242 説得
Cブロックから動かない老婆は、キツネのような顔をした小柄な女だった。
顔立ちはどちらかといえば整っており、若い頃は美人だったのだと容易に想像ができた。
老婆はボロ布にくるまり、部屋の壁に背中をあずけて座っていた。俺たちが入ってきてもまったく動かない。もしかしたらコケでも生えているかもしれない。
「お婆さん」と、シノアリスちゃんは声をかけた。
老婆はゆっくりと顔をあげる。鼻筋が通っている。
ふと、俺は隣にいるシノアリスちゃんの顔を見た。どこか似ているように思えた。だが俺はなにも言わない。べつに血縁関係があるわけではないだろう、不幸な人間の表情というのはどことなく似ているだけということだ。
「教主様ですか……?」
「そうですよ。みんなの教主、シノアリスです」
どことなくアイラルンの言う冗談に似た言葉。
その言葉に笑うものは誰もいない。
「婆さん、早く逃げよう」と、俺は言った。老婆相手ならさすがに緊張もしない。「もし疲れて歩けないなら誰かにおぶってでももらってさ」
なんなら外まで送ろうかという気持ちだった。
けれど老婆はそれを鼻で笑う。
「こんな醜悪なババアをおぶってくれる人徳のあるかたなんて、ここにはいません」
「そんなこと言いなさんなって」
「そうですよ、お婆さん。ほら、早く逃げましょう」
「逃げてどうなるんでしょう。ただ死ぬのを待っていただけのこんな老婆が」
「そ、それは――」
シノアリスちゃんは言葉を詰まらせた。
俺もなにも言えない。
まさか命は尊いので生きなければならないなんて言えない。まさか生きてさえいれば良い事があるだなんて、言えるはずもない。
「私の家族は全員死にました。愛情をそそいだ息子も死にました。その息子と結婚した嫁も死にました。娘の腹には孫になるはずだった命がいて、けれどその命を産み落とすそのときに母子そろって死んだのです。息子は発狂して自殺しました。私はもう生きる意味のない人間です」
「だからって……」
「もう放っておいてください。私はここで死にます」
「そんなこといわないでください、お婆さん。どうか、どうか生きてください。辛いことばかりでも、生きてください」
「そんな因業な人生に、もう疲れたんです」
シノアリスちゃんは俺を見る。
どうにかしてください、とでも言うように。
やれやれ、と俺は頷いた。
老婆の手を掴む。
「さあ、立って」
と、言う。
「私はここで死にます――」
しかし老婆は立とうとしない。
だけど、俺は老婆の腰に手を回し、半ば無理やり立たせた。小柄な老婆だった。しかしそれは背中が曲がっているからかもしれない。
「なあ、婆さん。俺も昔そうだった。死にたいって思ってたよ」
「……そうですか」
「でも死ねなかった。あんたもそうだろ? 口ではそう言ってるけど、最後の一歩が踏み出せない。自殺ってさ、人を殺すのと同じくらい難しいことだと思うんだ。自分を殺すのも人を殺すのも変わらねえよ」
「お、お兄さん。いったいなにを言ってるんですか?」
「命の尊さを説いてるんだよ」
俺は言い切る。
そうさ、俺はいま命についての話をしている。
こんなこと誰に言ってもしかたのないことだ。中学生のときに1人で考えて、それで分かった気になって人間を、人生を知った気になるようなガキの論法だ。
でもさ、そんな臭い芝居じみたセリフでも、いまこの瞬間だけは1人の人間を説得できるかもしれない。
「いいか、命に価値があるから生きるんだなんてことは言わない。だって婆さんの人生はこれまでずっと因業な、不幸なものだったんだろ? そんな人生に価値があるだなんて思えなくて当然だ」
老婆はじっと俺の目を見つめた。この若者は何を言いたいのだろうとそういう目だ。
「このタイミングじゃなけりゃ、勝手に死んでろって言ったかもしれねえ」
まあ、たぶん俺は優しい人(他称)なのでそんなことは言わないが。
「でもな、いまはダメだ。いまだけはダメなんだ。シノアリスちゃんを見てみろ。お前たちの教主様なんだろ。こんな年端も行かない女の子が必死に逃げてくれって言ってるんだ。
他の信者を逃がすために自分が体をはるとまで言ってるんだぞ。
あんたは何も思わねえのか、婆さん! この子は頑張ってるんだ、みんなのために。それを自分は死ぬから放っておけなんてワガママだ!」
少なくとも、俺は怒っている。
まったくどいつもこいつも。
逃げ出したり。
わがままだったり。
全部シノアリスちゃんにおんぶに抱っこだったり。
お前らもなんかやれよ、死にたくないとか死にたいだとかもうどうでもいいんだ。1人の人間にすべてをおっかぶせるな。
「いいか、結論を言うぞ。生きろ。婆さんのためじゃない、シノアリスちゃんのために生きろ。この子をこれ以上悲しませるな。そうすりゃあ、あんたの命だって尊くなるってもんだ。
人のために生きるのって、自分のために生きるよりも素晴らしいもんだぜ?」
俺はまた、両親のことを思い出す。
俺が引きこもって、死にたいような思いをしても手を差し伸べてくれなかった両親。
たった1人で不幸を抱きしめていた俺。
それに比べたらこの老婆は幸せだ。こうして手助けして、生きてほしいと言ってくれるシノアリスちゃんがいるのだから。
「お婆さん……お願いします」
シノアリスちゃんがダメ押しとばかりに頭を下げる。
老婆の目に、少しだけ光が宿った。
「教主様のために、生きる?」
「はい。私は1人でも多くの信者のかたが生き残ってくれれば嬉しいんです。どうかお願いします、ここで死ぬなんて言わないでください」
老婆は恥ずかしそうな顔をして頷いた。
「よし、これで一件落着だな」
この老婆は自分が生きる意味がないと言ったのだ。
ならば簡単だ、生きる意味を作ってやればいいのだ。シノアリスちゃんのために生きる、他人のために生きる。素晴らしいことだよな。
しかしまあ、俺もきれいごとを並べたものだ。べつに嘘をついたわけではない。本心だ。
けれど、俺はそう言った口で、そういう精神を持っていながらも、人を殺す。
一方で人を助け、一方で人を殺している。
二律背反した行動。
やれやれ、またこんなくだらないことを考えている。
老婆を部屋から連れ出す。
Cブロックにまだいた人たちだろう、十数人が老婆の家というか部屋の前に集まっていた。
「さあさあ、みなさん。はやくAの方のブロックへ。ここからの道はもう少しすれば爆破しますよ。ここにいる人で全員ですね?」
「たぶんそうです」と、誰かが答える。
ちゃんと確認しろよ、俺はそれで死にかけたんだから。
「では全員で避難を――」
そう言ったとき、男が慌てた様子で駆けてきた。
「教主様! 教主様!」
どうやらシノアリスちゃんを探していたようだ。
「どうかしましたか?」
「正教徒のやつらが攻めてきました! AブロックとBブロックの方からです!」
「な、なんですって!」
おいおい、マジかよ。
「どうする、シノアリスちゃん」
「げ、迎撃するしかありません。でもなんで……早すぎる」
「……考えてる暇はなさそうだな」
奥の方から音が聞こえた。
どうやらCブロックの方からも敵が入ってきているらしい。
シノアリスちゃんの顔が緊張で引きつっている。
でも俺はその緊張をほぐすために笑いかけた。
「なあに、よく言うだろ? ピンチはチャンスって」
ちなみに俺はこの言葉が嫌いだ。
だってピンチはピンチでしょ? やばいじゃん。
さてはて、どうするか……。
俺は刀の柄に手をかけた。




