440 パリィへの帰還
パリィは花の都と言うけれど、実際に花が咲いているわけではない。そんなことは当然だ。
それでも馬車の車窓――馬車の場合も車窓というのか?――から覗く道端には、小さくはかなげな花が咲いていた。
その花が遠のいていくにつれて、俺は緊張を高めていく。
「なあ。なあ、エルグランド」と、対面に座る男に話しかける。「エルグランド、エルグランドってば!」
数回呼びかけて、やっとエルグランドは顔をあげた。じつに面倒くさそうに。
「なんです、エノモト・シンク」
「いや、べつになんだと用事があるわけでもないんだけどさ。それにしても久しぶりのパリィだな、快晴快晴。あっはっは!」
「……あなた、緊張しているのでしょう」
「え、緊張? 俺が? なんで?」
「はあ……やれやれ。私は疲れているのですから少し黙っていてください」
「まあそう言わないで。とりあえずね、会話のね、キャッチボールをしましょうと俺は言いたいわけですよ」
「あなたねえ、戦場での勇敢さはどこへ行ったのですか。ただ好きな女性に再開するだけでしょう。喜びこそすれ緊張する意味がわかりません」
「うるせえ、お前みたいなモテ男には分からねえんだよ!」
「まあ、私はたしかにモテますがね」
こいつ、認めやがった!
俺はいきりたって刀を抜こうとした。しかし狭い馬車の中ではうまく抜刀ができない。
「この二枚目野郎」
しょうがないので悪口なのか褒め言葉なのかよく分からないことを言う。
「でしたらあなたは三枚目ですね」
「三枚目?」
って、なんだ?
「あ、知りませんか。道化役のことですよ」
「てめえ!」
もう怒ったぞ!
俺は馬車の中で立ち上がる。
しかしその瞬間、馬車はいきなり停まった。
慣性で前につんのめる俺。そのままエルグランドに頭突きを食らわせた。
「痛いじゃないですか」
「うるせえ、いきなり止まる馬車が悪い!」
にしてもなんで止まったんだろうか。
と、思ったら。あわわ、すでにエルグランドの屋敷の近くだ。まだぜんぜん心の準備ができていない。
なんのって?
決まっている、シャネルに再開する心の準備だ!
「エルグランド、一回どっかで酒でも飲んでこよう。そうしようぜ、それがいい」
「残念ですが私はこのあと宮殿に呼ばれております。ここで降りるのはあなただけです」
「なんとっ! 俺を1人にするつもりかよ。たのむよ、エルグランド!」
「ええい、うっとうしいですね。さっさと降りなさい。こっちも時間がないんです」
さっさと出てください、と扉を開けるエルグランド。
それでも駄々をこねたら、とうとうエルグランドに馬車から蹴り出された。
すってんころりん。
「鬼、悪魔、人でなし!」
道端で叫ぶ俺。
「それくらいでないと戦場で総大将はつとまりませんよ」
「つとまってなかったじゃねえか、アホ! 誰のおかげでテルロンから帰ってこれたと思ってんだ!」
「はいはい、みんなのおかげですよ」
バタンッ、と乱暴に馬車の扉がしめられた。
クソ、エルグランドのやつ。この前の戦いで生き延びてからというものの、かなり図太くなってるんじゃないか。成長したといええば聞こえは良いのだろうけど。
馬車は走り去っていく。
そこらへんの小石でも投げつけてやろうかと思ったが、やめた。それで事故にでもなったら洒落にならないからな。
「あー、いやだなあ。あー」
たしかに俺は緊張しているのだろう。だから独り言も多くなる。
でもそれは普通のことだと思う。だって俺はいまから好きな人――シャネルに会いに行くのだから。
しばらくぶりだ。
シャネルは俺のことを覚えてくれているだろうか? いや、そりゃあ覚えてるよな。
だってだって、手紙もくれたし。
手紙――けっきょく一通しかこなかったな。俺も返事を書いたんだけどな。
あっ、もしかして俺の手紙になにか気にさわるようなことが書いてあっただろうか。どうしよう、もしかしてシャネル怒ってるのかな。嫌われたのかな。
「ああ、不安だな」
どうしてこんな思いをしてまでシャネルに会わなくちゃいけないのか。毎日顔を合わせているときはこんなじゃなかったのに。ちょっと離れ離れになっていただけで!
あるいは俺は初めてシャネルに出会ったときよりも緊張しているかもしれない。
いいや、だとしても俺は行くしかないのだ。
「勇気をだせ、榎本シンク! お前はあんなに頑張ったじゃないか! 堂々としていよう!」
そりゃあたしかに何度か負けたかもしれないけど、最後には勝った!
終わりよければ全てよしだ!
「そしてシャネルに褒めてもらうのだ!」
自分で言っておいてなんだが、俺ちゃんちょっと性癖というか、あれが歪んでないか? 趣味が。だってしょうがないじゃない、人に褒められるのに慣れてないんだもん!
「……シンクさん? 1人でなに叫んでるんですか?」
いきなり後ろから声をかけられた。
「うわっ!」
俺は飛び上がって驚く。
「あっ、すいません。驚かせてしまいました」
「フ、フミナちゃんか」
まったく気配がなかった。それとも俺がぼうっとしていただけだろうか。
「シンクさん、帰ってきたんですね!」
フミナちゃんはとても嬉しそうだ。そうするとなんだかこっちまで嬉しくなる。
「ああ、ただいま」
「おかえりなさいです!」
「あ、あのさ。シャネルは屋敷の中にいる?」
なぜだか知らないが、シャネルという名前を言うのですら緊張する。
「はい、いると思いますよ。私はいま、少し外に出ていたので確かではないんですが」
「そうなの?」
「はい」
「なにか買い物でも?」
「あの、本です」
「へえ、本」
「シャネルさんに頼まれて」
「頼まれて?」
ってことは、パシリに使われてたのか。シャネルのやつ、フミナちゃんをそんなことに使って。
「あの、シンクさん……」
「どうしたの?」
「せっかく帰ってきたシンクさんを、いきなり心配させるみたいで申し訳ないんですが……。シャネルさん、ここのところ元気がなかったです」
「そうなのか?」
元気のないシャネル、というのもあまり想像できないが。
「はい。シンクさんがいなくて、だと思います」
「俺がいなくて?」
な、なんだろうこの感情……。シャネルの元気がないことは悲しいことのはずなのに、なんだか嬉しいぞ。もしかしてシャネルはそんなに俺のことを思っていてくれたのか。
「あの、引きこもりみたいになって。ぜんぜん屋敷から出ないんです」
「引きこもり! それはいけない!」
俺も経験があるから分かるけど、1人で悩んでいても良い事なんてないんだ。というか孤独に考えていると絶対に悪いようにしか考えない。
「あの、早く顔を見せて安心させてあげてください」
「分かった、まかせてくれ」
勢いづいてそのまま屋敷の中へ。
なんでもいいけどこの屋敷ってエルグランドの屋敷だよな? 俺とシャネルの借りているアパートは別にある。
勘でたぶんこっちにシャネルがいると思って来たけれど、まさか引きこもっているとは。
自分の家に引きこもる人は多いだろうけど、他人様の家に引きこもるとは。
「まあ、それがシャネルらしいといえばシャネルらしいか……」
さて、どこの部屋に引きこもっているのだろうか。
エルグランドの屋敷は郊外にある巨大な屋敷と比べれば小ぶりだ。けれど普通の家と考えればでかい。あちこち探し回る必要があるかもしれない……。
ふと、通路の奥。曲がり角でなにかが揺れた。
絹よりも細くて、ダイヤモンドみたいに輝く銀髪――。
「シャネル!」
俺は叫ぶように彼女の名前を呼ぶ。
しかし通路の角を曲がってみても、誰もいなかった。
「あれ……?」
どこに行ったのだろうか。
その場にはシャネルの甘い残り香だけが……。
いや、違う!
シャネルの髪がさらに先の通路の奥に見えた。
俺はシャネルを追いかけるために走り出す。気分は不思議の国のアリスだった。




