597 開陽丸の練習航海
タケちゃんが言うのは、ようするに俺たちのような外国人――もっとも俺は厳密な意味での外国人とも少し違うが――の影響によって、人々は外の世界を知ったためだという。
長いこと鎖国を続けてきたこのジャポネは、その間、自分たちだけで世界を完結させてきた。
しかし外国との関係を持ち、これまでのやり方ではやっていけなくなったのだ。
そうなったとき、もともとこの国を率いていた幕府と、それを打倒する勢力である新政府軍、その2方に支配層は分かれた。
その戦いは、紆余曲折のあとで新政府軍が勝った。
しかしこの場所には、まだ戦う意思のある人間たちが集まっている。
――残存兵。
嫌な言葉だった。
「人は変わるものよ、その人々の共同体である国が変わるのも当然のことでしょう?」
というのはシャネルの意見だが。
なるほど正論だろう。
悲しくなるほどに正論だ。
しかし変われない人間もいる。
俺がどこまで行っても俺であるように。イジメられっこだった頃の俺と、いまの俺にはなんの違いもないのだ。
開陽丸の船内を、俺はタケちゃんに案内してもらう。
どこの船もたいていい変わらないが、この船の中は通路も広くて歩きやすい。それだけ大型の船なのだろう。
「この先に私の部屋があるんだ。見ていく?」
「べつに野郎の部屋によっていく趣味はないけど」
行ってゲームがあるわけでもないのでしょう?
小さい頃はよく誰かの家でゲームとかやったけど、まあ中学生くらいの頃からなくなったね。高校に入ってからはイジメられてたし、もう皆無だった。
ちょっと嫌なことを思い出してしまった。
「ねえ、この船って木造船?」
「そうですよ」
「ふうん。どおりで腐ったような臭いがするわ。あんまり空気がよくないわよね、換気したほうがいいわよ?」
「男所帯なもので。どうもそこらへんは注意しても治らないのです」
そんな会話をしていると、通路の前からツカツカと規則的な足音をたてて澤ちゃんが歩いてきた。男所帯、というがちゃんと女性もいるのだ。
普通にすれ違えるくらいの通路だったが、澤ちゃんは真ん中で立ち止まりまるで俺たちを通せんぼするように腕を組む。
「これはこれは、榎本ブヨウさん。ずいぶんと遅かったですね」
わざわざあだ名で呼ぶ澤ちゃん。
おお、これは怒っているぞ……。
「澤ちゃん、さん」
タケちゃんもそれに気づいたのか。いつもの呼び方に敬称をつけて変な感じになっている。
「澤ちゃんと呼ばないでください! まったく貴方という人は――」
くどくど。
ああ、説教が始まってしまったぞ。
「長そうね」と、シャネル。
「だね」
「私たちだけで見て回る?」
「それもいいけど――」
なんていうかさ、人がお説教されてるの見るのって少し楽しいよね。
対岸の火事。
野次馬根性。
好奇心。
5・7・5! じゃあ、ないな。
「いったいこんな時間までなにをやっていたんですか!」
「いや、ちょっとシンちゃんと将棋を……」
「また遊んでばっかり! 今日はこれから開陽丸を出すという話だったでしょうに!」
「いや、だからこうして来たじゃないか……」
「遊び飽きて来ただけじゃない! ちゃんと、ちゃんと仕事をしなさい!」
「ごめんなさい……」
「まったく。申し訳ありません、またお見苦しいところを」
「良いのよ。うちのシンクが引き止めちゃったこともあるしね」
「え、いや……将棋はシャネルもやってたじゃないか」
「あら、そうだったかしら?」
「ま、まあ! とにかくこれで役者は揃ったわけだしさ。久しぶりの出港でしょ? 澤ちゃん、準備はできてる?」
「ヨーソロー。榎本殿待ちですよまったく、火は起こしてありますので」
「それは済まなかった」
どうやら今日はこの船を動かす日らしい。動かしてどこに行くのだろうか?
「どっか行くの? 買い出し?」
「ねえシンク、それってもしかして冗談のつもり?」
「え? ま、まあ」
つまらなかったかな?
「あはは面白いわ」
いかにもつまらなさそうにシャネルが言う。お世辞というやつだ。
「面白いだろ~、ほらシャネル、もっと笑っていいぞ」
やけくそになって言ってみる。
「あはは……」
むしろ可哀そうな人を見る目をされた。
「シンちゃん、もうやめたほうが――」
タケちゃんが忠告してくる。それがなんだか無性に腹がたって、
「なに! この、生意気な!」
俺はタケちゃんの脇腹をくすぐる。
「あっ! あはは、ぎゃはは! ちょっ、ちょっとやめてよ!」
「どうだ、どうだ! 面白いだろう!」
「いや、これ面白いとかとは違うから! ぎゃはは!」
「面白いと言え!」
「面白い、面白いから!」
「よし、許してやろう」
俺はタケちゃんをくすぐるのをやめた。タケちゃんはそうとう息が苦しかったのか、くすぐり終わったあともぜぇぜぇと息をきらせていた。
「なにやってるのよシンク」
シャネルが呆れる。
「俺が面白いのだということを証明したのだ」
「そう。満足かしら?」
そう真面目に聞かれたら……困るのだけど……まあ、うん、俺は面白くない冗談ばかり言うのだ。
「とりあえず甲板に行きますよ」と、澤ちゃん。
バカなことをやってるぞ、みたいな目をされる。
はいはいどうせバカですよー。
俺はその場に倒れているタケちゃんに手を貸す。ほら、立てよと。
タケちゃんはその手をおずおずと取ったのだった。
それから俺たちは甲板に出る。
普通に考えれば船の偉い人は船長室か、あるいは作戦指揮の部屋があってそこに居なければならない気がするのだが、どうやらジャポネでは違うらしい。
タケちゃんは堂々と甲板に立ち「それでは出港」と宣言する。
おそらく練習航海。
船はゆっくりと、なにかを確認するように進み始めた。
「大丈夫そうだね」と、甲板の舳先に立つタケちゃんが言う。
「整備は万全ですよ」と、澤ちゃん。
「どういうこと?」
俺は聞いてみる。
「じつはこの開陽丸なんだけどね、江戸から来るときに嵐にあって少しだけ壊れてる部分があったんだよ。それは言ったかな? で、それが直ったわけ」
「おおっ! それでこうして動かしてるわけか」
「そういうこと。澤ちゃん、この調子なら明日にでも行けそうだね」
「ですね。とはいえ明日の出発となると性急に過ぎます。もう少しだけ時間が欲しいところです」
「だね」
行くというのはどこへ? なんてのは愚問だ。
蝦夷地。
そこへ行くための船がこの開陽丸なのだから。
この場所にずっといるわけにはいかない。人は変わるのだから。




