442 涙
パリィの街はふわふわとした喧騒に包まれていた。
いまが戦時中であることを忘れてしまいそうなくらいの浮かれ方。
夜だというのに楽しそうに街を出歩く人ばかり。
「なんだよ、今日は祭りかなんかでもあるのか?」
「まあ、間違いでもないかしら」
「そうなの?」
こんなご時世に不謹慎な。
いや、まあ戦場に行かない人からすれば戦争なんてものは関係ないのかな。
「でもこうして夜の街を楽しく歩けるのも、みんなシンクたちのおかげなのよ」
「俺たちのおかげ?」
「ええ。戦勝ムードがあるから、こうしてみんな浮かれてるの」
「戦勝ムード!?」
最初なにかの聞き間違いかと思った。
だってそうだろう、俺たちは勝ってないんだ。
そりゃあ局地戦で小さな勝ち負けはあったかもしれない。けれど全体で見ればドローが良いところ。痛み分けでしかない。むしろ失った戦力で言えばドレンス軍のほうが多いはずだ。
「なんでこんなことになってるんだ?」
「つまり世論操作というやつね。今朝の新聞は読んだ?」
「まさか。俺はこっちの世界の文字が読めないんだから」
「そうだったわね。とにかくね、新聞なんかじゃすごいのよ。勝った勝った、圧勝だったって。そんなことばっかり書いてあるの」
「大本営発表じゃないか!」
「だいほんえい? なあに、それ」
「いや、まあこっちの話。いや、にしてもそんな嘘ついてあとで酷いことになるんじゃないか?」
「どうかしら。ここで本当のことを言っても、それはそれで酷いことになるわ。少なくともドレンス軍は兵力を補充しなければいけないはずよ」
「正規軍はかなり数を減らしたからな」
これは受け売り。
テルロンから帰る船の中でエルグランドが頭を悩ませていた。
どうにかして兵士を増やさねばなりません、と。
「不思議なのはどうしてみんな新聞の情報を鵜呑みにしているのか、ってことなのだけど。少なくともシンクたちは帰ってきたわけでしょう、このパリィに」
「うん」
「人の口に戸は立てられないとも言うわ。そのうちに帰還した兵士たちの口から、ドレンス軍の失態は知らされるかもしれない――うふふ、いまごろあのガングー13世は頭をなやませてるんじゃないかしら」
「こんな浮かれているのも、いまのうちだけか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。ようするにどれだけ国民感情をコントロールできるか。執政官様の腕の見せどころね」
いまごろガングー13世はエルグランドと次の作戦のことでも話し合っているのだろうか。
さて、次はどうするつもりか。
また戦いになるのだろうか……。
いやだいやだ、考えたくない。
そんなことよりも考えることがあるのだ、俺には。
「なあなあ、シャネル」
「どうかしたかしら?」
「いや、その髪だけど……」
なぜか今日のシャネルはツインテールだ。
なぜ?
今日はあれか、ツインテールの日かなにかなのか? たしか2月2日がそうだったはず。
「ああ、これね。似合ってるかしら?」
「似合ってるよ――」
すっげえメンヘラみたいな感じだけど。
いや、でも嫌いじゃないのは本当。
なんというか、はちきれんばかりの巨乳にツインテールというアンバランスな組み合わせは、可愛さよりも卑猥さを感じさせる。
「ちょっと子供っぽいかなとも思ったのだけど」
「とんでもない!」
どんな胸して子供っぽいって言ってんだ。
「そうかしら? まあ、褒めてくれるなら嬉しいわ」
そりゃあ褒めるさ。
とはいえ、俺が褒めたのは髪か、それとも胸か。自分でも分からない。
大通りを俺たちは歩いていく。
どこかで夜ご飯でもと思いエルグランドの屋敷を出てきたのだが、レストランもビストロも人がいっぱい。景気が良いのはけっこうなことだが、あまりにも人が多い。
「なんだかなあ……俺たちは飲まず食わずで戦ってきたんだぜ?」
それがパリィの街に帰ったとたんにこれだ。
「飲まず食わずだったの?」
と、シャネルは目を丸くする。
「ちょっと言い過ぎかもだけど、でもワインなんてほとんど飲んでなかったから」
「大変だったのね」
いや、なんというか俺が伝えたいのはそういうことじゃなくて。
もっとこう複雑な……。
言葉にしにくい。
無理やり説明するならば、どうして俺たちだけあんな辛い思いをしなくちゃいけないんだという、八つ当たりでしかない憤り。だがその辛い戦いで死んだ人間だっているのだ。
「なんだろうか、この感情。腹立たしさと物悲しさが混ざりあったような……。シャネル、ンなんか食べようや。俺は知ってんだ、こういうぐちゃぐちゃの感情のときは美味しいものでも食べて気分転換するべきだって」
「いい考えだわ、とてもクレバー。でもどこもかしこもいっぱいで、いっそのこと屋台でもいいかしら?」
「いいよ」
むしろ味の濃いものを食べた方がいいかもしれない。
というわけで俺たちはそこらへんの屋台を物色する。
屋台といえば普通は縁日のそれを連想する。タコ焼きや焼きそば、あとは綿菓子やかき氷が一般だろう。しょっぱい系と甘い系が基本。
それは異世界でも同じで、売っているのは手軽に食べられる夜食のようなものか、あるいはおやつである。
「シャネル、シャネル、俺は肉的なものが食べたいぞ」
「はいはい」
俺ははっきり言ってコミュ障なので、屋台なんかで買い物をするのは苦手だ。それは昔からである。近所の縁日に行って、なにも買わずに帰ってきたことなんて何度もある。
でもいまは違う。
シャネルがいてくれるので、買い物はおまかせだ。
「あれなんてどうかしら、シンク」
「野菜に肉が巻いてあるな」
いわゆる肉巻きだろうか。
「美味しそうじゃない?」
「よしよし、あれにしよう」
シャネルはわかったわ、と買いに行ってくれる。
俺はその間、少し離れた場所で1人で待っていた。
シャネルの後ろ姿を見ている。
綺麗だ。
立ち姿が美しい女性というのは内面も美しいと、昔どこかで聞いたことがある。シャネルの内面が美しいかは分からないが、立っている姿は抜群に美しい。
人、人、人。それは濁流のような力強い流れをもって通りを歩いている。その勢いにまったく流されずにシャネルは立っている。歩いている。目的地へと到達してみせる。
ふと、俺は思った。
彼女は1人でも生きていける人なのではないかと。
シャネルは昔、俺に誰かに依存しないと生きていけないのだと言った。
けれどそれは嘘だ。
いや、嘘というよりもシャネルの勘違い。だってシャネルはああも独立独歩しているのだから。俺なんていなくても良いのだ。
じゃあ俺は?
言わずもがな。
シャネルがいないと生きていけない。
そんなこといまさら言われなくても知っている。
でも――なぜかは知らない、俺の目から涙が出た。
まずい、と思った。
こんな情けない姿はシャネルに見せられない。シャネルが戻ってくるまでに涙をとめなければいけない。
けれどそう思えば思うほどに涙はとめどなくあふれてくる。
それはもう感情では抑止できないほどで。
周りの人が俺のことを驚いた顔で見ている。なんでこいつ泣いているんだ、と。
そんなこと俺が分かるかよ、理由が分かれば俺だって涙をとめているさ。
ああ、シャネルがこちらに向かって戻ってきた。
俺は人混みをかき分けて逃げるようにその場から離れる。シャネルは当然、俺の後をついてくる。
たぶんシャネルは俺が泣いているのに気がついただろう。
けれどなにも言わなかった。「どうしたの」とも「大丈夫?」とも言わなかった。それが俺にはなによりも慰めで。同時に自分の情けなさを感じさせた。
人気のない裏路地で、俺はしくしくと泣く。
泣きながら、言い訳する。
「人酔いしたんだ」
「ええ、分かるわ」
やっと少し涙がひいた。
だけどなんで自分が泣いたのか、よく分からない。泣くなんて久しぶりだし、こんなふうに唐突に泣いたのは始めてだ。
なんだか俺はとても不安だったのだ。
シャネルが1人でも生きていけると確信したとき、まるで俺がこの世界で1人だけになったような気がした。
深い、深い孤独の中に落とされたようだったのだ。
「ごめん、俺、おかしいな」
なんだか周りの人たちが浮かれているのも、俺だけを阻害しているように感じられた。
「いいえ、シンクは普通よ」
そうだろうか?
「俺は1人きりなのだろうか?」
甘えている、俺はシャネルに甘えているのだ。
「さあ、どうかしら」
その甘えを見透かしたように、シャネルは俺の質問を否定してくれなかった。
――さあ、どうかしら。
俺に強くなれと言っているのだろうか? これよりもっと。
それとも――。
1人の男として愛してくれとでも言っているのだろうか?
シャネル・カブリオレは。俺、榎本シンクに。




