593 その日の夜に
その日の夜だった。
俺たちは先日と同じ宿にいた。そして部屋も同じだ。
「シャネルは?」
「さあ、お風呂でありませんか?」
俺とアイラルンは2人で酒盛りをしていた。先程までそれをついでくれていたシャネルがいつの間にかいなくなっている。
少し、酔ってきている。
シャネルがいなくなったことにも気が付かないだなんて。
「このポン酒、美味しいですわね」
「なんだよポン酒って」
「日本酒のことですわ!」
「ふうん」
そんな呼び方もあるのね。そういえば昔ヤクザ映画かなにかで日本刀のことをポン刀と呼んでいた気がする。『日本』の『本』の意味だろう。
「朋輩はあまり好みではありませんか?」
「まあね。昼も茶屋で飲んだけど、微妙かな。アルコールの臭いがきつい」
それに色も悪い気がする。
日本酒といったら透明な美しい水のような色をしているイメージだったが、俺の目の前にあるこの液体は少し濁っている。
腐っているのだろうか? いや、けれどそういう味はしないし。たぶんこれが正常な色なのだろう。
「これが美味しいんですわ」
「アル中め」
「朋輩に言われたくありませんわ」
「お前は酒癖が悪いんだ、いつもいつも酔っ払って吐いてるやつが」
「あらひどい」
アイラルンはシャネルの真似をするように上品に笑ってみせた。
そういう仕草を見ていると、美しいというよりも女は怖いという感情が先だって。
「なあ、アイラルン。そろそろ話せよ」
いま、ちょうど俺たちは2人きりだ。
そう考えるともしかしたらシャネルは俺たちに膝を交えて話をさせるために出ていったのではないかという気さえしてきた。考えすぎだろうか?
「なにを喋りましょうか?」
「誤魔化すなよ。タケちゃんのことだ」
俺がタケちゃんと言うと、アイラルンはどこか悲しそうな顔をした。
「ああ、榎本さんですの」
「榎本って言ったらどっちか分からないだろ」
「でしたらブヨウとでも呼びましょうか?」
「そのブヨウって呼び方はなんなんだ?」
「有職読みというやつですわ。人の名前をあえて音読みすることですわ」
「ああ、だから武揚でブヨウか、なるほど。俺だったらなんだ?」
「朋輩でしたらシンコウですわ」
「ああ、そうか」
ふうん、そういう感じで人の読み方が変わることもあるのか。勉強になるなぁ。
「それで、そのブヨウだが。お前はどうして俺がタケちゃんに肩を貸すのを反対する?」
「なぜかって……それは朋輩に悲しんでいただきたくないからですわ」
「俺が悲しむ?」
はい、とアイラルンは頷く。
「どうして俺が悲しむんだ」
「簡単ですわ。だってあの人は……負けますから」
「負ける?」
「はい。負けます。この戦い、榎本ブヨウは完膚なきまでに負けることになるでしょう。ねえ朋輩、わざわざ負け戦に手を貸すことはありませんわ。たしかにわたくしはディアタナへ復讐をしたい。したいですが、タイミングというものがあります」
「なるほどね」合いの手だ。
「ここでどうしても戦わねばならぬわけではありません。ここは一旦引いて、大勢を立て直しましょう。思うにこれはディアタナの罠と言うべきものですわ」
「罠ねえ」
「わたくしたちを負け陣営に入れて、殺す気ですわ!」
「そうかそうか」
酒をいっぱい、飲む。
酔ってきたからかは分からないが、最初に飲んだときほどのまずさは感じなくなっていた。
「あまり深刻に考えていないようですわね」
「そりゃあね。こういう言葉を知ってるか? 負けるつもりで戦うバカがどこにいるってね」
「勝負は下駄を履くまで分からないということですわね」
むしろその言葉は知らないが……。
「まあ、なんとかなるだろ」
俺は酒を飲んでいたのでものを深く考えられなくなっていた。
「朋輩、この際ですので忠告しておきますが。少々ご調子に乗り遊ばせではないことですこと?」
「ことこと?」
「そうやってすぐに茶化す」
いや……ふざけた言い回しをしたのはそっちだろ。
とはいえアイラルンの言っている意味も理解できた。
たしかに俺は心のどこかで自分がやればなんとかなると思っていた。無理を通して道理を引っ込ますのだと。これが調子に乗っていると言わずになんと言う?
俺にはたしかに自分では気づけていないおごりがあった。
それに気づかせてくれたのは、目の前のアイラルンだ。
「ごめんなさい」
「あら朋輩、謝ることではありませんわ。自信があるのはけっこうなことですわ。ただ足元をすくわれないように、と申しているのですわ」
「気をつけるよ」
「それが良いですわ」
アイラルンはにっこりと笑った。笑ってから、酒を飲んだ。そして青い顔をする。
「うっぷぅ……」
「お、おい」
「ま、まずいですわ朋輩……産まれますわ」
「なにが!?」
「わたくしたちの子供ですわ、認知してくださいませ」
「しないよ!」
こいつはよぉ、少し真面目な話をするとこれだ。
まだ聞きたいことがあったのに。
とはいえ、アイラルンが最初に心配していたことがなんなのかは分かった。タケちゃんは負けるので、一緒になって負けることはないとそう言っていたわけだ。
「おい、アイラルン。ここにゴミ箱あるから。本当にひどければここに吐いとけよ」
「サンキューですわ、朋輩。おえぇええええ――」
俺がゴミ箱を渡すと、アイラルンはなんのためらいもなくゲロを吐いた。
これが本当に女神ですか?
「お前もう飲むのやめろよ」
「飲まなくちゃ……おええ……やってられませんわ!」
あっそ。勝手にしてくれよ。
部屋のすみっこの方でゴミ箱を抱きかかえて吐いているアイラルン。最低のつまみである。
これじゃあ酒までまずくなる。
「まだお前に聞きたいこと、あったんだけどな」
「おえええぇ」
アイラルンは俺の言葉が聞こえていないのか、まだ吐いている。
しばらくすると胃の中のものが全部出たのだろう、おえ、おえ、と空嘔を繰り返す。
俺も経験があるが、これが本当に辛いのだ。
吐くものなんてもうないのに胃の中が痙攣し続ける。救われることのない地獄とはこういうものかと錯覚させるのだ。
「大丈夫かよ、アイラルン」
「おえ!」
それが返事だとばかりにアイラルンは吐く。
はあ……。
「なあ、あんたさぁ」
俺はどうせ答えないんだろうなと思いながら、一番聞きたかった質問をすることにした。
「あんた、俺の元いた世界の神様だったんだな」
アイラルンは何も答えなかった。
かわりにまた「おえ」と吐いた。
俺はなんでかしらないが、吐くよりも泣きたい気分だった。こいつも大変なんだろうな、とどこか他人事に思って、濁った酒をひとくち、また飲んだ。




