619 トシさんの秘伝の薬
「酷いな」
土方はアイラルンを見て、顔をしかめた。
「おえっ……おえっ……」
アイラルンはなにか文句でも言おうとしたのだろう、土方を睨んで口を開いたが出たのは嗚咽ばかりだった。
「ドレンス人か?」
「そう見えるかよ」
と、俺は答えにもなってない言葉を返す。
言っておいてなんだが、こちらの警戒が明らかに伝わるような喧嘩腰だった。
「そう邪険にするな、我々は敵ではない」
「敵じゃない?」
そういう仲良しこよしな対応を先にしていなかったのは土方の方だ。
「お前のことは認めているよ、榎本殿。私は強い男を認める」
いまさら俺のことをタケちゃんだと思うつもりはないのだと、そういうことを言いたいのだろうか。
「飲み過ぎか」
「どうだろうな、船酔いかもしれない」
「そうか。ならばこれをやる」
土方は着物の内からなにか紙のようなものを取り出した。
その紙を雨に濡らさぬように慎重に俺に渡してくる。
「なんだ、これ?」
「薬だ」
「薬?」
「私の実家のものだ。なんにでもよく効く万能薬だぞ」
「そうなのか?」
俺はそれを受け取った。
嫌な予感はしなかった。アイラルンに飲ませても大丈夫だろう、たぶんだけど。
「飲むか?」と、俺はアイラルンに聞いた。
こくり、と頷く。肯定だ。
粉末薬のようだった。このままでも服用できるだろうか、水なら雨がたくさん降っているが。
「本当は酒か白湯で飲むものだが、まあ二日酔いならそのままでの飲んでも良い」
「だってよ。アイラルン、ほら口を開けろ」
「んっ……あーん」
アイラルンが大口を開けた。
綺麗な歯並びだな、と俺は思った。虫歯一つない、当然か、女神なのだから。真っ白い歯。それに喉の奥までピンク色だ。
俺はアイラルンの口の中に、紙を開いて出てきた粉末をサラサラと流し込んだ。
アイラルンはそれをごくり、と喉を鳴らすように大げさに飲んだ。
「……苦い、ですわ」
「良薬口に苦しだよ、お嬢さん」
土方は目を細める。
「たしかに、効きそうですわ。ありがとうございます」
「どういたしまして。こんな場所にいたら冷えるでしょう、雨にあたらない中へどうぞ」
意外なほどに優しい声で土方はアイラルンを気遣う。
人間の裏表というやつだろうか。だとしたら鬼のように苛烈な土方と、いまこうしてアイラルンを気遣って薬までくれてやる土方、どちらが表でどちらが裏か。
「土方さん、俺からも礼を言っておく」
「そうかい。榎本殿、少しだけ話がある。その娘は1人で戻れるか?」
「……話?」
警戒はまだあった。
ただ薬をもらった以上、邪険にもできない。
「そうだ。2人で、少しな」
俺はアイラルンの肩に振れた。「大丈夫か?」と聞く。
「ええ、1人で帰れますわ。薬のおかげですっかりよくなりました」
「そんなに早くは効かないぞ」と、土方。
「プラシーボですわ!」
土方は首を傾げた。
「ドレンスの言葉か?」
「まあ、そんなところ。アイラルン、ちょっと戻ってろ」
「分かりましたわ。浮気のこと、シャネルさんにはわたくしから言い訳しておきます」
「……浮気じゃないだろ」
ただちょっと2人で話すだけだ。
そもそも俺は土方のことを女としては見ていなかった。
アイラルンはとことこと甲板を出ていった。その足取りはまだ本調子ではなさそうだった。
「妙な女だな」と、土方。
「だろう」と俺も同意する。
「アイラルン、と言ったか?」
「あっ……」
まずい、そういえば偽名を使うのを忘れていた。
「邪神と同じ名前をつけるとは、奇特な親だな。それとも呪いか?」
「まじない?」
「子供にわざと不浄であったり不潔な名前をつけるという文化を聞いたことがある。そのたぐいか?」
「まあ、そんなところ。アイって読んでやってくれ」
「良いだろう」
まさかそんな話をするために引き止めたわけではないだろう。
土方は無言で甲板の先の方へと行く。なので俺もついて行った。
雨は酷くなってきているようだった。土方はもうびしょ濡れで、広いデコには前髪が張り付いておりそれなりに女の子らしいく見えた。
俺もじきに濡れネズミになるだろう。
「いちおう重ねて言っておくが、私はお前が本物の榎本殿でなくても良いと思っている」
「……俺は榎本だよ、本物のね」
「隠せることでもないだろうに。まあ、たしかに似ているがな」
「本題に入ってくれよ、俺がタケちゃんであろうとなかろうと、どっちでも良いんだろ?」
「ふっ、やっと認めたか」
「認めてないさ」
ただ、いまさら言い訳もできないと思っただけだ。
「私がここでなにをしていたと思う?」
「さあ、仲間はずれになって1人でいたんじゃないの?」
あたかも授業と授業の間の休み時間のように。
なに、そういうのは本人が思うほど恥ずかしいことじゃないさ。いつの時代にだってクラスに1人2人はいるものだ。
寝たふりをしたり、本を読んだり、何度もロッカーと机を行き帰りしたり。時間を潰す方法はいくつかあるだろうけどね。
「私はな、いまここで敵情視察をしていたんだ」
俺の嫌味などまったく意に返さず、土方は言いたいことを言う。
「敵情視察?」
「そうだ。あそこの先に見えるのが、我々が入港する気仙沼だ」
土方が指差す方向を見る。ずいぶんと遠くに港が見えた。
普通の人間の視力では見えないだろう。俺は『女神の寵愛~視覚~』のスキルがあるので見えるが。
「もしも戦闘になった場足、ここらへん一体の地理を頭に入れて置かなければお話にならない」
「地理、か」
「地の利という言葉もあるだろう? そうでなくとも抵抗された場合は防衛戦だ、あちらの方が有利であることに変わりはない」
「けどこっちは船だぜ? 海上から砲撃ができるはずだ」
「そうだな。しかし最後には上陸することになる。榎本殿、戦の決戦は古今東西、歩兵決戦で決まるものだよ」
「なるほどね」
とはいえ、土方のいう歩兵決戦にはこれから先の時代のことは入っていないだろう。
たとえば兵器が発達して戦争が変われば、他の決戦だって当然生まれるわけで。
それはつまり艦隊決戦であったり、あるいはもっと酷いような……人間なんかの意思が介入しない機械での決戦もありえるかもしれない。
とはいえ、この時代そういうものはまだまだ先だ。
それともディアタナとかいう女神の望むとおり、この異世界はこれ以上時代を進めないのだろうか?
「土方さんは……どう思う」
「ふっ」
土方は突然笑った。
「なんですか?」
「お前は気づいてないだろうがな、榎本殿」
「はい」
「あの男は……榎本武揚は馴れ馴れしいやつだった」
「え?」
「私のことをついぞ土方さんなどと他人行儀は言い方はしなかったよ。トシさん、トシさんってな、新選組の古参隊士でも数人くらいしか呼ばない馴れ馴れしい呼び方をしたんだ」
「そ、そうなの?」
そりゃあバレるな。
一発でバレる。
なんだ、最初から土方はそれこそ確信を持って俺がタケちゃんでないことを気づいていたのか。残念。
「お前もそう呼んでみるか?」
「まさか」
こんなおっかない人をそういうふうには呼ばない。
タケちゃんはああ見えて豪胆な男なのだ。国造りなんてしようとするくらいに。
「本当は地図でも引きたいところだがな」
「この雨じゃあね。土方さん、こんな場所にいたら風邪ひかないか?」
「そうだな。じきに戻る」
なんだか俺は意地になった。
この人がいるのなら、俺もいようと思った。
だって俺はこの船で一番偉いのだから。
「どうした、榎本殿は戻らんのか?」
「いや、もう少しいるよ」
勝手にしろ、と土方は笑う。
艦隊は港に向けて進んでいく。戦闘になるのだろうか、と俺は少しばかり不安だ。しかし土方は、獰猛に笑う。それをまるで望んでいるかのように……。




