤ちゃんに聞いてみて」
俺には答えられない。そんなの、本当はタケちゃんにしか分からなかったことだ。
実際、俺はいまタケちゃんの夢に乗っかっているだけだ。国としての舵取りも実質的には澤ちゃんがやっている。
大鳥さんは露骨に失望したような顔をする。
「僕たちは不安なんだよ? このまま戦って、その先になにがあるのか分からないんだ」
「大丈夫ですよ」と、根拠のない気休めの言葉。
「新しい国を造るなんて、そんなことディアタナ様に認められるか……」
「ディアタナ?」
どうしてここで、あの女神の名前が出るのだろう。
と、思ってからすぐに察する。
そうか、この異世界には神はディアタナしかいないのだ。一神教。昔、アイラルンがそんなことを言っていた気がする。
そしてただ一柱の素晴らしい女神と敵対するように、邪神としてのアイラルンがいる。
だからこのひとがディアタナのことをたとえ話に出したとしても、なんらおかしくない。
「榎本くん、こんどしっかりと話をしてね。それは榎本くんの責任だよ」
「……分かりましたよ」
それから、逃げるように甲板に戻ると澤ちゃんが驚いた顔をした。
「あれ、もう戻ってきたのですか?」
「なに?」
「いえ。ただ2人で話し込むのかと思いまして」
「そんなわけないだろ。シャネルに言うなよ」
まるで浮気現場を同僚に見られた会社員のように釘を指す。まさか俺の人生でこんな言葉をいう機会があるとは。
「それは良いのですが。そういえばさきほど、船から土方氏たちが見えましたよ」
「え?」
「どうやら善戦しているようでしたが、思いの外時間がかかっているようにも見受けられました。松前城の攻略は少しばかり日を要するかもしれません」
「なにか手伝えることはないかな」
「ありませんよ」
「そうか」
開陽丸はいつの間にか海原から海岸沿いへと移動していた。
陸地には町が見えた。町があるということはそこに住んでいる人もいるということだろう。
松前藩の城下町、ということだろうか?
「人がいる」と、俺は双眼鏡も使わずに肉眼で見たことを言う。
「どこですか?」
「ほら、あそこ」
「よく見えますね。私にはまったく見えません」
「ちょっとばかし目が良いんだ」
「船乗りに視力は必須のスキルですよ」
「……武器を持ってるように見えるな」
「ですね。戦うつもりなのでしょう」
「あんな農民が?」
「たとえば榎本殿は、自分の家に盗人が入ってきたとしたらどうしますか?」
「そりゃあ……たしかに出来る限り抵抗はするよな」
「そういうことです」
こういうふうに見ていれば、たしかに俺たちは侵略者なのだなと実感する。
こんなふうに戦って国を造ったとして、そこに住む人たちは認めてくれるのだろうか?
「ねえ澤ちゃん」
「なんですか? というか、澤ちゃんと呼ばないでください。まあ……もう慣れましたけど」
「俺たちは造る国は、大丈夫だろうか」
「蝦夷共和国が、ですか?」
「もつのだろうか?」
「……もちませんよ」
「え?」
「当たり前じゃないですか」
なにを言っているのだろうか、と俺は首をかしげる。
それは、言ってほしくなかった。
ならば俺たちはこんな場所でなにをしているのか。
「ここは、この国は榎本武揚の夢の最期です。榎本武揚はこの蝦夷の地に、繁栄を築くつもりはありませんでした」
「なら、なにを?」
「みんな一緒ですよ」
「なにが?」
「死に場所を求めているだけです」
澤ちゃんの言葉にはどこにも投げやりな様子などなく、むしろ確固たる意思を持って発せられていた。
「なるほどな」
俺は最初から分かっていたのだ。
ここには人々は死にに来ているのだと。
「それに、いまは冬です。この間は新政府軍もこちらに手は回らないでしょう。しかしこれが春になれば」
「なれば?」
「やつらは艦隊を差し向けてきますよ。それまで準備をしているはずです」
「なるほどな」
「戦えば、物量で負けます」
「開陽丸でもか?」
この船はすごい船だということを、俺は何度も聞いていた。
「たしかに開陽丸は現在、このジャポネになる船の中で間違いなく最強の船です」
「なら」
「しかし戦いは数です」
「……だな」
話していると気が滅入ってきた。
負け戦。
そういえばアイラルンのやつも、最初からそう言っていたな。もしかしたらアイラルンには最初からすべてが見えていたのか?
船がさらにすすむと、松前藩の人間たちが陣営を設営していた。
「澤ちゃん」
「あれは、まずいですね。土方氏たちにあそこを超えさせるわけにはいきません」
最初、松前藩の戦力は100程度の小規模だと聞いていた。
しかしこれを見るに、とてもそうは見えない。あるいは住民がこぞって手伝っているのかもしれない。
「クワを持って戦う農民か……」
やりづらいだろうな、と思った。
もっと武器らしい武器を持っていれば、戦う方も自己防衛だと言い張れる。だが相手が農具で必死に向かってくれば、こちらとしても斬り殺すのはしのびない。
「しまった、屯田兵ですか!」
「屯田兵?」
「開拓兵のことですよ。平時はこの蝦夷の地を開墾することに尽力し、いざ有事となれば兵として動員される。そういう兵隊のことです」
「じゃあ敵の戦力は思ったよりも多いのか?」
「そういうことになります」
どうするべきか。
「榎本殿、砲撃の許可を」
「え、許可?」
「はい。ここからあの陣営に砲弾をお見舞いしてやります」
「このさい、弾薬の節約なんて言ってられないな」
「はい」
よし分かった、と俺は首を縦にふった。
「やろう。ここから陣営を壊して、土方たちの進む道を開けてやるんだ」
「承知しました。総員、砲撃戦闘の準備だ!」
慌ただしく動き出す澤ちゃん。
どうやら松前藩の農民たちもこちらの船の存在には気付いたようで、怯えたように顔を出したり引っ込めたしている。
俺は覚悟を決めた。
これは戦争だ、と自分に言い聞かせる。
開陽丸の砲門が火を吹いた。




