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537 シノアリスとアイラルン


 シノアリスは上機嫌に笑っていた。


 うふふのふ。


 ただ1人で古びた教会にいるシノアリス。その手には上等な紙で作られたチケットが持たれていた。そのチケットを手のうちでもてあそぶ。


「いやはや、アイラルン様にも困ったものですね。こんなチケット一枚手に入れるためにずいぶんと苦労させられました」


 チケットはグリース行きの船のものだった。


 このご時世、グリース行きのチケットを手に入れることは困難だ。なぜならあの国はいままさに世界中を相手取り戦争を始めたのだから。


 どこの国も国交を断絶している。戦争なのだからしょうがないとは言え、いまから向かおうという人間にとっては迷惑な話だ。


『シノアリス……シノアリス……聞こえますか?』


 突然、教会の中に声が響いた。


「はい、聞こえますよアイラルン様」


 それが誰の声かは一瞬で分かった。


首尾しゅびは上々のようですわね。乗船券も無事手に入ったご様子で』


「まあなんとかですがね。それよりアイラルン様、気になることがあって……」


『あら、どうかなさいました?』


 声は聞こえるが姿は見えない。


 しかしアイラルンは確実にこちらを見てくれているのだ。


「あのですね、このチケット2人ようなんです。その分、お金を取られましたよ」


『それは災難でしたねですが私たちにはどうしても不幸がつきものです。そういう星の元に生まれてしまったのですから、多少のことは諦めましょう』


「それは分かっているつもりなんですがね」


『よしよし、因業なシノアリス。本当はそちらに行って頭を撫でてあげたいのですが』


「べつにいいですよ」


 ふとシノアリスは考えた。


 アイラルンは最近魔力がないとかであまり姿を現わさないが、それも何かしらの不幸による影響なのだろうか?


 なにかしら大量に魔力を使ったらしいとだけ。


 シノアリスは知らなかったのだ。アイラルンの魔力が枯渇しているのはシンクたちをあちらの世界からこちらの世界に送り込んだためだということを。


「それでアイラルン様、これからグリースに行ってお兄さんのことを助ければ良いんですね?」


『その通りですわ。シノアリス、私の朋輩はいまとても険しい戦いを始めようとしております。様々な仲間たちが朋輩を助けてくれるでしょう。しかしそれでは足りないはずです』


「はい」


『その最後の助っ人がシノアリス、貴女ですわ』


「なんだか責任重大ですね」


『ですよ。ついでに言えば敵はかなり強いと思われます。貴女1人では勝てるかどうか……』


 それでも行きますか? と、アイラルンはそういうニュアンスを含めて言う。


 シノアリスはクスリと笑った。


「おまかせください、アイラルン様。お兄さんは私の恩人でもあります。いくら因業な異教徒であっても、恩を返さなければそれは人として間違って行為です」


『その通りですわ! ああ、シノアリス。貴女はなんて素晴らしい信者なのでしょう』


「あまり褒めないでください」


 照れるシノアリス。


 それに対して可愛らしいと連呼するアイラルン。


 古びた教会に可愛らしい声が響く。それだけ聞けば仲の良い姉妹のようだが。実際にはアイラルはこの世界の人間にほとんど全てに嫌われており、シノアリスにいたってはその信者だ。土地柄によってはそれだけで処刑されかねない。


 そしてその土地柄とは、まさにここ――イッドと呼ばれる国だった。


 だがこの教会の中は安全であるとシノアリスは知っていた。


 なにせこの教会は異教徒たちのもの。


 すでに教会としての活動はやめてしまったようだが、みんな不気味がって近づいてこない。


 こういった異教徒たちのための教会はこの世界に複数あった。しかしそのどれもが寂れて、人が寄り付かなくなっている。そのため犯罪の温床おんしょうになっていたりする。ある種の社会問題だった。


「そういえばアイラルン様」


『どうかしましたか?』


「今日ですね、変な人を見回しよ。このチケットを貰いに行ったときに」


『ああ――』


「見ていましたか? あの人、お兄さんと同じような動きをしていました」


『うふふ』


 いきなりシノアリスは肩に手を置かれた。


「きゃっ!」


「シノアリス、それってもしかして恋バナですか?」


 アイラルンだった。魔力も少ないと言っていたのに、わざわざ出てきたのだ。


「違います!」


「そう照れないで。大丈夫、誰にも言いませんからこのアイラルンにだけ教えて下さいまし。れたんですの?」


「まさかそんなわけありません。ただお兄さんが懐かしかっただけです」


「そうですか、そうですか」


 美しい女神だ、とシノアリスは久しぶりに見たアイラルンを見て思った。


 アイラルン憎さに芸術作品においてその容姿はみにくく描かれることが多い。しかし実際のアイラルンは息を呑むほどの美女だ。


 シノアリスも自分の容姿に自信はあるが、少々ロリロリしすぎているのを自覚していた。


「でもあの人――うふふ」


「なにかあるんですか?」


「いえ、ただこの世のめぐりあいとは面白いものだな、と」


「なにを言いますか、どうせそのめぐりあいを決めているのはアイラルン様でしょうに」


「あら? 私は女神とはいえ何もかも決められるわけではありませんわよ、とくにこの世界では。それとなく手助けすることはできて、最後の最後は人の意思にまかせております」


「それはそうでしょうが」


「シノアリス、そんなに気になるならその殿方ともう一度会ってみたらよろしのでは?」


「どうしてそうなるんですか」


 べつに気になっていたわけではない。


 アイラルンの邪推するとおり恋心を抱いているわけでもない。


 ただ本当に懐かしかったのだ。


「というかシノアリスにその気がなくても……」


「なんですか?」


「さてシノアリス、早いですが私はそろそろ行きますわ」


「分かりました、また何かあれば」


 少し気になったが、聞いて教えてくれる相手ではない。


「はい、ご武運をシノアリス。これは女の子にかける言葉ではありませんわね」


「あなた様の信者にかける言葉としては正しいかと」


 そうですね、とアイラルンは微笑んで。


 そして消えた。


 いつもこうなのだ、出てくるときも突然ならば、帰るときも突然。


「なんだかね、そういうかただとは知っているのですが」


 気がつけばもう夜だった。


 そろそろ夜ご飯の買い出しにでも行こうかなとシノアリスは思い、教会を出る。


 するとどうだろうか。教会の裏手の方から猫の鳴き声がした。


「あ、猫ちゃん!」


 シノアリスもこういうところは幼い女の子だ、可愛らしいものには目がない。


 くつろいでいるところを捕まえて頬ずりの1つでもしてやろうと思い、シノアリスは教会の裏手へと回った。


 すると、猫は思いのほかたくさんいた。


 そして猫以外に人間も。


「ん……? お前は」


 シノアリスはそのとき、アイラルンが言っていた言葉の意味をなんとなく知った。


「はあ……ワンさん、でしたか?」


「また会うことになるとはな」


「あら、私は知っていましたよ」


「なにをだ?」


「また、お会いすると」


 こうなれば毒をくらわばなんとやらだ。


 シノアリスはそう思うのだった。


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