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326 タダの宿


 シャネルはいくつか宿を教えてもらったのだが、そのどれもが看板をおろしていた。


「こっちもダメだわ、もうっ」


「そう怒るなよ」


 珍しい。


「怒ってるんじゃないの、焦ってるの。このままじゃ野宿よ、それでも良いの?」


「お前と一緒ならなんでもいいさ」


「まあっ」


 と、まあ。適当に言ってみたものの。たしかに野宿は嫌だ。


「にしてもこの街、誰もいないな。本当に首都だよな?」


 少なくともドレンスの首都であるパリィなんかはもっと栄えていた。


「そうね、人っ子一人。野良猫すらいないわ」


「シャネル、猫好きだったの?」


「べつに」


 ホッ、良かった。


 俺はどちらかといえば動物が好きじゃない。とくに犬。小さい頃に噛まれたことがあってトラウマになっているからだ。


 なのでもしシャネルが猫を好きだなんてことが判明した日には、将来的に猫を飼うハメになるかもしれない。それは嫌だった。


「やっぱりこの霧のせいかしら?」


「だろうね。この霧はどういうもんなんだか」


 家々からは煙突のような管が伸びており、そこからもうもうと濃い霧が立ち込めているようにも見えた。それがどの家――どの建物からも伸びているのだ。


 そして家と家をつなぐあれは、配管。


 いったいなんなのだろうか、この街は。


「とりあえず教えてもらった宿はあと一件なんだけど、そこやってなかったらどうしましょうか」


「駅で寝るか?」


 ある意味それが一番安全かもしれない。


 なにせあの駅の中ではこの不気味な霧がなかったのだから。


「ま、やってなかったらの話しね」


 俺たちは道の脇によった。


 先の方から明かりが見えたのだ。


 霧のせいでよく分からないが、馬車かなにかだろうと思った。それにしてはスピードが早い。


 その物体は通り過ぎていく。


「おっ」


 俺は思わず声を上げてしまった。


 クルマだ、形はかなりクラシカルな感じだがたしかにクルマなのだ。ちゃんとタイヤが4本あって、中にはハンドルを握る男性が乗っていた。不気味なマスクはつけていなかった。


 赤いテールランプの光がヘビのような残光となる。


「なあに、あれ?」


「クルマさ」


 にしてもエンジンの音が静かだった。ハイブリッド車? いや、EV車かもしれない。まさか、そのどちらでもないだろう。たぶん魔力かなにかで動いているんだ、あの列車と同じように。


「生き物なの?」


「まさか、乗り物さ。馬車みたいなもんだな」


「馬車?」


「そう、あの中にたぶん人が乗ってるんだよ。運転するんだ、馬車に比べて早いし、馬もいなくてすむから遠くにも行ける。そして環境には悪いと」


「環境に?」


「あ、いや。冗談」


 シャネルは楽しそうに目を細める。


「シンクの冗談ってよくわからないわ」


 わからないことを楽しんでいるらしい。


 変な女だ。


「なんにせよ馬車より便利なんだよ」


「じゅあどうしてドレンスじゃ流行してないのよ?」


「いまからだよ、いまから」


 そもそもドレンス――もといフランスってのは自動車大国だったはずだ。ルノーにプジョーといった有名な自動車メーカーもある。


 どうしてフランスで自動車が発展したかというと、これは一説によればナポレオン、そしてそのおいのナポレオン3世が街道の整備に力を入れたから、らしい。


 道がきれいなので自動車も通りやすかったということだ。こういう豆知識というか、雑学みたいなの知ってるととっさのときにマウントとれて便利よ。


 それにしてもこのグリースという国、やっぱり技術的には他の国よりも頭一つ抜けているようだ。産業革命、というやつだろうか。雑学は知っていても学校の勉強はできません。


「クルマねえ。ちょっと乗ってみたいわ」


「そうか?」


「じつは私、ミーハーなのよ」


 いや、それはわりと知ってるけども。


 俺たちは霧の街を歩きだす。


 シャネルが聞いたという宿はあと1つらしい。そこはやっていると良いけれど。


 俺もシャネルも土地勘はなく、なんとkあかんとかでやっと宿の場所に到着した。


 看板があがっている。けれどその看板の文字は霧のせいでよく見えない。


「明かりをくれ」


 シャネルがさっと呪文を唱えた。


 杖先に明かりがともり、霧が少しだけ晴れたように感じた。


「ええ、ここね」


「やってそうか?」


「入ってみないことには――」


 シャネルが扉を開けた。両開きの扉だった。開くさいにきしむような音がする。


 中に入ると、電気やろうそくといった明かりがなかった。


 ――これは無理だな。


 俺は諦めた。


 けれどシャネルはそう思っていなかったようで。


「ごめんください」


 声をあげる。


 やれやれ、無駄だと思うけどね。


 けど、シャネルの呼びかけに返事があった。


「はい、はい」


 返事があった!


 それにまず驚いた。


 そして次に、奥から出てきた老婆の緩慢な動きに驚いた。まるでカメだ。


「お部屋、開いてるかしら?」


 シャネルは老婆が近くに来るのを辛抱強く待ってから、たずねた。


「はい、どこの部屋もあいてますよぉ」


「それは良かったわ、1部屋借りられますかしら?」


「もちろんですとも……同室で?」


「新婚旅行ですの」


「はぁ、それはおめでとうございます」


 なんだか会話が跳んでるなあ。


 でも2人は通じ合ってるみたいだし。女の会話って感じかな。


「宿代はいくらくらいかしら? しょうじきどれくらいの期間泊まるのか決まってませんの」


「ああ、宿代。……宿代ですかぁ? けっこうですよ」


 けっこう?


 それってつまりあれかな、けっこう高いとかそういう意味?


 そうだよね、どこの国でも宿代ってのは都会――それも都心ともなれば高いからな。腐ってもここはグリースの首都だ。そうとうを覚悟しなければならないだろう。


「けっこう、と言いますと?」


 シャネルが聞く。


「いりません、どうせお金なんてもっていてもなんにもなりませんから」


 俺たちは顔を見合わせた。


 無料というのならばそれで良いのだが、しかし本当に良いのだろうか?


「タダというのなら、私どもとしても嬉しいのですけれど。本当によろしくって?」


 シャネルの口調がなんだかおかしい、たぶん驚いているのだろう。


「はい」


 老婆は優しく頷いた。


 たぶん無料なのにはなにか理由がある、裏がある、しかし悪い予感はしない。


「良いんじゃないかな」と、俺はシャネルに言う。


「シンクがそう言うなら。では1部屋借ります。あとでやっぱりお金を払ってと言っても、良いですから」


「そんなこと言いませんとも」


 というわけで、宿に泊まれることになったのだが。


 うーん、まじか?


 老婆の奥から、今度は老人が出てきた。杖をついたかなり高齢の老人だ、目は閉じているのか開いているのか分からない。


「おまえ、お客さんかい?」


「はい、そうですよ貴方」


「それはそれは……息子が帰ってきたのかと思いましてね。失礼しました」


 老人の目が、悲しそうによりいっそう細まる。


 息子さん、どうかしたのかな? 気になるけど聞けない。こういうときは――シャネルにアイコンタクト。シャネルはすぐさま察してくれた。


「息子さん、出ていかれたんですの?」


「はぁ、こんなことをお客様に言ってもせんないことですが、軍隊に引っ張られまして」


「そうなんですか、早く帰って来るといいですね」


「……はて、もう1年は連絡もなしで」


「それは心配ですね」


 シャネルが愛想よく言う。


 老人は悲しそうに頷くのだった。


 人にはそれぞれ人生がある。家族には歴史があり、俺とシャネルの関係にもこれまでの積み重ねがあるのだ。


 他人の事情に首を突っ込むべきではない。


 だけど俺は――。


 なにかこの出会いに意味があるのではないかと、そんなふうに思ってしまうのだった。


 それは俺がロマンチストだからか。


 それとも、ただのセンチメンタルだろうか……。


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