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611 待っていてくれたキャプテン


 港についたころには当然疲れているし、藩主の男なんて久しぶりに運動をしたのか、もう死んじゃうんじゃないかってくらいの元気のなさだった。


「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ……」


 やばめの呼吸を繰り返す。


「おい、あんた大丈夫か?」


 俺は心配して、思わず声をかける。


 しかし返事をする余裕もないようで、ふるふると首を横に振るだけだ。


「情けないのね」


 シャネルがカゴから降りてきて言う。


「しょうがないだろ。彼は頑張った」


 そりゃあ遅かったけどさ。力もなくてカゴを持つときすげえ揺れてたかもしれないけど。ついでに途中で仙台藩のやつらに追いつかれたりもしたけれど――。


 したんだけどね、あんまりにも藩主の男の姿が情けなかったのか。あるいは頑張っている姿に心をうたれたのか、邪魔をされることはなかった。もしくは下手にちょっかいをかけて藩主の男が命を落とすようなことがあってはいけないと思ったのか。


 最後の考えが、一番正しい気がする。


 そんなこんなで時間はかかったが、俺たちはなんとか港までやってくることができた。


 できたのだが、それはすでに遅きに失していた。


「ああ、開陽丸がもう出てる!」


 澤ちゃんが叫ぶ。


「しょうがないね」


 そうなのだ、ここに来るまでにかなりの時間がかかってしまっているのだ。それでも開陽丸は少しの間は待っていてくれたようで、その艦影を水平線のかなたに消してはいなかった。


 いまからなんとかすれば追いつけるだろうか?


 いや無理だ。俺の足を持ってしても水面を走ることなどできはしない。


「ど……どうするのじゃ」


 藩主の男が聞いてくる。


 べつにこの人は関係ないはずなんだけど、ここまで必死で走ってきた手前みょうな仲間意識みたいなものが芽生えているのだろう。


 こういうのなんて言うんだったかな。誘拐された人が犯人に好意を抱いちゃうような……。


(ストックホルム症候群ですわ、朋輩!)


 いきなり頭の中に声が響く。


「だから人の思考を覗くなって」


 テレパシーで喋りかけてきたのはもちろんアイラルンだ。


(あふれる想いは流線型ですわ!)


「なんだそれ?」


 シャネルがこちらを見てキョトンとしている。


「なにブツブツ言ってるの、シンク?」


「あ、いや。アイラルンがね」


「ああ、あの女神か。どこにいるのよ、あの子」


「さあ?」


(わたくし、開陽丸の中にいますわ!)


 ちゃっかり乗船しているらしい。ある意味では安心感のある女神だ。


「で、なんだよ」


 俺はまるで人の多い場所で電話がかかってきたサラリーマンのように、首をすくめ声を潜めてアイラルンと会話する。


(朋輩にシャネルさん、遅刻ですわ!)


「うるさいわね、この声」どうやらシャネルにも聞こえたらしい。「シンク、耳をえぐりましょうか?」


「えっ!?」


 嫌だ。


「嫌そうね。そうよね、あの女神の口を切っちゃった方が早いわ。それにシンクも傷つかないし」


(ひえぇ~)


 なんでシャネル怒ってるの?


「冗談よ」と、シャネルは言う。本当に冗談なのかどうかさえ分からない。


「そ、それでアイラルン。なんだよ。わざわざこうして声をかけてきたんだ。なんか言いたいことがあるんだろ」


(もちろんですわ!)


 べつに会話を楽しむつもりはない。早くしないと開陽丸は本当に見えなくなってしまう。


(朋輩、なにか忘れておりませんか?)


「え?」


 なにかってなんだ。


 俺はどちらかと言えば忘れっぽいタイプだが。でもたいていのことはシャネルがなんとかしてくれるのでこれまでやってこられたのだ。


「どうするの?」と、シャネル。


 その声には少しだけ怒りのような感情がある。


(あるではありませんか、朋輩の船が!)


「俺の船?」


 そんなのあったっけ。


「シンク、もしかして無駄遣いした?」


「してないしてない!」


(ありますでしょう、海賊船が!)


 ポン、と手を打った。なるほどですね!


「ああ、そういえばそうだったわね」


「キャプテン・クロウか!」


 申し訳ない、すっかり忘れていた。


 開陽丸は出たとしても、キャプテン・クロウは俺のことを待っていてくれるはずだ。


 港の中で海賊船を探す。『あっちあっち!』とアイラルンの声が聞こえるが、声だけではそれがどっちか分からない。


 なんとか勘を頼りになんとか海賊船を見つけた。


「あった!」と、俺。


「行きましょう!」と、澤ちゃん。


「なんとかなったわね」と、シャネル。


 そして……藩主の男は複雑そうな顔をして俺を見ていた。


 俺は少しだけ迷ってから笑いかけた。


「あんたとはここでお別れさ。城に戻っていいよ」


 たぶん仙台藩の人たちも、もう俺たちをどうこうしようという気はないのだろう。少しだけ離れた場所でこちらを伺っている様子がある。


「そ、そうか」


「べつに殺しはしなかっただろ?」


 だから俺は優しいんだ、というつもりはなかったが。


 藩主の男は無言で頷いて、それから名残惜しそうにシャネルに視線を向けた。シャネルはツンと澄ました表情でその視線を無視する。


「これから激動の時代が始まるから、あんたも頑張れよ」


 俺はなんとなくだが藩主の男にそう伝えた。いまが幕末であれば、これからが明治。日本という国が近代国家としての様式を確立していった時代だ。


 はたしてそういう時代が来るのかどうかは、いまこの異世界を生きている俺には分からないが。なんだかこんな時代がずっと続くような気がしていた。


「国を造ると、そう言っていたな」


「言ったね」


「できると思っているのか、本当にそんなことが」


「できるかどうかじゃないさ。何事も、やれると思って事にとりかからないと」


 最初から諦めていれば、できることだってできなくなる。できると思ってやれば、なんだってできるというのは違うけどね。しかしチャレンジ、それが大切だ。


「そうか」


「あんたもやりたいか?」


 そんな気がしたのだ。勘だけど、けれど俺の勘は――。


「まさか、仙台藩の藩主たるこの私がそんなこと」


 苦笑いをしている。


 暗愚ではあると思っていたが、悪いやつではなさそうだなと思った。そもそも悪い人間なんてこの世にいるのいるのだろうか? いや、いるだろう。でも少ないのかもしれない。案外人間ってのはみんなけっこう良いやつだったりして。


 だからこそ、ごく少数の悪人が目立つのだったりして。分からないけどね。


「そういうことなら、さらば。ああ、仙台藩のやつらに手は出させるなよ。そしたら穏便に出港できるからな」


「承知した」


 俺たちは海賊船へと走っていく。


 船の前にはキャプテン・クロウがいた。なぜか大笑いしている。


「やってくれましたな、榎本さん!」


 ひと目見て俺と気づいたようだ。


「いやぁ、どうしてこうなるんでしょうね?」


「詳しいことは中で聞きますよ! さあ、乗ってください!」


 俺たちは船に乗り込む。


 仙台藩とはこれでお別れだ。


 そして俺はこれから蝦夷に行く。なんだか実感がわからないけど。


「お前たち、船を出せ! 榎本さんが戻ってきたぞ!」


 わあっ、と歓声のようなものがあがる。


 久しぶりに俺は榎本シンクとしてここにいる気がしたのだった。



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