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260 レオンくんの借金


 気がつけば日がすっかり落ちていた。


 レオンくんは酒を飲んでいた。


 パリィの街は宝石箱だ。


 けれどその宝石を手に入れることなどレオンくんにはできない。


 貧乏だからだ。


 試験は終わった、成績はそこそこ良い方だった。卒業まではもう間近だ。


 法学科の学生たちは大学を卒業しすれば全員が弁護士見習いとして働きに出ることになる。それを2年間。その後にそれぞれの進路に進むのだ。


 弁護士だろうと公証人だろうと関係なく、最初は弁護士見習いになる。


 ロドルフはけっきょく、金持ちと結婚するそうだ。そして持ってきてくれる持参金をつかい公証人になるそう。


 公証人になるにはそのための枠がいる。しかしこの枠は地域により上限が決まっており、パリィではいつも公証人は飽和状態だ。もしも欠員が出れば――たとえば年齢による引退や、お色による退任――その枠を買い取ることになる。


 その値段は地域によってまちまちだが、パリィでは数億フランと言われている。


 ここまでくるともう、レオンくんからすれば途方も無い数字だ。


 たかだか200万フランの返済でひいひい言っているのがバカバカしくなる。


 タバコを吸い、酒をあおる。


「ああ、俺はなんてダメな人間か! そもそも人は自分の分を越えたものど欲しがってはいけないのだっ!」


 机の上には指輪が置かれていた。


 職人である友人に加工してもらった指輪。


 しかしまだ渡せていなかった。


 いったいぜんたいなにを浮かれていたのだ。結婚すれば全て幸せになれるとでも思ったのか。


 自分はいったいどれほどバカなのだと思う。


 この指輪は売ってしまおうか。たぶん20万フランくらの値段はつくはずだ。


 冒険者のシンクに支払った金が10万フラン。それを20万フランで売ったならこちらが得をしたことになる。


 だがそれだけ返したところで焼け石に水だ。


 どうするべきか……待ってくれと言って待ってもらえるものではない。


 最近は酒の量ばかり増えている。親元から送られてきた微々たる仕送りもそれで消える勢いだ。


 ため息ばかりが増える。


 ――ドンドンドン。


 いきなりドアが叩かれた。


「ひいっ!」


 息を呑む。


「レオンさん? レオン・マクウェルさん? いないんですかねえ?」


 借金の取り立てだ。


 部屋の中で気配を殺す。


 ブルブルと震える。


「ちょっと、いるのは分かってるんですよ。さっさと出てきてくださいよ。いまならまだ優しくできますよ」


 しかしその声は、昨日来た男のものよりドスが聞いている。


 パリィには借金の取り立て屋というヤクザとどう違うのか分からない職業の人がいるが、昨日までは仕立て屋の小間使。けれど今日からはその人たちが来たのだろう。


「おい、さっさと開けろって言ってんだ!」


 ドンッ、と扉を乱暴に叩かれた。


 いっそのこともう外に出て謝ろうかと思う。けれどそんなことをすれば何をされるか分からない。レオンくんは震えたままで涙する。


 いったいどこでこんなことになったのか。


 なにが悪かったのだ。


 俺はちょっと憧れただけなのだ、パリィの光り輝く生活に。素敵な学生生活に。実際ロドルフはできているじゃないか。どうして俺だけこんな目にあわなくちゃいけないんだ。


 ナナと付き合ったまでは良かった。


 いや、その方法がダメだったのか。


 やっぱり高望みしすぎたんだ。


「おい、早くでてこいや!」


 先程と声が違う。


 何人も外に待機しているのだ。


 このまま扉がぶち破られたらどうしようか。ビクビクと震える。


「いねえのか?」


「居留守って可能性もありますぜ」


「まあキリトリの期限はまだあるんだ。今日はここらへんで撤収するか」


「そうっすね」


 どうやら去っていったようだ。


 レオンくんは薄めてもいないブランデーを飲む。ワインよりも高級品だが、度数が高いので同じ量を買ってもこちらのほうが長持ちするのだ。


 おそるおそる、覗き穴から外を見る。


 屋根裏部屋に続く廊下は薄暗い。けれど誰もいないことくらいは分かった。


「帰ったか……」


 ほっと息を吐く。


 昨日も来た、そして今日も。ならば明日も来るだろう。いつまでこうして居留守を使えるものか。


 レオンくんは考えていた。


 もうこんなパリィから出てしまって田舎に帰ろうと。


 そして田舎でゆっくりと暮らすのだ、あっちで弁護士見習いをしても良い。役場にでも努めても良い。そりゃあパリィほど給料はもらえないが、その分生活にかかる費用だって少なくて住む。


 パリィの街はレオンくんのような貧乏人が好きではないのだ。この街は金のある人間だけが暮らせる街なのだ。


 でもそんなことをナナに言っても、ナナは了承しないだろう。


 彼女は自分と同じか、それ以上にパリィに憧れてこの街に住んでいるのだから。


 もしかしたら、学生である自分に捨てらることを恐れてナナが媚びているというのは自分の妄想であり、本当はナナの方から振るつもりかもしれない。最近優しいのはナナなりに最後の思い出をくれようとしているだけかもしれない。


 そんなことを思ってしまう。


 どうすればいい?


 レオンくんにとって確かなことはナナのことを好きだということだけ。


 彼にはいくつかの道がある。


 1つ、田舎に戻る。(ナナがついてきてくるならば最高だ)


 1つ、パリィで暮らす。(借金はどうする、踏み倒すか、それか盗みでもして金をつくるか)


 1つ、いっそのことなにもかも捨ててしまう。(それは、命すらも)


 悩む。


 もしかしたら最後の選択肢が一番楽なのかもしれない。そう思った。


 お金がないということを、それを経験したことがない者は真に想像することはできない。なにをしていてもお金、お金と頭の中ではそればかりが支配する。何をしていても楽しくない。そもそもなにもできない。


 そんなことが続けば人は病む。


 資本主義が作り出した徒花、貧乏人。


 夕方になってナナが帰ってきた。


「ただいまー」


「うん、おかえり」


「レオン、就職先は見つかった? 弁護士見習いでしょ、できるだけ偉い先生のところに行かなくちゃね」


「それなんだけど……ナナ」


「なによ」


 ナナは険しい顔をする。最近はよくこういうことがある。


 こちらが何か話そうとするとナナが険しい顔をしてそれを咎めるのだ。


 そのせいで借金があることはまだ打ち明けられていない。


 けれど今日こそ、言うべきなのだ。


 少々アルコールの力を借りているのは卑怯だが、そうしなければ勇気もでないのだ。


「あのさ、ナナ。言わなくちゃいけないことがあるんだけど……」


「なによ、いまさら、なによ!」


 いきなり怒り出した。


 そりゃあ怒られて当然だ。


「ごめん!」と、レオンくんは頭を下げる。「じつは俺、借金があるんだ!」


「へ?」


 ナナの目が点になる。


「いや、だから借金があって。それでいま首が回らないんだ。本当にごめん」


「それで?」


 え? と、今度はレオンくんが困る番だった。


「いや、それでって。それだけだけど。あ、いや。それで取り立てが毎日きてるんだ」


「そう、大変ね」


「大変ねって……怒らないの?」


「あんたら貧乏学生に借金があるのなんて当然のことよ、そんなことでいちいち驚くグリゼットなんていないわ。それで、どうするのよ」


「それがどうしようもできなくて……」


「もう、だらしないわね! 借りたお金でしょ、ちゃんと返さなくちゃ!」


 レオンくんはホッとした。


 そして涙が出てきた。


 ナナに愛想を尽かされてなかった。それどころかこうして叱ってくれるのだ。


 あれ? そういえばナナはどうしてこんな自分とずっと一緒にいてくれたのだろうか。借金の有無はおいといても、ここ最近はずっとお金なんてなかったのに。


 ナナにぜんぜん贅沢なことなんてさせてあげられなかったのに。


「あのさ、ナナ――」


 愚問と呼ばれるものをやろうとしたレオンくん。


 しかしそれを邪魔するように部屋の扉がノックされた。


「レオンくん、レオンくんや」


 大家さんの声だ。


「はい、なんですか?」


 いそいで出る。


 今月の家賃は3ヶ月前にまとめて払ったはずだが。


「外に怖い人たちが来たよ、たぶんありゃあ借金取りだね。あんた、さっさと逃げたほうが良いよ」


「えっ!?」


「私が足止めしてるから、その間に逃げな」


「どどど、どうしようナナ!」


「返せるあてなんてないんでしょ? なら今は大家さんの言う通り逃げたほうがいいでしょ。ほら、行くと決めたら早く! 金目のものだけ持って!」


「わ、分かった! 大家さん、ありがとうございます!」


「いいよ、それじゃあ私は下に言って足止めしてるから。前の方に通すから、あんたは裏からさっさと逃げな」


「はい」


 レオンくんは金目のもの――と言ってもそんなものは多くない。数冊の本と小銭。


 あとはそう、指輪だけ。


「さあ、行くわよ!」


 どうやらナナも一緒に逃げてくれるらしい。


 レオンくんにはそれがとても嬉しかった。


 走り出すレオンくん、手の中では新品の指輪がキラキラと光っているのだった。


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