613 ことわざデー
タケちゃんの部屋はつまるところこの開陽丸の船長室であり、一番上等な部屋であるはずだった。
しかしスペースが限られている船の中ではいかに船長室といえどそれほど広いスペースがあてがわれるわけでもなく。人が2、3人でも入ればいっぱいになるようなものだった。
テーブルに、椅子。そして本棚。
なにかしらの面白いものといえばテーブルの上の地球儀くらいで、この部屋にはベッドすらない。
ベッドがなければ恋人たちは愛し合うこともできない――わけでもないだろうが。ま、俺ちゃんの場合はベッドがあろうと無かろうとそんなことはできない。自分、童貞ですから。
さて、こんな狭い部屋の中には俺とシャネルがいた。
シャネルは部屋の隅の方に昔着ていた服を絨毯のように敷いて、その上に横になり、タケちゃんの蔵書を読みふけっていた。
「面白いか?」と、俺は聞く。
ちなみにこの質問は5回目だ。
「面白いわ」
と、シャネルも5回目の回答をする。
はあ、と俺はため息を付いた。俺は面白くないのである。つまり暇なのだ。
「シンク、ため息はダメよ。ため息は」
「これは深呼吸だよ」
「あはは、面白いわ」
嘘つけ。
自分でもびっくりするくらい面白くないことを言ったものだと、内心で喝采を送ったくらいだ。ああ、これも面白くないね。
どうも暇を持て余すと人はユーモアを錆びつかせるらしい。
俺はテーブルの上に置かれた地球儀を回してみる。カラカラと音がする。この異世界にはどんな形をしているのだろうか。丸いことは確かだが、大陸の形はどうだろうか。
それは精巧に作られた複製品のように、俺が元いた世界に似ていた。
――複製品?
あるいはどちらが。
俺は直感を働かせてみたが、俺のいた世界とこの異世界、はたしてどちらがオリジナルの世界なのかその答えを見つけることはできなかった。
「飽きた服でも、こういう使い方もできるものね」
シャネルはポツリと呟いた。
昔着ていた服と言ってもすでに着られないものではない。むしろ片手で数えるほどしか袖を通していないものばかりだ。服は高級品だ、もったいない。
「寝心地はどうだよ?」
「ええ、最高よ」
「そりゃあけっこう」
「シンクも寝転がってみる?」
それはなかなかうれしいお誘いだった。
自分の好きな人が着ていた衣服にくるまれて眠るというのは楽しそうだ。きっとシャネルの甘い匂いを肺いっぱいに取り込めるだろうさ。でもそれって変態っぽいから。俺は「けっこうです」と言った。
「あら、そう」
「それよりシャネル、なんか面白い話でもしてくれよ」
これじゃあ退屈で死んでしまう。
いまこの船はどこらへんにいるんだろうか。北海道は近いのか? 地球儀を見てもまったく分からない。
「楽しい話が聞きたいんならアイラルンのところでも行ったら?」
「やだよ、あいつアル中だもん」
どうせいまもどっかで飲んでるか、吐いてるかだろう。
「あらシンク、貴方がそれを言うの?」
「言うことは自由だからね」
「じゃあ私も言わせてもらうけど、そんなに暇ならお酒でも飲んだら? お好きでしょう?」
むっ……。
「いや、やめておく」
「どうして?」
「なんというか、アイラルンのこと見てたら俺はもしかしたらとてもダメな人間何じゃないかと思えてきてな」
「続けて」
「つまりさ、そういうのなんて言うんだったか? 人の振り見て我が振り直せってやつだよ」
「人をもって鑑となすってことね」
「鏡? ああ、まあそんな感じかな」
「良いことだとは思うけどね、あんまり飲みすぎるってのは良いことじゃないわ。過ぎたるは及ばざるがごとしってことね」
「なんだなんだ、今日はことわざデーか?」
シャネルがじっとこちらを見た。
俺はいたたまれなくなって目線をそらす。『ことわざデー』はさすがにつまらなさすぎたか?
「ま、なんでも良いのだけど。シンク、この本面白いわよ」
「なんの本だ?」
「この部屋の持ち主の日記よ」
「日記?」
この部屋の持ち主、つまりタケちゃんの?
死んだ人間の日記を盗み見るなんていい趣味とは言えないが、そういうものがあるのならたしかに気になった。
「なんて書いてあるの?」
「いろいろなことが書いてあるわね。この人、留学時代にはガングーの故郷にも行ったらしいわ」
「それってあの村のことか?」
シャネルが住んでいた森の中の村だ。
シャネル以外には誰もおらず――それはシャネルのあにであるココさんが殺した――村の中央には鏡みたいにピカピカに磨かれた石があった。
シャネルはあの石のことをなんと言っていただろうか? なにぶん昔のことで忘れてしまった。
「まさか。あの村は違うわ」
「そうなのか?」
「あそこはガングーが失脚したときに住んでいた隠れ家みたいな場所」
「失脚したのか?」
「駆け落ちとも言うけれど」
俺の頭には疑問符が浮かんだ。
名前はよく聞くが、そして金山の記憶の中で見たこともあるが、初代ガングーがどのような人間なのかは詳しく知らないのだ。
「ガングーはね、もともと島国の出身よ」
「そうなのか」
「厳密にはドレンスではない国だったそこは、いろいろな名前で呼ばれていたわ。でも島の人たちはそこを『タルパ島』と呼んだの」
「へえ。それでタケちゃんはそこに行ったのか」
「ええ」
「そこで何をしてたんだ?」
「死のうとしてたらしいわよ」
「え?」
シャネルはパタン、と本を閉じてしまった。
「さあ、人様の日記を読むなんて悪趣味なことはここらへんでやめましょうか。他になにかおもしろい本がないかしら?」
「おいおい」
お前が言うのか、という気持ちがした。
それに詳しく教えて欲しいとも。
こういうとき自分で文字が読めたら楽なのだろうが、あいにくと俺はこちらの世界の文字がまったく読めないのだ。
「気になるなら、あの人に聞けばいいわ。澤さんにね」
「澤ちゃんに……」
だがそれは無理だろう。
しかし気になる、野次馬根性だ。
だけどなぁ。
ふと、部屋の扉がノックされた。おや、もしかしたら澤ちゃんだろうか。というかこの部屋に来る人なんて澤ちゃんくらいしか想像できなかった。
だから俺はなんの警戒もなく、
「はーい」
と、扉を開けた。
しかし廊下に立っていたのは、知らない女だった。




