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265 シャネルとはぐれて謎の美女にからまれる


 まずいことになった、と俺は頭を悩ませた。


「さてはて――」


 迷った。


 パリィの街でただ独り、迷子の榎本シンクさんである。


「ここはどこ? 私は誰?」


 いや、記憶喪失ではない。


 しかし……。


「そもそもシャネルが悪いんだ。いきなりいなくなる。もしや俺ではなくシャネルが迷子になったのではないのか? その可能性は大いにありえる」


 だっていきなりいなくなったのはあちらだ。


 俺は前を歩いていた。


 最初シャネルは俺の少し後ろを歩いて「あっちのカフェが良い。でもこっちのカフェにしましょうか」なんて言っていたんだ。


 そして気づいたらいなくなっていた。


 振り向いたときには忽然こつぜんと消えていたのだ。まるで煙のように――というにはいささか誇張がすぎるだろうが。


「まったくしょうがないやつだな。いい歳して迷子になんてなってさ」


 あれ、そもそもシャネルって何歳だったか?


 たしか俺より1つ年上だから……19か? それともまだ誕生日が来ていないから俺と同い年の18か? 分からん。ま、べつにどうでもいいことか。


 空が少しだけ暗くなっている。


「やれやれ」


 ちょっとだけ不安になる。


 ここどこだよ、マジで。アパートまで1人じゃ帰れないぞ。


 誰かに道を聞こうにも、俺はクソコミュ障の童貞くんだ。いや、童貞は関係ないだろ!(セルフノリツッコミ)


 なんだか悲しくなってきた……。


 あたりをキョロキョロと見回す。


 どこにもシャネルの姿はない。


 きっとシャネルのほうも俺のことを探しているだろう。いまごろ躍起やっきになっているかもしれない。


 うろたえながら俺のことを探すシャネルを想像してみた。


 それはすぐに想像できた。


 きっと大きな声で俺のことを呼んでいるだろう。もしくは手当り次第にそこらへんにいる人に俺のことを聞いているかもしれない。


『こういう人を知らないかしら? 黒髪に黒い目をして、身長はけっこう高いの。上質なコートを着ていて、腰には細い刀をさしてるの』


 あー、恥ずかしい。



 放っておくとこの広いパリィの街に俺のことが知れ渡る。


 早くシャネルのことを見つけなければ。早く……。


 俺は目を凝らし、耳をすませ、嗅覚を研ぎ澄まし、そして勘を頼りに歩き出す。


「どっちかな~、こっちか? いや……でも」


 いざとなったらアイラルンにでも頼るつもりだけど。


 けれど俺ちゃんってば運が良い。


 橋の上に白い髪をした女性の姿を発見した。


 どうやらこちらではなく、川沿いのあちら側に向かって歩いていっているようだ。


 シャネルだ!


 ――運が良いだって?


 なんだか違和感があったけど、しかしいまはシャネルのことで頭がいっぱいだ。


「シャネルっ!」


 俺は叫びながら、走り出す。


「あっ、ちょっと――」


 しかし、橋の入り口のところで止められた。


「え、なんっすか?」


 なんだろうこの人。警察? というよりも警備員だろうか。よう分からんが、なんというかちゃんとした感じの人に止められた。


「この橋を渡る場合は500フラン必要だよ」


「え、金とるのっ!?」


 マジかよ。有料の橋とかあんのか。


 ただの橋だぜ?


 いや、でもまあ通行料とかがある道とかもあるし橋が有料でもおかしくないのか。シャネルと一緒のときはそういう橋を見なかったが、案外シャネルのやつそこらへんは節約してたのかな?


「お金がないなら通すことはできませんよ」


「あ、いや。ある。ありますから」


 500フランか、まあ500円と考えれば……やっぱり高くないか?


 いちおう日本にも高速道路とかあったけど、あれってどのくらいの金額なのかな? 俺は家族で旅行とかにも行ったことなかったし、しょうじきよく分からない。


「払うなら早くしてください、後ろがつっかえてますから」


 俺は振り向く。


 た、たしかに橋を通りたい人たちがイライラした様子で俺を見ている。


 あれだ、コンビニのレジとかで妙に手間取ってる客みたいになってる。ああいうのって後ろからの視線が痛いんだよな。


「とりあえずこれで」


 俺は巾着きんちゃくからお金を出す。


 この巾着はシノアリスちゃんにもらったものだ。最近はちゃんとこれにお金を入れている。偉い、俺!


 ま、靴下にお金を入れるほうがどうかしてたんだけどな。と、言いつつもあれはあれで気に入っていた。


「はい、たしかに」


 あれ、いまの本当に500フランコインか? もっと高価なコインだった気がするけど……ああ、もう追求している暇はない。


 後ろから急かされてるし、なによりシャネルがどこかへ行ってしまう。


「ほいじゃ、通るぞ!」


 俺は言う。


「次の人!」と、橋の警備員は答えない。イラッとしたけど、まあ手間取った俺も悪いか。


 まったく、嫌な出費だぜ。


 とはいえお金は払ったんだ、文句はないよな?


 俺は走り出す。


 シャネルはもうずいぶんと遠くまで行っている。けれど長い橋だ、まだ渡りきっていない。


 さっきは思わず大声でシャネルの名前を呼んでしまったが、よくよく考えてみればそれはちょっと恥ずかしいことだ。


 なので俺は名前を呼ばないようにした。


「おおい!」


 けれどシャネルは振り返らない。


 白い髪をなびかせて、チョコレートみたいな色をしたロリィタ服を着ている。どこからどう見てもシャネルなのに、もしかして怒っているのだろうか。


 いきなりいなくなった俺に腹を立てて、それで無視してるとか?


 おいおい、勘弁してくれよ。


 そりゃあ俺も悪かったけどさ。


 シャネルに追いついた俺は、肩に後ろから手をのせた。


「おい、無視するなよ」


「えっ? ――私?」


 振り返った美女は、猫のような赤い目をしていた。


 シャネルじゃ……ない?


 いや、だってシャネルの目は勝ち気で青色をしていて。え、これ誰?


「うふふ、殿方にいきなり声をかけられるだなんて、私も捨てたものじゃないわね。でもダメよ、私はそんなに安い女じゃないの」


「あ、いや……その」


 美人だ。


 まごうことなき美人。


 シャネルに似た白い髪、身長は女の人にしては少しだけ高めで、しかしそのぶん足も長い。スレンダーな体型。胸は小さいが、ふわふわとしたフリルの服がそこらへんをうまく隠しているようだ。


「うふふ、そんなマジマジ見ちゃって。もしかして惚れちゃったかしらん?」


 女はシャネルと同じように笑った。


「いや、そのね。あのぉ……」


 しどろもどろだ。


 冗談じゃないよ。こんな美人にいきなり話しかけられたら……。


 あ、いや話かけたのは俺のほうか。


「ナンパじゃないわよね?」


「ち、違います!」


 それだけははっきり答えることができた。


「ふうん」


「あの、俺、人を探してたんです。貴女に似て美人の子で――」


「あら、嬉しい。美人だなんて」


 女は挑発するように俺を見つめる。


 猫のような目が細まって、まるで得物を見るかのよう。


 俺は背徳的な喜びを感じた。


なんだこの人、俺のことを誘ってるのか?


「あの、白い髪なんです。見ませんでしたか?」


「さあ、どうかな」


 女は橋の欄干に後ろ手を乗せて、川に背を向けて腰を預けた。


 妖艶ようえんに笑いながらも、その目は笑っていない。


「見てないんなら良いです。急いでるんで」


 この人は危ない。


 俺は直感的にそう思った。


 なぜ危険なのか、言葉では説明できない。ただ抽象的でも説明するとしたら、この人とこれ以上話していたら頭から丸呑みにされそうだと思ったのだ。


「そう言わないでね。袖振り合うも多生の縁と言うだろう? 言わない?」


「言いますけど……」


「ならば私たちにも縁があるのさ。それでキミは誰を探しているの? 私に似たその人の名前は?」


「個人情報なので」


「まあまあ、言ってくれれば思い出すかもしれないよ」


「思い出すって……」


「私、見たかもしれないよ。その人を」


「ぜったい嘘だぁ~」


「さあ、どうだろうね。うふふ」


 なんだこの人、と俺は警戒を強める。


 なんというか押しが強い。


 俺はもっとおしとやかな人が好きです!


「さあさあ、言いなさいな。キミの恋人の名前を」


「恋人って言いましたか?」


「殿方が街を奔走ほんそうしてるのさ、探してるのは恋人と相場が決まってるよ」


 やれやれ、これは言わないと話しが終わらないなと俺は観念する。


「シャネルですよ。で、見ましたかシャネルのことを」


「――シャネル?」


「そうです」


 女性は深く、深く考えこんだ。


 もしかしたら本当に見たのかと期待してしまった。それくらい、女性は真剣そうだった。


 けれどすぐに笑って、


「やあ、知らないなあ。ごめんね」


 ぜんぜん悪びれない様子で言ってくれちゃって……。


「そうですか。それじゃあ」


 俺はさっさとこの助成から離れようとする。


「またね~」


 しかし女性は不吉なことを言う。


 苦手なタイプ。しかし嫌いにはなれない。不思議な女性だった。


「まったく、なんだったんだ」


 1人ごとである。


 本当になんだったんだ、あの人。


 さっさとシャネルを探さなければ……。


 なんて思っていると、遠くから声が響いてきた。


「シンク~? どこに行ったの、シンク~?」


 ぐえっ、やっぱり俺の名前を呼びながら探してたか。


 俺は急いで声のする方へ。


「お、おいシャネル!」


「ああ、シンク。やっと見つけた。迷子になっちゃダメよ」


 迷子になっていたのはそっちだ、と言おうかと思ったけど分が悪そうなのでやめた。かわりに「ひどい目にあったよ」と言った。


「ひどい目?」


 さっき会った――というよりも絡まれた美女のことを話そうかと思った。


 けど言ったらあらぬ疑いをかけられかねないと思い直す。


「いや、そこの橋を渡ろうとしたら有料でさ」


「あら、それは災難だったわね」


「本当にな。でも見つかってよかったよ。家に帰れないところだったからな」


「そうね、うふふ」


 シャネルが手をからめてくる。


 うーん、なんだろうか。


 なんだろうかね?


 ちょっとだけ罪悪感。浮気とかしたわけじゃないぞ? でもなんでだろうか……。


 たぶんあの美女がシャネルに似ていたせいだ。


 そのせいで、俺はこんな罪悪感を覚えているのだ。


 はあ、さっさと忘れることにしよう。あんな人のこと。



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