564 クラーケン
海はまったく揺れていない。だというのになぜか泡がブクブクと音をたてて海面ではじけていた。
「こりゃあ、まずそうだな」
船体の下に、黒い影ができている。その巨大さたるや、小さな島くらいのものに見える。
「あばば、あばば! 朋輩!」
船の甲板にアイラルンが飛び出してきた。海賊騒ぎでは起きてこなかったが、ことクラーケンとなればさすがに目を覚ましたのだろう。
「おう、おはよう」
「はい、おはようございます。って、違いますわ! まずいですわよ、朋輩!」
「そう騒がないで」
シャネルがやんわりとたしなめる。
「しかしシャネルさん! この感じは幻創種、それも超特大のですわ!」
えらいこっちゃ、えらいこっちゃとアイラルンは俺たちの回りをぐるぐると小走りでまわる。うっとうしいことこの上ない。
「あんまりやってるとバターになるぞ」
と、俺は適当に言った。
「朋輩、このままでは危ないですわよ!」
「分かってる」
さて、どうしたものか。
「そりゃあ朋輩は死なないかもしれませんわ! けれどわたくしやシャネルさんは死ぬときは死ぬんですわよ!」
「お前はともかく、シャネルが死ぬのは困るな」
「ポッ」と、頬を赤らめるシャネル。
「むきー!」と、地団駄を踏むアイラルン。
遊んでいる場合ではないのだがね。
「榎本さん、すぐに船内に入ってください!」
キャプテン・クロウが慌ててこちらに近づいてくる。
「いまさら中に入っても沈むときは一緒でしょう」
俺は少しだけ笑いながら言う。不思議なくらい緊張しなかった。俺も場数を踏んできたということだろう。これくらいの敵――。
「豪胆ですね、はっきり言っておきますがこれ以降は命の保証はできませんよ」
「分かってますって」
それはキャプテン・クロウも一緒なんだから。
いまさらそれで文句は言わない。
「船長、ダメです! 船がまったく進みません!」
「クソ、やっぱりか! おい、射角を下にして大砲をぶちこめ!」
「はい!」
まるで遊んでいるように、クラーケンはその影だけを俺たちに見せてまったく姿を現さない。
船から一斉に大砲が海面に打ち込まれても、それは変わらなかった。
「魔法でやってみましょうか?」
シャネルが俺に提案してくる。
「いや、得意の火属性魔法じゃ海に向かってうっても効果は薄いだろ? なら相手が姿を見せるまで待つべきだ」
「わたくしも朋輩の意見に賛成ですわ!」
「なあ、アイラルン。お前は中に戻ってろよ。ここにいちゃ危ないぞ」
戦闘能力がないんだから、ここにいても邪魔なだけだ。
とはいえ邪険に扱うわけにはいかない。これでもいちおう女神なんだから。だから俺はいかにも体をいたわっているような感じでアイラルンに言う。
「朋輩、わたくしを心配してくださいますのね! でも大丈夫、こうなれば健やかなるときも病めるときも一緒ですわ! わたくしたち、死のときは一緒!」
なんか重い……。
「なんで私が貴女と死ななくちゃいけないのよ」
「え、どういうことですの?」
「私だって死ぬときはシンクと一緒よ。2人で死にたいの。貴女は邪魔」
うわぁ……ここにも重い人がいた。
しかもアイラルンの場合は半分冗談かもしれないがシャネルの場合は本気だ。
両手に花って状況には男ならまあ、憧れるかもしれないけど。こういうのは勘弁だな。
俺はもう少し普通の恋愛がしたかったよ。
でも無理なら無理と諦めるべきだ。
「やれやれ」
敵がどういうつもりか分からない。なので俺は意識を集中させ、敵の出方をうかがうことにした。
巨大な気配がこちらを狙っている、それは理解できた。
海賊の1人が、まったく反応を示さないクラーケンをいぶかしんで、甲板の隅の方へいく。そして海面を覗き込んだ。
その瞬間。
巨大な触手が伸びてきて、海を覗いていた海賊の胴体に巻きついた。
「うわっあっ!」
叫び声。
それが消えないうちに海の中へと引きずり込まれる。
とうぜん俺は目で追うことができた。だが他の人はどうだろうか、一瞬で仲間の海賊が消えたように見えたのではないだろうか。
それくらい素早かった。
「お、おい。いま、あそこにテッドのやつがいなかったか?」
たぶん、海の中に引きずり込まれた男の名前だろう。
「まさかクラーケンにやられたんじゃ」
「ウソだろ!」
よく見れば先程男がいた場所には海水が散らばっていた。
それを目ざとい海賊が発見する。
「クラーケンに飲み込まれたんだ!」
そしてそう叫んだ。
1人が海に飲み込まれる。それだけで海賊船の中はパニック状態になる。
いかにも年季の入った海賊たちが我を忘れて逃げようとする。クラーケンというのは船乗りからしたらそれだけ恐れられた存在なのだろう。、
「お、おいてめえら! 中に入ってどうする! 戦え、戦うんだ!」
キャプテン・クロウが引き留めようとするがダメだった。
怯えた海賊たちはもう出てくることはできなくなるだろう。
それでも数人の海賊たちはまだ外に残っていたが。
プッ。
と、なにかが噴水のように海面から吹き出した。
それは黒い――墨だ。
その墨が、空を覆った。
あたりはすぐさま夜のような暗さになる。
いや、それよりも酷い。まったく光源がないのだ。
ドンッ、と音がした。それがなんの音なのか分からない。
「ぎゃっ! 太陽がかくれましたわ!」
暗闇の中でアイラルンが叫ぶ。
「うるさい、黙りなさい」
シャネルは冷静に火属性魔法で明かりをつけた。
その瞬間、俺はあたりが血まみれになっていることに気がついた。
いまの一瞬で、何人もの人間が、叩き潰されていた。




