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277 ココ・カブリオレ


 夜のパリィの街をゆっくりと歩く、俺とビビアン。


「人工灯の明かりが普及して、街灯に火を付ける人の仕事が減ったのは、もちろん知っているよね?」


 ビビアンは千鳥足だ。どれだけ飲んだのだろうか。


 俺もそれなりに飲んだ、ワインを一本、まるまるあけた。ギリギリのライン。これ以上飲めば二日酔いだろう。なので二軒目に向かうつもりはなかった。


「知りませんよ。明かりをつける仕事って言ったらあれですね、『星の王子さま』」


「なんだい、それ」


 もちろん通じない。


 けれどこの世界にはときどき、俺のもといた世界と同じものがあるのは知っていた。たとえば凱旋門。フランスといえばこれ、って感じだけど。もちろんこのパリィにもある。


 でもエッフェル塔はなかったりするから不思議だ。


 あるものとないものが存在する。それはまるで何者かの意思によって選別されたかのように。


 だからもしかしたら『星の王子さま』もあるかなと思ったけど。どうやらないようだ。それともまだ書かれていないだけだろうか。


 サン・テグジュペリがいつの時代の小説家なのか、俺は知らない。家にあった本を適当に読んだだけだからだ。


 俺の母は本が好きだった。だから家には本がたくさんあった。母はそれを俺に読ませた。まるでそれだけしておけば最低限の教育は施したとでもいうように。


 もっとも、おかげで俺は本好きになったので良いのだが。


 でも異世界に来てからまったく本は読まない。そもそも文字が読めないしね。


「まったく、ガングー13世とやらもふざけたことをやってくれるもんさ。こんなことしちゃあ、ただでさえ仕事がないのにみんなもっと仕事がなくなる」


「その人、ガングーの子孫なんですか?」


「自称ね。もっとも本当のところはわからないよ」


「そうなんですか?」


「成り上がりものさ。もともとは三下の下級貴族だったらしいけどね。実家にそういう伝説が残ってたらしいよ。眉唾だけど」


 ビビアンは街路灯を蹴った。


 はあ、と俺はため息をつく。


「ビビアン、あんたさあ」


「なんだい?」


「どうして酔っぱらったふりなんてしてるんですか?」


 ガシガシと街路灯を蹴っていたビビアンは、足を止めた。


 そして体は向けずに顔だけこちらをむいた。


「分かるのかい?」


「なんとなくですけどね」


 つまりは勘だ。


 この人は酔っぱらったふりをして暴れているけど、本当のところはぜんぜん酔っていない。


 ではなぜそんなことをわざわざ?


「酔わなきゃやってられないこともある」


「そうですか――」


「でも体質的にね、あまり酔わないんだよ」


「強いんですね」


 俺はむしろ、酔っている。限界が近いことが分かる。


「なあ、キミ」


「なんですか?」


「シャネルは元気かい?」


「なぜそんなことを?」


「気になっちゃ悪いかい?」


「悪くはないですよ。ただ分からないだけです」


 どうしてシャネルのことが気になるのか。


 だってこの人はシャネルとは赤の他人であって……。


「さて、キミはもう帰りたまえ」


「えっ、ちょっと。質問に答えてくださいよ」


 いきなり首根っこを掴まれた。


 そのまま顔を近づけられる。


 キスされるのかと思った。


 けれどビビアンは吐息の掛かりそうな位置で止まった。


「これ以上踏み込みたいならそうだね、今夜一晩、一緒にどうだい?」


 それって飲酒のほう?


 それともエッチなほう?


 まあどっちにしろ――


「え、遠慮します」


「そうだろう。では帰りたまえ。まっすぐ家に帰るんだよ。そしてシャネルと仲良くね」


「あんた、本当になんなんですか――?」


「さあ、シャネルにでも聞いてみるんだね」


 ビビアンはさきほどまでの千鳥足をやめて、しっかりと歩いていく。


 俺は彼女が見えなくなるまでその場にいた。


 街路灯のあかりはどこか無機質に俺を照らしている。


「……わかんねえな」


 とぼとぼとアパートまで帰る。


 タイタイ婆さんを読んで、アパートの鍵を開けてもらう。この老婆もいつ寝ているのか不思議だ。まあ、老人なんて夜は眠らなくて朝は早い。そんなものかもしれない。


 もうシャネルは眠っているだろうかと思って静かに扉を開けた。


 けれどシャネルは起きていた。起きて本を読んでいた。


「あら、シンク。おかえりなさい」


「ただいま。……起きてたの?」


「この本、貸本なのよ。明日には返さなくちゃいけないから今日中に読んじゃおうと思って」


 嘘だな、と思った。


 たぶんシャネルが起きていたのは本を読むためじゃない。俺が帰ってくるのを待っていたんだ。


「そうかい」


 でもわざわざ言う必要はない、そんなことは。


「それでシンク、悩んでいたのは解消された?」


「どうだろうね」


 酒を飲んだところで悩みが消えることがない、というのは分かったが。


 シャネルは本から顔をあげる。そして不思議な笑みを浮かべた。


 その笑顔がどのような意味なのか俺には分からない。でも俺のことを思ってくれているのは確かだ。


「いまは何も言わないわ。シンクは男の子だからね」


「まあね――」


 そうだ、俺は男だから。


 こんな悩みは簡単に吹き飛ばすべきなのだ。


「それよりもシャネル」


「なあに?」


「変な人に会ったんだ」


「昨日も言ってた人?」


「そう」


「これはいよいよ浮気の線が濃厚になってきたわね。2日連続で一緒に飲んでたの?」


「まあ飲んでたけど、浮気じゃないんだよ。それよりその人、なんかお前のこと知ってるみたいでさ」


「私のことを?」


「ビビアン・ココって名前なんだって。ビビアンはたぶん偽名だから『ココ』は本名だと思うんだけど」


 俺がそう言った瞬間、シャネルは驚愕に目を見開いて立ち上がった。


「い、いまなんて?」


 シャネルが驚いている。


 これはこれで珍しいことだ。


「え、だからココって名前らしくて」


「ココ……。ココ・カブリオレ?」


「カブリオレかは知らないけどさ」


 あれ、カブリオレってシャネルの名字だよな。


 たしかガングーと同じ名字なんだ。けれどべつにこの名字の人はそれなりにいるそうだ。なんでも、ガングーがとある戦争で勝ったとき、その戦いで戦争孤児になった子供たちみんなに自分の名字を送ってやったとか。


「シンク、その人はいまどこ!?」


「さあ、宿じゃないかな?」


「行くわよ、案内して」


 シャネルの目が血走っている。慌てている、というよりも焦っている。いや、そうじゃない。これはもしかして……怒っている?


 シャネルが怒る?


 いつも冷淡で、あるいは喜怒哀楽の感情すらも希薄なシャネルがいまはっきりと怒りをあらわにしていた。


「どうしちゃったんだよ、シャネル」


 俺は椅子に座る。


 頭が回っていた。つまりは酔っ払い。


「お兄ちゃんよ――」


「はい?」


 なにを言っているのか、この娘は。


「まさかパリィに、こんな近くにいたなんて……」


「シャネル、言っておくけどビビアンは女だぞ?」


 それもかなり美人の。いや、美人は言わないでいいか。


「女? それ、ちゃんと確認したの?」


「ちゃんと確認って……」


 裸でも見ろって言うのかよ。


「胸は?」


「な、なかったけど」


「声は?」


「少しハスキーだったかも」


「目は?」


「赤色で――」


「髪は」


「シャネルと同じ、さらさらの銀髪――」


「ココ兄さんだわ、絶対にそうよ。こうしちゃいられない……殺してやる。いますぐにでも!」


 シャネルは部屋から飛び出すように出た。


 しかしどこに行けば良いのか分からないのだろう。苛立たしげに振り返る。


「シンク、早く!」


「ま、待ってくれよ。そんな突然。ビビアンがお前の兄貴?」


「そうよ! 絶対にお兄ちゃんだわ」


 シャネルの兄貴ってことは、つまりシャネルが復讐を誓った相手だ。


 シャネルの住んでいた村は、その兄貴に滅ぼされた。住民は全員殺されて、シャネルだけが生き残った。


 死んだ人の中にはシャネルの家族もいたという。


 ……なぜだろうか?


 もしもビビアンがシャネルの兄だとしたら、なぜ村人を虐殺したのか。


 いや、そんなことよりも、だ。


 さらに大きな疑問がある。


「兄……?」


 いや、だってあの人どこからどうみても女の子で……。


 え、違うの? もしかして、男の子? もとい、男の娘?


「兄よ。美人だったでしょ?」


「あ、いや……」


 そりゃあ美人だったけどさ。


 え、いや違うくないか? 問題そこか?


 分からない。頭がパンクした。処理がビジーだ。


「それこそが、その変な女が兄である証明よ。あの人は美しいわ。それは誰もが認めるほどにね。そして私は――そんなお兄ちゃんに憧れていた」


「殺すのか?」


「殺すわ」


 シャネルははっきりと答えた。


 そこに迷いはなかった。


 すごいな、と俺は思った。俺はかつての友人を殺すことにためらっている。しかしシャネルは、じつの兄だとしても殺すことに迷いがない。


 見習わなければな、こういうところ。


「分かった、案内するよ」


「ええ、ありがとう」


 ビビアンが滞在しているのは、俺たちが昨日飲んだ居酒屋――けん宿屋だ。


 あそこにいけばビビアンはいるはずだ。


 ついさっき帰ってきたばかりで悪いが、タイタイ婆さんにアパートの鍵を開けてもらう。そして2人で外にでる。


 シャネルはピリピリしている。


 杖を手に持ったまま歩いている。これは抜身の刀を持っていることと同じでかなり危険だ。警察にでも見つかればそく後ろに手が回る。


 けれどシャネルはおかまいなしだ。


 彼女の中には、いま1つの目的しかない。


 ――兄を殺す。


「ここだよ」


 宿屋についた。


 シャネルは無言で中に入る。


 やれやれ、いつもとは逆だな。今日は俺がフォローするばんだ。


「いらっしゃ――うわっ!」


 いきなり杖を持ってあらわれたシャネルに、宿の主人は驚いた顔をした。


「ここに、ココ・カブリオレはいるかしら?」


 シャネルは杖を突きつけて、脅すように言う。


「い、いえ! いません!」


「嘘おっしゃい! 隠すと後でひどいわよ!」


「シャネル、お前の兄は偽名をつかってるんだ。すいません、ビビアン・ココって人です」


「ビビアンさんですね。あの、ちょっと待ってください」


 魔法を打たれては困ると思ったのか、それともこの異世界じゃ個人情報なんてあったないようなものなのか、店主は宿泊者がかいてある帳簿を見る。


 そして、すぐに「あっ!」と声をあげた。


「なに、早くしなさい。私が気が立ってるの」


 本当にめずらしいことだ。


 いつものシャネルとは違う。


「あ、あの……申し訳ないのですがビビアン・ココさんは昨日で宿を出ておられます」


「なんですって?」


「あの、ですからそのおかたはもうこの宿にはおられません」


 シャネルの肩が目に見えて落ちた。


「そう……もういないのね」


「は、はい」


 シャネルは何も言わずに店を出る。


「すいません、お騒がせして」


 俺は変わりに謝っておいた。


「い、いえ。またのおこしを」


 別に客でもない俺たちにそう言ってくれる。良い店主だ。こんど酒でも飲みに来るか。


 シャネルは外で1人、たたずんでいた。


「そう気を落とすなよ」


 と、俺は慰める。


「そうね。お兄ちゃん――ココ兄さんがまだ生きていたのが分かっただけで、一歩前進だわ」


 シャネルは大きなため息を付いた。。


 ふと、俺はビビアンの言葉を思い出した。


 ――シャネルは元気かい?


 どうしてあの人はそんなことを気にしたのだろうか。


 だってあの人はシャネルに憎まれていて。いや、でもビビアンはシャネルのことを憎んでいないのか。


 ますます謎だ。どうしてビビアンは村人たちを大量に殺した?


 逆に言えばなぜシャネルだけは生き残っている?


 考えるが、酔いの回った頭では答えなどでない。


「帰りましょうか」


 というシャネルの言葉に、俺は全ての思考を止めて頷いたのだった。


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