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541 ピンチはピンチ


 じつのところ言えばシノアリスはそんなに強いわけではない。


 そりゃあ弱くはないが、そこまで強いわけでもない。


 自分よりも強い人間はこの世に五万といる。


 目の前の男もおそらくは……。


「困りましたね」


 どうしたものか。シノアリスは考える。


 武器がないのも問題だが、それよりも目の前の男の腕が気持ち悪い!


「殺すのはしのびない。けれどキミのような子供を生き残らせていてもしかたがない」


「いやーん、シノアリスもっと長生きしたいな~」


 距離をとろうとする。しかしタイミングの悪いことにシノアリスの後ろからも敵がきた。


「こっちだ!」


「集まれ!」


 と、男たちのど号のような声がひびいてくる。


 細い道だ、逃げる場所もない。


 こうなれば色仕掛けでも使ってなんとか生き残る道を探すべき。


「う、うっふ~ん」


「何をしているんだ?」


 あまり意味はなかった。


 ちょっと扇情的なポーズをとってみたものの、ダメだった。


 こういうときのために予備の武器を持っておけばよかった。


 とはいえシノアリスの持っているスキルは『ガリアンソード』のものだけ。この武器を使っているときしかパラメーターにバフはかからない。


「さてはて、どうしたものでしょうね」


 そう言いながら、シノアリスは目を猫のように見開く。『鑑定眼』のスキルを発動させた。


 敵を知り、己を知れば百戦あやうからず。


 いつもならば悪癖ともいえるこの他人のスキルを覗き見する癖、しかしこういった戦いの場においては何よりも情報のアドバンテージとなる。


『ヨーガ武術A』


 相手の持つスキルはたった1つだけだった。


 しかしそれは武術系のスキル、しかもランクは『A』だ。


 これはかなりの上位スキルで、相手が悪いとシノアリスは悟った。


「ああ、これは無理ですね」


 そして諦めた。


 勝つことはできない。


 許してもらうこともできない。


 ならばあとできることはただ1つ。


 死ぬ気で逃げるだけだ。


 前にいる男は無理。ならば後ろだ。


「うふふ」


 シノアリスは笑った。


 きついときこそ笑顔で。そうでもしなければ異教徒たちの教主なんてやっていられなかった。


 ピンチなんてこれまで何度も乗り越えてきたのだ、そのたびに逃げ足もみがかれてきた。


 相手の男はシノアリスの笑いを不敵ふてきなものととったのだろう。


 警戒するように、両腕を胸の前でクロスさせた独特の構えをとった。


「ちらっ」と、口に出しながらシノアリスが自らの武器であるリボンを見た。


 相手の男もそれに視線をやる。


 その瞬間だった。


 シノアリスは振り返ると脱兎だっとのごとく走り出した。


「なっ――!」


 相手の男は驚いたのだろう。


 まさか逃げるとは思わなかったのだ。


 シノアリスは立ち止まらない。後ろからも敵が迫っていたが、その中を突っ切っていく。


 男たちはこぞって剣に類する武器を持っていた。


 それでシノアリスを傷つけようとしてくる。


 ――かまわないわ。


 シノアリスは覚悟を決めた。


 どれだけ体を斬られようと、死ぬよりはマシだ。


 こういった思い切りの良さは彼女の武器である。


 どれだけ体を斬られようと、数人もいる相手の隙間をかいくぐりながら武器も持たずに駆け抜ける。


 けれどとっさに顔だけは守ってしまう、女の子なのだから。


 人間、やる気さえあれば意外といろんなことができるものだ。


 シノアリスは体中を傷つけながらもなんとか逃げ切ることに成功した。距離をとり、誰も追ってきていないことを確認する。


「ふん、口ほどにもない。今日のところは勘弁しておいてあげますよ」


 そして完璧な負け惜しみを吐いた。


「ああ、それにしても慣れないことなんてするべきじゃありませんね。大事なガリアンソードも失ってしまって。どうしましょうか」


 こういうときに腐ってしまい、諦めてしまえばそれは異教徒として二流だ。


 因業の使徒なんてやっていればこれくらいのピンチは日常茶飯事なのだ。


 九死に一生を得るどころか、それを更に倍にして十八死に一生くらいを生き延びなければいけないのだから。


 異教徒として一流のシノアリスはどんな状況でも諦めない。


 諦めの悪さも彼女の武器。


 そしてこういうとき、彼女の思考回路は他人に対する八つ当たりをすることで奮起する。


「そもそもあのワンとかいう男が悪いのです! あいつさえいなければ! こうなれば意地でも文句を言ってやるしかありませんね!」


 そう決意した彼女はちらっと船の時間を見た。


 なるほど、船の時間は迫っていた。


 しかし――


「船の時間がなんですか! この私が乗らない船なんて意味がありません! むしろ私を待っていなさいバカッ!」


 どこからともなく拍手が聞こえた。


『その調子ですわ、シノアリス!』


 アイラルンの声だ。


 どうやらあのワンという男を探すことは、アイラルンが望むところでもあったらしい。


 いちいち答えを言わないのがアイラルンという女神だ。


 それは必要以上に人間たちの世界に干渉しないという女神としての方針だ。べつに意地悪をしているわけではない。


「アイラルン様、見ていてください! シノアリス頑張りますよ!」


 血まみれの少女が街の一角で雄叫びをあげている。


 しかも口にするのは邪神の名前だ。


 もし見ている人がいればぎょっとしただろう。


 だが幸いなことに周りには誰もいなかった。いや……不幸なことにというべきかもしれない。なぜならシノアリスはあきらかに血を流しすぎていたからだ。


 このままならば出血多量で死ぬだろう。


 それくらい全身が傷ついていた。


 誰かに助けてもらわなくてはいけない。


 けれど誰も助けてくれない。


 ならば自分でやるしかない。


「ぜんぜん痛くないですし!」


 と、シノアリスは叫ぶ。


「まだまだ頑張れますし!」


 と、笑う。


「待っていてくださいね、お兄さん!」


 シノアリスは走り出した。


 血が目に入ればぬぐい、口に入れば飲み込んで、地面に落ちれば道となる。


 シノアリスは異教徒だ。


 ピンチはチャンス、なんてバカなことは言わないが。ピンチはどこまで行ってもピンチのままだが――それを跳ね返すだけの根性がある。


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