447 財布をなくした朝
「なんか揉め事で?」
と言った俺に、男は威圧するような視線を送ってきた。
「ああっ? なんだよ、クソガキ」
クソガキ!
そうか、俺はまだガキなのか!
言われてみればまだ18だものな。なんかいろいろなことがあったせいで大人のつもりになっていたけど、本当の大人から見ればまだまだガキなのだな。
それがちょっと嬉しくもあり、また気恥ずかしくもなった。
「俺が大人か子供かとかどうでもいいけどさ、もし子供だとしたらな。あんた、その子供が見ても恥ずかしいことしてるんだぜ」
飲みすぎて財布をなくすのも恥ずかしいことだけどさ。
「うるせえ。このクソババアが占うって言うから占ってもらったら、ふざけたこと言い出したんだろうが!」
「ふざけたことって?」
「俺が痛い目みるだとかよ!」
「わしは占いで嘘はつかんよ」
「うるせえ!」
男はタイタイ婆さんが広げていたテーブルを蹴り上げた。
タイタイ婆さんは小さな体をさらに縮こまらせて、その場から逃げる。
「それはいけないな!」
俺は男の肩を掴んだ。
「なんだとっ!」
男が振りかぶる。
パンチが飛んでくる。
ならばその前に先手必勝。
相手が動くことよりも早く動き、相手に攻撃を叩き込む。これだけでこちらはダメージを受けることなく勝利をつかめるのだ。
がら空きの土手っ腹に、めいいっぱい体当たりを食らわす。
吹っ飛んでいく男。
「やれやれ、手が早いってのは損だぞ」
と、俺は言う。
余裕ぶっているが心臓はドキドキだ。
いきなりケンカに巻き込まれる。その覚悟はできていなかった。
男はよろけた足取りで立ち上がると、懐からナイフを抜いた。
「テメエ!」
「わっ、あいつ刃物を抜いたぞ。タイタイ婆さん、ちょっと離れてな」
それとこのパン、持っててと紙袋を渡した。
「はいはい、あんたも程々にね」
「分かってますよ」
と、言いつつ俺は刀を抜く。
「えっ?」
と、男が目を丸くした。
「えっ?」
と、こちらも驚く。
「お、おい。クソガキ。お前それ、剣だったのかよ」
「いや、まあ。うん」
なんだ、ただの棒かなんかだとでも思ってたのか。
男は自分の手に持つ貧弱なナイフと、俺の刀を見比べた。
そして、
「クソ、覚えてろよ!」
捨て台詞を吐いて逃げ出した。
まさか追いかけて後ろから斬るつけるようなことはしない。俺は素直に刀をおさめた。
「タイタイ婆さん、怪我ない?」
「大丈夫じゃ。それよりも、わしの占いは当たってたじゃろ?」
「なにが?」
「あの男、痛い目にあうとな」
タイタイ婆さんは咳き込むように笑った。
俺はやれやれ、と首をふる。
「気をつけろよ。あんな男にはてきとうに喜ぶようなこと言っておけばいいのさ」
「それは占い師の仕事ではないのう。良い女にでもやってもらうもんじゃ」
「そうですかい」
まだこの場所でやるの? と聞くと、タイタイ婆さんは当然じゃと頷いた。
なかなかタフな老人だ。
俺はここらへんで、とアパートの中に入っていく。
階段を登って自分の部屋へ。ノックをしようか迷ったが、やめた。
「シャネル……」
かわりに、名前を呼びながら部屋の扉をあけた。
「あらシンク、お帰りなさい。大変だったわね」
「えっ?」
まさか財布を無くしたことがバレているのか?
「見てたわよ、ここから」
「見てた?」
「下でケンカしてたでしょう?」
「ああ、なるほど」
そうか、財布のことじゃなくていまさっきのことか。いや、まあべつにたいしたものじゃないが。ケンカ、そう街角のケンカ程度だ。
戦いではない。
「タイタイお婆さんも喜んでるわよ」
「そうだろうかね。あの婆さん、ちょっと不思議だよな」
「なんせ本人はガングー時代から生きてるって言ってるものね」
「ボケてるんだよ。あ、これパン買ってきたんだ。朝ごはん」
「ありがとう、まだ食べてなかったのよ」
「そりゃあ良かった。……それでさ」
「どうしたの? 浮かない顔」
「いや、あのな。そのな……はい。ちょっと無くしものをしまして」
「あら、なにを?」
「財布無くしました!」
俺は頭を下げる。
シャネルは怒るかな、それとも呆れるかな。
おそるおそる、顔を上げた。
するとシャネルは笑っていた。
「財布無くしちゃったの? ドジねえ」
「ごめん……」
「べつにいいわよ。どこで無くしたの?」
「それが分かれば見つけてくるんだよなぁ……」
「それもそうね。それにしても財布を無くしちゃうかぁ」
「やっぱりまずいよな? バカみたいだよな?」
「まあ、アルコールなんてそんなものよ。これに懲りたら少し控えることね」
「そうします……」
パン、食べましょうかとシャネルは机の上にパンを広げる。
なんでもいいが、テーブルクロスもない机の上にパンを直接置くっていうのはどうだろう。
「あら、このパン美味しそう。もらっていい?」
「どうぞどうぞ、キミのために買ってきたんだ」
「ご機嫌取りかしら?」
「そういう言い方しないでくれよ」
そういうきらいがないと言えば、嘘になるからな。
「冗談よ、冗談」
もそもそとパンを食べている。
それは幸せなことだろう。
幸福な食卓だ。
美しい彼女と、なんの不安もない俺。
「なあ、シャネル……」
「どうしたの?」
「俺たちはいつまでこんなことをしてるんだろうな?」
「さあ、どうかしら」
「グリースには金山がいる。金山を殺さないと、俺の復讐は終わらない。なのに、なのに俺は!」
「ならね、こっちから行けばいいじゃない」
「えっ?」
「私、つい先日言ったでしょう。講和という手もあるって」
「言ったね」
「でも別の手もあるわ。もう一度グリースに行けば良いじゃない。またみんなで、それで今度こそ――」
「この戦いを終わらせる?」
「頭を潰せば終わる戦いでしょう、どうせ。それにね、あの男は私にとっても憎むべき相手よ。なにせお兄ちゃんを殺したのだから」
シャネルはパンを手の内で小さくちぎって、口に入れた。
「戦争を終わらせるために戦争をする?」
「それはいけないことかしら?」
「どうだろうか……ただ、俺は戦いたくない。それは間違いないんだ」
「誰だってそうよ」
戦うしかない。
ならば戦う。
それは良し悪しの問題ではない。
それに、それで誰かのためになるのなら。俺としてもドレンス軍に協力するのはやぶさかではないのだ。




