392 地獄の機械
屋敷に戻って、とりあえずシャネルを探す。
なんとなく書斎にまだいる気がしたので、そちらに行ったのだがドンピシャだった。シャネルは俺たちが出ていく前と同じように書斎にいた。
でもまったくの同じというわけではない。シャネルの周りには本が乱雑に積み上げられていた。たぶんその本たちを副読本のようにして、ガングーとトラフィックの日記を読み解いていたのだろう。
「あらシンク、おかえりなさい」
シャネルが顔をあげて本に本にしおりを挟む。
「ただいま。随分と熱心だな、なんか面白いこと書いてあったか?」
「そうねえ……まあそこそこかしら。シンクはこの日記、最後まで読んだ?」
「いや、最初の部分だけパラパラめくっただけ」
「そう……これね、最後の方は交換日記じゃなくなってるのよ」
「へえ」
「ほとんどガングーの独り言みたいな、本当に個人的な日記になってるの」
「なんで? 2人の仲が悪くなったとか?」
「違うわよ。ガングーが第一線を退いたの。ガングーという人はね、その人生に2度の挫折を味わったの。そのうちの1度目が愛する妻であるビビアン・プジョルのを処刑から救ったとき」
「へえ――」
「そしてもうひとつが、のちにガングー戦争とまで呼ばれた大戦での敗北。とりわけロイヤ遠征があげられるわね。この遠征のことはご存知?」
「まったく知らない」
「でしょうね、榎本シンクさん」
シャネルはまるで俺のことを試すように笑う。
なんだか不安になるような笑いだった。
まるで俺のことを見透かさているような……。
「ここ、座っていいか?」
適当におかれている椅子を引っ張ってきてシャネルの近くにおく。どうぞ、と言ってもらえたので腰を下ろす。
「それで日記の話に戻るけどね――」
「うん」
どうもシャネルは日記の内容を俺に話したいみたいだ。いつもより少し早口だし。
「この日記自体はガングーが兵学校に入っていた頃から、最初の挫折をしたとき。つまりはパリィを出て、私の生まれ故郷の山の中へビビアンと逃げ込んだ時期までのものなのよ」
「シャネルの……ああ、あの村か。あの村にガングーはいたのか?」
「そうよ。愛するビビアンと一緒にね。その頃のドレンスはね、王党派と革命派という2つの勢力が争っていたの。ガングーはもともとも革命派だったのだけど、最後の最後で王党派に鞍替えしてビビアンを助けたの」
「それで、咎を背負った?」
「そんなところよ。まあけっきょくその後、革命は成立してドレンスという国は革命国家になったの。でもそれに対して諸国は猛反発、対外戦争に突入したってわけ」
「なんで他の国が怒るのさ、革命をしたら」
「だって他の国は王政なのよ? すぐ近くのドレンスで王政を排斥した革命なんておこったら、自分たちの国も危ないって思うでしょ。だから周りが手を組んで潰しに来たのよ」
「へえ、大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃないわ。革命政府は対外戦争に負け続け、最終的に戦える人間はほとんどいなくなった。そこで稀代の天才トラフィック・プル・シャロンが頼ったのがかつての盟友、ガングー・カブリオレだったの。この戦いでガングーは連戦連勝を重ねたわ。これがガングーの復活までの流れね」
「ふーん」
「で、この日記はだいたいその頃までのガングーが自ら記した貴重な本ってわけ」
「歴史的な著書だな」
「とはいえ、この文字を読める人間は限られているわ。たぶんいま、このドレンスに私くらいしかいないはずよ。村の人たちも、そしてお兄ちゃんも死んだいまは」
「ああ」
「なのにシンク、貴方はこれが読める」
俺の座っていた椅子の背もたれが、ギシリと音を鳴らした。
シャネルはすでに気づいているのだろう。俺がどういう存在なのかを。
つまりは、俺が異世界へと転移してきた人間だということに。
だってガングーという男は、そう。俺と同じような存在なのだ。異世界に転生した男。それでも自らの力だけで、チートもなにもなしに戦ってみせた男。
「貴方がこの文字を読める理由はただ一つだわ。けれど、貴方が私に言いたくないなら私は聞かなくてもいいのよ」
「言うよ……」
「いいのよ。言わせたいわけじゃないの。ただ、もしかしたら私は気づいているのかも知れないわ。ガングーはね、前世の記憶があったと言われているの。その前世のことを彼は『日本』と呼んでいた。この日記の文字は、その国の文字だわ」
「ああ……」
「シンクって、日本人なのよね? ああ、いいのよ答えなくて。ただ私が勝手にそう思っただけだから。でも、もしそうなら素敵だわ。私の先祖と私の愛する人が、遠く離れたどこか別の世界でつながっている。これってきっと運命だわ」
俺はシャネルに、いまだに自分のことすら言っていないのだ。
ときどき自分の意気地なしが本当に情けなくなる。
言えばシャネルはどう思うだろうか。自分はこの世界ではなく、異世界からアイラルンに導かれて来たのだと。
彼女は運命だと言った。
けれど違うのだ、全て導かれてきたのだ。
これまでの俺は。
俺は気を取り直すように買ってきたクッサン・ド・リヨンを取り出した。
「シャネル、これ買ってきてんだ。良かったら食べてくれ」
「あら、なにかしらこれ」
「クッサン・ド・リヨンってお菓子なんだけど」
「ああ、聞いたことあるわ。でも食べたことはないの。人気なのでしょう? よく買えたわね」
「ちょっとだけ並んだ」
「そう、私のためにありがとう」
シャネルは小さな袋を受け取ってくれて、さっそくそこから1つ、お菓子を食べた。
甘いお菓子を食べたシャネルは、幸せそうに目を細める。
「美味しいか?」
「ええ、美味しいわ」
「良かった」
シャネルはお菓子を食べながら、考え事をするように視線をあげた。
「ねえ、シンク。これは言おうかどうか迷ったのだけど……」
「どうした?」
「あ、これシンクも食べて。あのね、この日記の最初の文章は覚えてる? ガングーが書いた」
「たしか、平地人を戦慄せしめよとかそういうやつだよな?」
もとは柳田国男の『遠野物語』の序文だったと記憶している。
意味は――科学が発達して神の存在を信じなくなり始めた時代にこのような不思議な話が本当にあって、これを見たら普通の人は驚きだろう――というほどのものだったと記憶している。
それがガングー流の茶目っ気だったのだろうか。だとしたらよく分からないセンスだ。
なぜならこの世界に神は実際にいるのだから――。
それともガングーはそのことを知らなかったのだろうか。
「平地人を戦慄せしめよ。不思議な言葉よね。少なくともガングーはこの日記の中に、人々が読んだら驚くようなことが書かれていると思っていたのね。もしかしたらこの序文は、あとに書かれたものかもしれないわ。そこまでは詳しくわからないけど」
「なにが言いたい、シャネル?」
「シンクは神様って信じる」
「そりゃあ……」
というかその質問、怪しい宗教の勧誘みたいだね。
「私はね本当にいるのかどうか、半信半疑なの。古い昔、一度だけアイラルンに会ったことがある気はするの。でもそれだっていまじゃあ隅に追いやられて風化した記憶よ」
「うん」
俺はいまでもときどきアイラルンに会うけど、シャネルからすればもう昔のことなのだろう。
「でもガングーは違ったみたい。彼は神様――ディアタナに何度も会ったことがあるそうよ。そして彼は知っていたの」
「なにを?」
「『運命とは地獄の機械である、我々はあくまでディアタナに動かされている歯車である』。そう、ガングーは最後の文章に書いているの。これはすでにトラフィックに読ませるつもりはないはずの文章だったのでしょうね。なぐり書きみたいな文章で書かれていたわ」
「運命とは地獄の機械?」
「ええ。どうもガングーという人は、神の定めたなにか人生というようなものに逆らって生きていたらしいわ。それがどんなものなのか、私たち後年の人間には分からないけど。
私たちが理解するのは輝かしい彼の功績だけだわ。瞬間瞬間でのガングーの考えや悩みなんてものは、この日記を読むまで考えもしなかった」
「そうか、ガングーの悩みか」
ディアタナとはいったいどんな神なのだ?
運命を支配する神?
「シンク、貴方も気をつけてね」
「え?」
「貴方も日本から来たのだとしたら、もしかしたらガングーと同じように――。そう思ったのよ。運命を操られているんじゃなくて?」
「俺は、大丈夫だよ」
と言いながらも、背筋に冷たいものを感じた。
少なくとも、俺がシャネルと出会ったのはアイラルンがやったことで。神が俺の運命を操った、という意味ではその通りなのだ。
俺はこの異世界での人生を、自分の意思で歩いてきたのか? 本当に?
シャネルは心配そうに俺を見つめる。俺は力なく笑うのだった。




