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605 澤ちゃんの涙


 タケちゃん少しだけ体重が重たいように感じられたけど、俺は一度も降ろすことなく宿まで帰ることができた。


 宿の扉を開けてそのさらに中へ。誰もいない、と思ったらアイラルンが待っていた。


「朋輩!」


 キンキンしたいかにもアニメみたいな声で叫ばれる。


 頭が痛かった。


「どうした、アイラルン」


「ああ、もう悔しいですわ!」


 アイラルンは子供っぽく地団駄を踏む。その仕草が非常に腹立たしい。


「どうした」


「先程ここにディアタナが来ましたわ! わたくしのことを散々バカにして帰っていきましたけれど!」


「そうかよ」


「なんですか、朋輩! わたくしがこんなに――」


 俺はアイラルンを睨んだ。


「おいっ」


 自分でも悲しくなるくらいに、落ち着いた声が出た。


「な、なんですの……?」


「黙れよ、お前」


「っ――」


 アイラルンが怯えた表情をした。


 べつに俺はアイラルンを威圧したかったわけではない。ただアイラルンがうるさく感じて、とにかく黙ってほしかっただけなのだ。


 だけどイライラしている俺はそのことをアイラルンに上手く伝えることもできず、また謝ることもできなかった。


「な、なんですの朋輩……怖い顔して。後に背負ってる榎本さんはどうしましたの? 酔いつぶれて寝てしまいましたの?」


 こいつは、本当に。


 悪気はないのだろう。それは俺も分かっている。だが俺が苛立つような事ばかり言う。


「寝てるように見えるかよ。え? お前の目は節穴か?」


「ま、まさか! その人っ!」


 アイラルンが後に回り込んでタケちゃんを見た。そして理解したのだろう。「ああっ……」と言葉を失ったようにつぶやく。


「分かったらさっさとどけ。澤ちゃんのところに行く」


「なるほど理解しましたわ。どうしてあのいけ好かない女神がわざわざわたくしのところへ来たのかを。あの女はつまりわたくしをバカにしに来ただけではないのですね。宣戦布告というわけですか、そうですか……」


「なにブツブツ言ってんだ、アイラルン」


「朋輩、ここまでくれば毒を食らわば皿までですわ。良いですわね!」


「……お前、俺に話しを理解させようって気あるか?」


 まあいいや。こんなやつに構っていたら時間ばっかりかかるからな。


 俺はアイラルンとの会話を切り上げるように、澤ちゃんがいるであろう部屋へと向かう。


 なんと説明しようかと考えた。


 俺のせいではない、と言いたいところだが、やはりタケちゃんを守れなかったのは俺なのだ。俺がもっとしっかりしていれば、タケちゃんが死ぬようなことはなかったのに。


「ああ……腹が痛い」


 なんだろうか、これは。ストレスというやつだろうか。


 胃が痛いだなんてそんな経験これまであまりしてきたことはなかったのだが。


「シンク、私の口から説明しましょうか?」


「いや、俺が言うよ」


 こんなことまでシャネルに任せてちゃいけないからな。


 部屋の入り口であるふすまがとんでもなく重く感じられた。それを、えいやっ! と気合というより破れかぶれで開ける。


 澤ちゃんは部屋の中央の座椅子に座って、なにやら読書をしていた。


「ああ、帰ってきたのですか」


 第一声はそれだった。


「――ッ」


 なにも、言えなかった。なにかを言わなければいけないのに。


「おや、榎本殿はどうかしたのですか?」


「あの、澤さん……」


 こんなときでなんだけれど、俺は澤ちゃんの名前をちゃんと覚えていなかった。


 澤なんたらこんたらと、長ったらしい名前だったことだけは覚えていたのだが。


 だから『さん』付けしたのだ。


「どうかしましたか?」


「ごめんなさい」


 俺はとにかく謝った。


 その謝罪の意味がわからないようで、澤ちゃんは立ち上がりこちらに近づいてくる。


「あれ、貴方ケガをしているんですか?」


 と、言いながら。


 たしかに俺はケガをしている。肩を斬られている。けれど俺が背負っているタケちゃんはもっと酷いのだ。心臓を貫かれているのだ。


 俺はタケちゃんをそっとその場におろした。


 畳が血で汚れたが、そんなことを気にしてはいられなかった。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」


 俺はその場に膝をついて頭を下げた。


「ちょっ……どうして謝って。えっ、これ? 榎本殿? 榎本殿!」


「その人、死んだのよ」


 シャネルが身も蓋もない言い方をする。


「死んだ、榎本殿が!? なぜですか!」


 澤ちゃんは放心したようにタケちゃんのそばに座り込み、ペタペタと頬のあたりを触っている。「冷たい……」と、絶望するようにつぶやいている。


「俺のせいなんだ、俺のせいでタケちゃんは死んだ。殺された」


「殺された! 誰にですか!」


「わからないんだ、いきなり襲われて。ただシワスって名乗ってた」


「シワス? 人斬り師走ですか? まさか仙台に入ってたなんて」


「有名人なの?」と、シャネル。


「有名……といえばそうでしょうね。幕府側からすれば悪名ばかりがとどろきますが、攘夷側からすれば、たしかに英雄といっても良い男ですよ。何人もの幕臣を殺してきた男です」


 澤ちゃんは悲しそうな目でタケちゃんを見つめていた。


「気をつけてって……言ったのに」


 その言葉には、後悔のようなものが感じられた。


 きっと彼女も思っているのだろう。もっと強く、タケちゃんのことを止めていれば、と。


 澤ちゃんの目から涙が落ちてきた。


「……すいません、半刻ほど、出ていってもらえませんか」


「ええ。そうするわ」


「その後に、今後のことを話し合いましょう」


 澤ちゃんは声を出さずに泣いていた。


 けれど、俺たちが部屋を出ると、部屋の外からでも分かるほどにすすり泣く声が聞こえてきた。そうだよな、泣くのが普通だよなと俺は思った。


 いや、それよりも。もっと俺のことを責めてくれれば良かったのに。


 泣く前に、俺のことを、ひどくののしってくれれば良かったのに。そうしないと俺が救われないじゃないか……。


 こんなときに、自分が救われたいと思っていることに自己嫌悪した。


 俺は誰かに救ってもらいたいのか?


 誰かに――貴方のせいじゃない――と、そう言ってほしいのか?


 最低だ。


 自分のせいでタケちゃんが死んだって言うのに。


「朋輩……」


 アイラルンは澤ちゃんの部屋には入らず、廊下に立っていた。


 まるで捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。もっとも、俺は捨てられた子犬なんて見たことがないけど。


「アイラルン、さっきはごめんな。ちょっと嫌な言い方した」


「いえ、良いのです」


 ああ、まただ。


 俺はまた誰かに許されたくてこんなことを言っている……。


 俺たちはそのまま、澤ちゃんを待つことになった。


 半刻――つまりだいたい1時間後、澤ちゃんがどんな顔をして出てくるのか。それは俺には想像もできなかった。


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