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637 逃げた先での桂馬


 夢を見ていた。


 俺の目の前にはタケちゃんがいて、俺たちは将棋盤をはさんで向かい合っていた。


 盤面は中盤のひねり合いも終わり、そろそろ終盤に入りかけたころ。形成は互角、と言いたいが俺の方が少しだけ悪そうだった。


「シンちゃんのばんだよ」


「え……? あ、うん」


 そう言われた俺は、ずいぶんと甘い手を指してしまった。


 それをチャンスと見て、タケちゃんは猛攻を始める。


「どうだい、この手?」


「うーん、まずいなぁ」


 はっきりと形成が悪くなった。


「そろそろ投了じゃない?」


「いや、まだまだ」


 意外と負けず嫌いで、こと一対一の勝負に関しては自分でも呆れるくらいの粘り強さをはっきする俺だ。このときも、最後の最後まで指し続けるつもりで俺は盤面を睨んだ。


「長考するんだ」


「持ち時間は?」


「そんなのないよ。しいていうなら、シンちゃんが起きるまでかな」


 やっぱりこれは夢なのだなと確信した。


 しかしどういうわけだろうか、夢を見ていることが理解できるというのは。こういうことは、こちらの世界に来てから何度かあった気がするが。


 明晰夢めいせきむというやつだね。


 昔は見たかったけど、べつにいまはそんなものどうでもいい。大人になった、というよりもスレたという表現が正しい気がするけど。


「そういえばさ、選挙したんでしょ?」


 タケちゃんは当然、俺の夢の中の登場人物であるから。俺の記憶そのままに作り出された人間なのだ。


「したね、けっこうギリギリの投票だったよ」


 澤ちゃんが用意していた不正は、このさい使わずに済んだということで喜んでおこう。


「おめでとう」


「うん、ありがとう。なあ、ちょっと黙っててくれない?」


 いま考えてるところだから。


「どうせこの一局はこっちの勝ちだよ」


「ここから粘るんだよ」


「そういう性格だ」


「知らなかったか?」


 ここかな、と思いながら俺は自分の陣形に守りのための駒を置いた。


 消極的な一手だが、これしかない一手でもあった。


「ふうん、じゃあこれで?」


 きわどい攻め。


 まったく読めていなかった。


「ぐぬぬ……」


「投了する?」


「まだだ!」


 俺は早めに玉を逃しておくのだが。


「でもさ、もう詰みだよ」


 ほら、とばかりにタケちゃんは持ち駒の桂馬を放るようにして盤上に置いた。


 たしかに詰みである。


 まったく見えていなかった。


 こんな簡単な詰めろがなぜ?


 そこで俺は気がついた。


 ああ、これは夢だからだ。


 よく見れば盤面はぐちゃぐちゃだ。こんなもの将棋でもなんでもない。それなのに勝った負けただの、俺たちはいったいなにを言っているんだ?


「負けました」


 と、俺はおどけて言った。


「はい、じゃあ私の勝ちですね。いやあ、蝦夷共和国の総裁に勝てるとは嬉しいなぁ」


「嫌味かよ」


 そう思える? と、タケちゃんはニヤける。


 あまり好きな笑い方じゃない、こんな笑い方をする男だっただろうか?


「こんな言葉を知ってる?」


「知らない」


 間髪入れずに答える。


 だがタケちゃんは意に返さない。


「桂馬の高上がり、って言葉さ」


「歩の餌食えじき、だろ?」


 桂馬の高跳び歩の餌食。いわずとしれた将棋の格言だ。


 桂馬は前にぴょんぴょんと跳ねるように移動できる反面、後ろに下がることはできない。だから一番弱い歩の駒にだって簡単にとられてしまうから気をつけろという意味の格言だ。


「そっちじゃなくてさ。桂馬の高上がりって言葉には身分不相応な出世をするって意味があるんだよ」


「へえ、知らなかったよ」


「覚えておいて」


 俺は嫌な予感がして、タケちゃんの目を見た。


 しかし、タケちゃんの目は、なかった。


 目のあるべき場所にはポッカリと空洞が開いていた。


 俺は思わず後ろずさる。とっさに腰の刀を抜こうともしたが、武器はなにも持っていなかった。


「お、お前……誰だ!」


 タケちゃんじゃない、と思った。


「いやだな、私だよ。私。忘れたのかい?」


 タケちゃんは目のない顔でケタケタと笑う。その笑い方は確実に俺の嫌いなものだった。


 その笑い方を、俺はどこかで見たことがある気がした。


「お前は誰だ!」


 武器はない。


 なので戦うことはできない。


 さっさとこの夢が覚めてしまえば、それで終わりだというのに。いつ終わるとも分からない。


「榎本シンク、お前は逃げたんだ」


「に、逃げただって? 誰からだ?」


「分かってるくせに」


 そうだ、分かっている。


 これは俺の夢だ。


 だからこの目の前にいるタケちゃんの姿をした化け物は、俺のことをなにからなにまで理解しているのだ。


 たしかに俺は逃げたのだ。


「私を殺した相手から――」


「師走から――」


 そうだ、タケちゃんが殺されたとき。


 俺はどうしてもっと必死にあの男を追わなかった。


 どうして?


 どうしてこんな北海道くんだりまで来てしまった? 江戸でなんとかもう一度あいつを探し出して、すぐさま復讐をするべきだったのではないのか?


「榎本シンク、お前は俺にあんな偉そうなことを言っていたのに」


「お前は誰だ!」


 三度みたび問う。


 目のない化け物は笑った。


「俺か? もう忘れたのか?」


「まさか榎本武揚とは言わないだろうな」


「まさか」


 化け物は笑う。


 そして、その姿が一瞬にして変化した。


 俺が憎んで、憎んで、憎んで仕方のなかった男に。その男の名前は金山。俺の最後の復讐相手だ。


「お前は俺に逃げたと言ったよな? 恐れをなして逃げたと」


「そ、それがどうした」


「お前だって、同じじゃないか」


 その言葉は俺の胸に突き刺さった。


 そうだ、俺はもしかしたらあのとき思ってしまったのかもしれない。


 ひょっとしたら、もしかすると、あるいは、俺は師走という男に勝てないのじゃないかと。


「お前は逃げた」と、金山は俺に言う。


「違う」


「なにも違わないさ」


「違う!」


「せいぜい吠えているが良いさ。けれどな、榎本。お前と俺は同じ穴のムジナ。俺たちは似た者同士だ」


「誰がお前なんかと!」


「いつかお前はつけを払うときがくる」


「なんのだ」


「そのときまで、せいぜい楽しんでおくんだな」


 俺は将棋盤の上の駒をつかんで、それをぶちまけるようにして金山にぶつけた。


 しかし手から離れた駒は空中でなんらかの重力にひかれたように落下した。


 金山は俺のことをあざけるように笑う。


 立ち上がり、その手にはダモクレスの剣が握られていた。


「またな、榎本」


 金山が剣を構え、そしてその剣は一直線に俺の心臓を貫いた。


 ――ザクッ。


 耐えられないほどの痛み。


「がああっ!」


 叫び声を上げて、それと同時に体が揺れていた。


「……ンク、シンク!」


 誰かが俺を呼んでいる。


 慌てて起き上がると、シャネルが俺の顔を心配するように覗き込んでいた。


「うなされてたわよ?」


「……あ、ああ」


 そうだ、夢だったんだ。


 俺は心臓があると思われる胸のあたりをつかむ。まだ痛みが残っているような気がした。


「大丈夫?」


「たぶん」


 嫌な夢だった。


 俺が師走から逃げただって? そんなこと……あるはずが、ない。


「もう一度眠れる?」


「どうだろうか」


 俺は窓の方に行き、外を見た。空は少しだけ明るくなってきていた。夜明けだ。


 なぜだか知らないが俺は泣きたいような気分だった。


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