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618 寝ゲロにご注意


 停泊が決定されてからは早かった。


 会議室の中央にはテーブルが置かれており、その上には地図が広げられている。澤ちゃんはキャプテン・クロウと話をして、ここの港が良い、いやこちらの方が良いと考えをまとめる。


 俺はその良し悪しの判断がつかないので、地図をただの図形のかたまりとして眺めていた。


気仙沼けせんぬまが良いでしょう、ここなら港の規模的にも良いでしょう。もとは幕府側の味方をしていた港でもあります。補給はしてもらえるかは不明瞭ですが、嵐が去るまでの退避にはうってつけに思えます」


「すこし遠いのではないでしょうか!」


「ですが他の港は下手をしたら新政府軍の者たちがいます」


 なるほど、それなら気仙沼ってところが一番良さそうだ。


 気仙沼……?


 なんか聞いたことがあるような地名だ。よく覚えていないけど有名な場所だろうか。


「なるほど!」


 澤ちゃんは俺を見た。


「そういうことで良いですね、榎本殿」


「ああ、そうしよう」


「それでもし戦闘になった場合なのですが、どの程度の反撃をしましょうか」


「と、言うと?」


「相手を殲滅してでも無理やり停泊する、が1つ。ある程度の攻撃を加えてみて反抗された場合は諦める、が1つ。反撃の兆しを見せられた場合はすぐさま撤退して、また海路に戻る、が1つです」


「なるほど、先に決めておかないと困るわけだ」


 たしかに、我々は艦隊だ。


 ある程度の足並みは揃えておかなければ。


「絶対的に停泊を強行するべきだな」と、土方。「嵐の中を突っ切るほどの士気の高さはないはずだ」


 なるほど、士気か。それは大切だな。


「まあ野蛮、そんなことを続けていれば僕たちの蛮行がすぐ知れ渡りますよ。僕は反対、相手が嫌がることはやってはいけません。榎本くんはどう思います?」


 なるほど、たしかにこれから国を造ろうって集団が周りから嫌われてちゃ、いろいろやりにくいよな。


「どっちの考え方も分かるけど……」


 土方の言うことも、大鳥さんの言うことも。


 澤ちゃんは折衷案も出してくれた。とりあえずちょっかいを出してみていけそうだったら、ダメそうだったら辞めるというもの。


 ただ、そういう半端なやり方は戦場において良くないと聞いたことがある。


「停泊しよう、どうあっても」


 と、俺は決めた。


 これまで士気の大切さは数多くの戦場で見てきた。いまさら語るべきことでもないだろう。


「良い判断だ」


 土方は満足そうだ。


「ま、そう決めるなら僕も異論はないですよ」


 大鳥さんは反対しなかった。


「ではそうしましょう、榎本殿。ありがとうございました」


「うん」


 どうやらこれで会議は終わりらしい。


 俺たちは部屋を出た。


「榎本くん、どうですかこの後。少しお時間もらえないかしら」


 すると、大鳥さんがなにかしらを誘ってきた。


 なにかしらを。


 なにを?


「あ、あの……いや。え?」


 キョドってしまった。


 いきなり何、この人。怖いんだけど、なんで俺を誘うの?


「うふふ。どうです、お茶でも」


「いや、自分お茶はちょっと……また今度で」


 なんか『自分』とか言っちゃったし。


「あら、そう? 僕ふられちゃったかな?」


「あ、あはは……」


 なんだこの人?


 俺は怖くなって逃げるように自分の部屋に戻った。


 扉を開けて、ベッドの上で本を読んでいるシャネルに近づく。


「おかえりなさい」


 シャネルは少しだけ俺を見るために顔を上げた。


「なんか疲れた」


「ちょっと話をしてきただけでしょう?」


「そうなんだけどさぁ」


 なんというか慣れてないんだな、異性から好意のようなものを向けられるのは。


 警戒してしまうのだ。


「疲れてるなら寝る?」


 シャネルは少し場所を開けてくれる。ここで寝転がれ、ということだろう。


 それも良いのだけど……。


「それよりあいつ、何してるの?」


 部屋の隅で芋虫のように転がっているアイラルンがいる。


 俺と同じように疲れているのだろうか?


「さあ、死んでるんじゃない?」


「おいおい、そんなことってあるか……?」


 うつむけで倒れている。


 俺はアイラルンの元にいき、ゆすってみた。


「おい、アイラルン。起きろ、アイラルン。寝るんならベッドで寝なさいよ」


「…………」


 起きない。


 それとも無視してるのか?


「この女神、いつから寝てるの?」


「さあ、ついさっきまではお酒飲んでたけど」


「またかよ……なんてダメな女神なんだ」


 おい、起きろよと俺はアイラルンを蹴りつけた。


 それでもおきないのでひっくり返して仰向けにする。


 すると……。


「オエッ……」


 アイラルンの口からなんだかドロドロした気持ちの悪い液体が流れ出した。


 ゲロだ。


「うわっ、きたねえ!」


 俺はとっさに距離をとる。


 なんというかもう、人間として酷いんじゃない? いや、人間じゃないとしてもさ。


 もうこいつ生きてる価値あるの?


「寝ながら吐いちゃったの?」と、シャネル。


「そうだよ、もう最低だよ!」


「それ、危ないんじゃない?」


「え?」


「たぶん息、できてないわよ」


 マジか、と俺はアイラルンにもう一度近づく。


 たしかに青い顔をしている。


 もともとかなり色白の肌だが、それが薄っすらと青みがかって、目も白目を向いていて、胸だけは元気に上向きにはっているが、色気なんてまったく感じない!


「ど、どうしよう!?」


「しょうがないわね」


 シャネルはやおら立ち上がる。


 そして何をするかと思えば、アイラルンの口に指を突っ込んだ。そしてグポグポと音をたててゲロをかきだす。


「す……すごいねシャネル」


「べつに。ちょっと汚いだけよ。貴方が同じことしてもやってあげるわ」


「いや、さすがに寝ゲロするくらいは飲まないぞ」


 シャネルが目を細めて俺を見る。


 なんだ、なにを言いたいんだ?


 ま・さ・か。


「ま、最近は少ないわね」


「すいませんでした!」


 俺は土下座する。


 たしかに、たしかに酔って記憶がなくなることは何度かあったけど。


 え、もしかして俺もやってたの?


「ま、いいけどね。ちょっとそこの水とって。手を洗うから」


「どうぞ、シャネル様」


 これはもうシャネルに頭が上がらないな。


 少しするとアイラルンは意識を取り戻したようだ。どの道、殺しても死なないような女神だ。


「はっ!? わ、わたくしなにを!」


「お前さぁ……本当に迷惑な女神だよな」


「もしかしてわたくし、吐いてました? 寝ゲロ、しちってました?」


 そこらへんにこびりついた吐瀉物を見てアイラルンが恥ずかしそうに聞いてくる。


 いちおうこいつにも、ちょっとは羞恥心が残っていたらしい。


「反省しろ」と、俺は言う。


「ジョン・ボーナムみたいになるところでしたわ!」


「誰?」


 たぶん人名、だよな。


「ふう……シャネルさん、しょうじきごめんですわ!」


「死んでくれてもいいのよ?」


「おほほ、朋輩見てください。こうして冗談も言ってくれるんですわ、嬉しいですわね」


「いや? わりと本気で言ってると思うぞ」


「おほほ……うえっ」


 やばい、また吐きそうになってる。


「アイラルン、甲板に行くぞ」


「乾パン? そんなパサパサしたものいま食べたくないですわ」


「ちげえよ、バカなこと言ってるな」


「はあ……シンク、さっさと連れて行って」


「分かってる」


 フラフラしているアイラルンに肩を貸して部屋を出る。


 まったく、こいつは黙ってれば美人なんだけどな。


「朋輩……申し訳ありません」


「謝るくらいなら最初から飲むなって」


「うげぇ……」


「ほら、もう少し待て。ったくよ……」


 そして甲板に出ると、当然のように豪雨の中にあるわけで。


 俺はアイラルンを蹴飛ばして一人屋根のある場所で待っていようかと思ったが、そんなことすると海に落っこちそうなので俺も外に出ることにする。


 ザアザアと矢のように降る雨の中、俺たちは外に出る。


 こんなときだし甲板に出ている人は少ない。というかほとんどいない。


 けれどよく見れば舳先へさきの方に1人いた。


 誰だろうか?


 俺はその人のことが気になった。


「朋輩、もう、もう吐きますわ……」


「ああ、分かった分かった」


 俺はアイラルンを甲板の隅につれていき、海に向かって口を開かせた。


 いちおう背中をさすってやる。


「うえぇぅ……おええっ……」


 吐いている美女。


 なんていうか、こういうのが好きな人もいるのだろうか?


 おや、あちらに立っていた人間がこちらを見ている。


 誰だろうか、と思ったら近づいてきた。


 近づいてきて、分かった。それは土方歳三、その人だった。


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