259 モラトリアムの終了
レオンくんは今年すでにリサンス――つまりは博士号を取得する第3学年の学生である。
この年になれば周りの学生たちもにわかに自分の身の振り方を考える。友人のロドルフが良い例だ。
いままで酒に女にと遊び尽くしていたくせに、いつの間にか逆玉の輿。金持の令嬢なんぞ引っ掛けてきた。数年後には結婚するつもりなのだという。もちろん相手の家の持参金目当てなのだろうが。
「ちょっと、レオン。タバコでも吸う?」
「あ、いや。いまはいらないよ」
レオンくんは外から入る陽の光で民法典を読んでいた。貧乏なレオンくんからすれば、夜になってまでロウソクの火を使い勉強するのはお金がもったいなのだ。
なのでお勉強は日の出るうちに、となる。
「じゃあブランデーは? いるかしら?」
「いや、いまは良いよ」
「ハムもあるわよ?」
「いらないって」
ナナはレオンくんを上目遣いで見つめると、どこか諦めたようにため息を付いた。
不安なのだ。
レオンくんにもナナが不安になる理由は分かっている。
だいたいの学生たちはこの時期――第3学年に上がる頃にはグリゼットとの関係を解消する。そもそも学生とグリゼットの関係は恋人というよりもある種の共存である。
学生は慣れないパリィの街で人恋しく肌の暖かさを求め、グリゼットは若い体を持て余しなおかつ自らを物語のヒロインに当てはめる。
そうして蜜月の時間をしばし過ごして、学生が新たな道に踏み出すときにはきれいサッパリ捨てられるのだ。
実際、ナナが前に付き合っていた学生もそうだった。弁護士見習いとして働き出す前にナナのことを捨てた。
「なあ、ナナ――」
レオンくんはいつ、自分の気持ちを伝えようか悩んでいる。
しかしそれは手元に指輪が来てからのほうがロマンチックだと分かっている。
だからレオンくんはナナが自分に対して媚びを売る様子にもどかしく思っているのだ。もっとも、もどかしく思いながらもいつもとは違う姿を見せるナナを可愛らしいとも思っているのだが。
「なによ」
「ここ、もうちょっと読み終わったらカフェにでも行こうか」
「ふんっ、お金なんてないくせに」
「大丈夫だよ、田舎からお金が送られてきたから」
だからいまは少しだけお金もある。
「そう――なら連れて行ってくれる?」
「もちろん」
「ね、ねえ。あのさ。変な話はしないわよね?」
「変な話?」
「あ、ううん。なんでもないの」
つまりは別れ話のことである。
もちろんレオンくんにそんなつもりなどない。むしろこのバカ真面目な学生は目の前にいる自分よりもいくばくかも下賎なグリゼットと結婚を考えているくらいだ。
ドレンス人は愛に生きる。
その愛の形は人それぞれだ。
パタン、と民法典を閉じる。
「さあ、行こう」
一枚しかないジャケットを着て部屋を出る。
――さてはて、どうしたものか。
レオンくんは悩んでいる。パリィにはいろいろなものがあって、そのどれもお洒落で楽しいものだが貧乏人には手に入らない。
いつもいつも目の前に楽しい宝箱を見せられて、しかしそれは自分のものではないのだ。
レオンくんはこんなパリィの生活に嫌気がさしていた。
それでかつて一度だけ、借金をしたことがある。
それはとなりにいるナナの気を引くためで、とにもかくにも女の子をくどく時には自分が貧乏人であるなんて知られてはならない。だからしかたがなかったのだ。
「楽しみだわ、あんたと一緒にいるとあたしってどうも安心するみたいなの」
ナナが言う。
「俺もだよ」
その借金の返済期限は、迫っている。
卒業まで、ということで金を借りた。普通の学生だったら卒業と同時に親元からそれなりにまとまった金が送金される。それはいつの時代も変わらない親心の現れだ。
しかしレオンくんの実家は、やんぬるかな貧乏である。
そう、どうしようもない。
自分は真面目な学生だと思っていた。事実、大学の退屈な授業にもちゃんと出た。学費だっていちおう払っている。
けれど――やっぱり真面目なだけでは面白おかしく生きることなんてできないのだ。
歩いていると、道端にいた古着屋の男に声をかけられた。
「坊っちゃん、どうですか。古着を売っていただけませんでしょうか?」
自分はそんなに裕福そうに見えるだろうか、とレオンくんは内心で笑った。
「いや、服は売らないよ」
「そうですか……」
パリィには仕立て屋がいくつもある。それと同時に古着屋も。それこそ1つの通りに1人は古着屋がいるものだ。古着屋は決まった店舗を持たず、このように客引きをしていることも多い。
さて少しだけ話しは変わるようで変わらないが、レオンくんの借金のからくりはここにある。
普通、学生なんぞを相手にする金貸しはいない。よっぽど親元がしっかりしている場合はそうではないが、レオンくんの場合は少しでも調べられれば一発だ。
田舎から出てきた。
両親も金はない。
ただ本人が少しだけ頭脳明晰だったので、村の有力者の援助もありパリィの大学に通えた。
これらの情報を見れば、誰もレオンくんに金をかそうなどなどとは思わないだろう。
しかし仕立て屋ならばべつだ。あそこは学生相手にならば簡単にツケ払いを許してくれる。
それはなぜかといえばたくさん理由があるのだが、まあ簡単に言えば服が高すぎるからである。
服は高すぎてそもそも金のない学生などではとうてい支払いなどできない。だから有る時払いで売るしかないのだ。
そのため仕立て屋はたいてい、借金の期限を年度末や卒業までとする。学生のもとに親元から金が送られるときを狙うというわけだ。
『お前よぉ、金がないならいい方法しってるぜ』
その破廉恥な方法をレオンくんに教えてくれたのは、悪友のロドルフだ。
『なんだい?』
『簡単さ、まず仕立て屋で服を買うだろ? もちろんツケだ』
『うん』
『それをすぐさま古着屋に売るのさ。そうすりゃあお前、手元には現金が残るんだぜ』
レオンくんはすでに古着を売った経験があるので、古着というものが意外と高く売れることは知っていた。なのですぐさまこの方法に飛びついたのだが……。
バカだったといまさら思っている。
けれどいまさらどうやっても金は返せない。
なので逆に吹っ切れている部分もある。どうせ返せないもの、どうしようもないのだ。
「ねえ、レオン。あそこのカフェに入りましょうよ」
「良いねえ」
ナナの言う通りのカフェに入る。
コーヒーを飲み、軽食を食べて、そらからビールを腹に入れた。
ナナはとにかくレオンくんを楽しませようとたくさん話しをした。とにかくこの時期のグリゼットも必死である。捨てられないために。それがたいていの場合、無駄な徒労に終わるとしても。
カフェから出ると、お決まりのデートコースとしてパリィの街を散歩することにした。
お金のかからないデートといえば散歩が定番だ。レオンくんは1人でもそこらへんを歩いていることがあるので、パリィの大通りならばだいたい分かる。
散歩も終わって家に帰ると、下宿先の管理人に声をかけれた。
「ちょっと、レオンくん」
屋根裏部屋を貸してもらっているだけのレオンくんだが、この管理人には感謝している。なにせ毎日のようにナナを連れ込んでも文句一つ言わないのだ。もはや半同棲の関係だ。
「なんでしょうか?」
「あなたにさっきお客さんが来てたわよ。仕立て屋の人」
「あ……はい」
とうとう来たか、と思った。
「仕立て屋?」と、ナナが首をかしげる。
「いや、なんでもないよ」
レオンくんはありがとうございます、と言って裏の入り口から屋根裏部屋に行く。
基本的にドレンスの建築では屋根裏部屋への入り口は裏にあり、そこからしか行くことはできないのだ。
レオンくんは屋根裏部屋への階段を登る。まるで断首台にのぼる罪人のように。モラトリアム期間はすでに終了しようとしているのだった。




