264 プロローグ
その絵を見たとき、俺は世界がひっくり返りそうなくらいのすさまじい立ちくらみに襲われた。くらりと歪んだ視界には幾何学的な光が浮かび上がった。俺の目の裏側でバチバチと音をたてた。
「大丈夫?」
シャネルが俺の手をとった。
「あ、ああ。ごめん」
なぜ自分がこんなにも動揺しているのか分からない。
動揺。そうだ動揺だ。
俺はこの場で胸をかきむしりたいほどに心を揺れ動かしている。
焦燥。
不安。
恐怖。
それらの感情はすべて吐き気となって俺を襲う。
嘔吐、だなんて上品なものではない。ゲロだ。ゲロを吐きそうになっている。
「体調が悪いなら出ましょう。私も嫌だと思ってたのよ、なんだか悪趣味な絵ばかりだわ」
「いや、ちょっと待ってくれ」
美術館で開かれた特別展覧会。べつに特別見たかったわけではない。ただ暇にかまけて足を運んだだけだ。
それが失敗だったとは言わない。
なぜならば俺はこの絵に心を惹かれているのだ。
「なあ、この絵。なんてタイトルだ?」
俺は文字が読めない。
なのでシャネルにタイトルを説明してもらう。
「『我々はどこから来たのか――』」
シャネルは歌うようにそのタイトルを口にした。
――我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。
「ひどいタイトルだぜ」
俺は笑うが、しかし笑い飛ばすことはできない。
何かしらの問題提起がそこにはある。
この絵は見るものに否応なく自分というものを考えさせる。
いったいこの絵はなにを伝えたいのだろうか?
大人しく座る黒い犬。
目を閉じ眠る赤子。
背中を向け横顔だけが確認できる女性。
何かを言いたげにこちらを見つめる2人の女性。その2人を見つめる全裸の人間――これは男か女か分からない。
これらが絵画の右半分に描かれたものだ。
そして絵画の中央には頭上に手を伸ばしリンゴをいままさに手に取る男が。腰巻きだけをつけた男。この男こそがこの絵の主役だろうか? いや、違うだろう。
絵画の左半分には人物もいくつか描かれているが、それよりも動物たちの姿のほうが多い。
猫、ヤギ、鳥。
そしてそれら全ての終着点として、薄黒い体をした老婆の姿が描かれている。膝を曲げ、両耳を塞ぐように、手を耳元にやる老婆だ。しかしその老婆の足元には、美しい白鳥が印象的に描かれていた。
赤子から始まり、老婆で終わる絵。
すなわち生命というものの流れ。人が生まれ落ち、死ぬまでの間。
様々なモチーフのものが印象的に描かれている。
だが何よりも目を引くのは、それら全ての後ろに鎮座した青白い像だろう。それは人間の生命を超えるなにかを表しているようだ。それは超越者である。絵に描かれたもの全てとは、あるいは関係のないただこちらを見つめているだけの神――。
いったいこの人生に意味などあるのだろうか?
生まれて、死ぬだけの人生。
その間にある出来事など全ては些末なイベントでしかないのではないか?
「俺はいったいどこから来たんだろうか?」
と、呟く。
「アパートからここまで歩いて来たでしょ?」
と、シャネル。
「俺はいったい何者だろう」
「榎本シンクって名前よ、忘れちゃった?」
「俺はいったいどこへ行くのだろうか」
「さあ、そんなの知らないわよ。私は貴方の行き先についていくだけ」
シャネルの軽口を聞いていて、自分の中の動揺が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
そうだ、俺はいったいなにを考えていたんだ。
俺がどこから来て、何者で、なにをなすかなんて決まっているじゃないか。
あと1人だ。
俺のことをイジメていたやつらはもともと5人いた。でもそのうちの4人はすでに殺した。そりゃあいろいろなことがあったさ。
一筋縄じゃいかないことばかりだった。
けどここまで来られたのだ。
あと1人くらい楽勝さ。
やっと、妙な考えを笑い飛ばすことができた。
「なあ、シャネル。お前はこの絵を見てなにを思った?」
「全体的に青いわね、それくらいよ」
たしかに絵は全体的に青いけど。えー、そんなこと?
俺がこんなにモヤモヤしているのに、シャンルさんったらそんな小学生みたいな感想を持ってたの?
そりゃあ木も空も後ろの山も、それに神の像も青いけどさ。
それと逆に地面は赤茶けている。
「なんか他に思うことねえのかよ」
「そうねえ……なんでもいいけどこの白い鳥――」
最後に描かれた白鳥だ。よく見れば足の下になにかを踏みつけている。
「白い鳥がどうした?」
「見てたら無性にお兄ちゃんのことを思い出すわ。べつに思い出したくもないけれど」
「なんだそれ?」
「さあ、自分でも分からないけど。さあ、さっさと次に行きましょう。この絵はもういいわ」
「そうだな」
シャネルはいきなり手をつないできた。
おいおい、と俺は周りを見る。
美術館の中でそんなことをしたら目立つかと思ったら、おいおい。俺たちと同じようにイチャイチャしているカップルもいた。
お国柄でしょうか?
でも俺はほら、日本人だからさ。そういうの恥ずかしいぞ。
「おい、シャネル」
「良いでしょ」
おや?
シャネルの手が震えている。
寒い? まさか、むしろ今日は暑いくらいだ。
ではなぜ震えているのだろうか。
シャネルは絵画から離れようと足早に歩く。
しかし、少し行ってから立ち止まり振り返る。
「本当に、嫌な絵だわ」
やはりシャネルも気になっているのだろうか。
この絵の周りには不思議なくらいに人がいない。それはもしかしたらこの絵の雰囲気にみんな当てられて、危険を回避する本能から寄り付かないのかもしれない。
「ねえ、シンク」
「どうした?」
「私はね、別に自分が何者かとかそんな小難しいことはどうでもいいの」
「うん」
「ただね、シンク。どこにも行かないでね。ずっと私のそばにいてね。それだけはお願いよ?」
「もちろんさ」
しょうじき、いまとなってはシャネルと離れ離れになる生活など考えることはできない。
あるいは俺たちは2人の人間だが一心同体なのだ。
それはあたかも2本の木が成長の過程で結合し、1本の木になるように。
あと1人、と俺は思った。
しかしもしそれが終わればどうする?
俺はシャネルと2人きりで新しい生活を始めるだろう。
そのことについて、いまのうちに考えておくのも良いかもしれない。そう、俺たちがこれから先どこに行くのかについてを――。
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