241 カタコンベの地図
狭いカタコンベの通路を小さな子が駆けてくる。それを母親だろう、少しだけとうが立った女性が追いかけてきた。
キャッキャと笑う子供はたぶん自分がいま置かれている状況を理解できていない。
あるいはその子供とそう歳も離れていないシノアリスちゃんは、優しい瞳で親子を見ていた。
「親、ねえ……」
俺はふと自分の両親のことを思い出していた。
血がつながっているというだけで他人同然の親たち。俺が異世界に来たとして、あの両親は俺のことを心配しているのだろうか? まさかな、食い扶持が一つ減ったと喜んでいるかもしれない。
いいや、それすら俺の希望的幻想だ。
たぶん両親は俺のことなどなんとも思っていない。愛の反対は無関心という有名な言葉があるが、俺と両親の関係はまさしくその通りだった。
「ほら、早くお逃げなさい。時間がありませんよ」
シノアリスちゃんはそう声をかけて、こちらにはしってきた子供を抱きとめた。
「はーい」と、子供は素直に頷く。
「あなた方のお逃げになる順番はいつですか?」
「あの、もう次の班です」
「そうですか。外に出たら振り返らずに、ずっとずっと遠くまでお逃げになってくださいね」
シノアリスちゃんは少しだけ尊大な、不思議な敬語をつかう。
たぶんこれがよそ行きの喋り方。
親子は去っていく。
「班ってなんだ?」
と、俺は2人きりになってから聞いた。
シノアリスちゃんは先程までは泣いていたのだが、もう持ち直している。いつも通りの不敵な笑みを浮かべて、「どういうことでしょうね?」とまるで挑発するように言ってくる。
「うーん、ちょっと考えてみる」
班?
ということはいくつかに逃げる人たちを分けているということか? なぜ全員で逃げない? ようするに民族大移動みたいなもんだろ。さっさと全員で移民にでもなればいいのに。
いや、待てよ。
「ああ、分かった。一斉に逃げたらディアタナの信者にバレるからだな。俺たちが気づいていることを、相手にはさとられちゃいけない」
「さすがお兄さん。お察しの通り、そうです」
「さとられれば相手は計画を前倒ししてすぐさま攻めてくる。だから少人数で順番に逃がしているってわけだ。なるほど考えたな」
「この地下に住む人はだいたい200人。朝から急ピッチでみんなを外に出していますが、まだ半分も逃がすことはできていません。夜までに全員が逃げることができれば良いのですが……」
「できそうか?」
「このペースでは無理ですね」
時間がない、とはそういうことか。
「じゃあどうするんだ?」
「どうするもこうするも。あっ、こっちです」
シノアリスちゃんに連れられてカタコンベの中を歩いていく。ときどきすれ違った人たちがシノアリスちゃんに頭を下げたりする。やっぱりこの子も偉いんだよな。
でもそのたびに、俺を見て「誰だこの人?」みたいな顔をされるのが気にある。
まあよくあることなので……。
べつに全然気にしてませんよ?
「で、どうするんだ?」
「とりあえず信者の方々は逃します。そして私たちは殿と言いますか、このカタコンベの中で足止めをします」
「つまり俺たちの仕事だな」
「……そうです」
さて、敵はいったいどれくらいの数で攻めてくるのだろうか。
アドリアーノという男は見るからに小心そうだった。何人も護衛を引き連れていたことからも分かる。だが、そういう小心な男は勝ち戦にはめっぽう強いのだ。なにせ絶対に負けない布陣を敷いてから挑んでくるのだから。
「さてはて、残りの100人全員をちゃんと逃がせるだろうかな」
撤退戦というよりもこれは防衛戦だろうか?
いままで俺はそういう戦いの経験がない。
いつもイケイケで、どちらかといえば攻めることが多かった。
責任重大だ。ここできちんと食い止めなければ人がたくさん死ぬ。
「頑張ろうな」と、シノアリスちゃんに無責任に言う。
「無理ですよ」
だけどシノアリスちゃんは切り捨てるように言った。
「無理?」
「全員なんて助かりっこありません。半分助かるかも怪しいです」
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「それが現実です。私たちは因業の信者です、幸せになんてなれっこない。この場所を出たところで行くあてなんてなくて野垂れ死ぬんです」
「だとしてもキミがそれを言っちゃダメだろ。みんなを逃がすために戦おうとしてるキミが」
「……だから、私は嫌なんです。どうせ死ぬ命のために、私が命をかけるなんて。私が教主だから? 私は身を粉にして信者の方々を助けなければいけないんですか?」
「なら真っ先に逃げるか? できないんだろう、キミは優しい子だよ。責任感もある」
「……ふんっ」
「それにさ、キミが死なないために俺がいるんだ。大丈夫、守ってやるから」
言ってから恥ずかしくなった。
守ってやるからなんて、まあっ!
こんな恥ずかしいセリフを人生で吐くことがあるだなんて。
よっぽど格好つけたセリフだったせいか、シノアリスちゃんも顔を真っ赤にしている。いまにも泣きそうなのは笑いをこらえているせいか?
「な、なんにせよ任せろって」
てきとうに締める。てきとうな男だよ、俺は。
「分かりました。それに、私たちってた逃げることだけをしていたわけではありません。策はありますよ」
「策?」
「はい。このカタコンベの道をいくつか潰しました。これで敵が通る道は制限されます。こうすれば迎撃も容易です」
「道を、つぶした?」
「はい」
「それってまさか……爆発で?」
「そうですが、どうかしましたかお兄さん」
「いや、べつに」
それ巻き込まれたんですけど。
そうか、だからカタコンベの中を壊していたのか。あれは敵が攻めてきたときの対策だったのだな。
にしても爆発って……バリケードとかじゃダメだったのかよ。
誰かに文句を言うことでもないが、なんだか釈然としない。さていったい誰が悪いのでしょうか? 俺でしょうか、それとも俺の運が悪いのでしょうか。
「つきましたよ、お兄さん。ここが今回の作戦会議室です」
「作戦会議室ねえ……」
いちおう、俺たちはその本部ともいえる場所に向かって歩いていたのだが。
なんだこれ。ただの部屋にしか見えないけど。
「どうぞ、中へ」
シノアリスちゃんが扉を開けてくれる。
なんでもいいけど、カタコンベの壁にいきなり扉がある光景はなかなかシュールだ。
部屋の中には誰もいなかった。
「いやいや、会議室って言ったじゃん」
「そうですよ?」
シュールな扉の先にはシュールな部屋。
真ん中にテーブルがあって、その上には地図が広げられていた。アリの巣のような模様が描かれている。いや、違う。これはこのカタコンベの地図か。
「ほかの人は?」
「全員、もう逃げました」
「おいおい……」
なんだよそれ、本当にシノアリスちゃんに押し付けて全員逃げたのかよ。
「というわけで、お兄さん。ここはすでにお兄さんと私だけの作戦会議室です」
「なんで他のやつはもう逃げてるんだよ」
「さあ、逃げたかったのでしょう。いちおう名目上は先にカタコンベを出ていき、あとから来る信者の方たちのための下準備をしておくということですが」
「それ本当かよ」
いや、ここにいない人を疑うのは……。
「たぶん嘘ですね」
なんだ、シノアリスちゃんも疑っていたのか。
「外に出て準備なんてすることがあるわけないじゃないですか。みんな自分の命かわいさに逃げただけですよ。でも私はそれを悪いことだとは思いません。みんな逃げられうなら逃げるべきです」
「そうだな」
俺はテーブルに広げられた地図を見る。
おそろしく複雑に思えたカタコンベだが、こうして見れば一定の規則性があるようだ。
中央にある巨大な空間は、先程俺がシノアリスちゃんと会った葬儀場だろう。
「カタコンベは大きく分けて6つのブロックに別れています」
「ほう」
「ここを中央ブロックとし、あとはA、B、C、D、E。というふうに」
「ふむ」
これらはちょうど星型になっている。
「もちろんこれ以外にも小さなブロックや抜け道、地図には描かれていない場所もいくつもあります。
いま現在、Aブロックの避難は完了しております。Bブロックはおおかた。Cブロックはぜんぜん。Dブロック、Eブロックは封鎖されており、そこにいた人たちは現在他のブロックで避難の順番をまっています」
「ふむ」
「この後、Aブロック以外の道はすべて塞ぎます。」
「つまり俺たちはそこで血路を切り開くわけか?」
「そうです。私とお兄さんでAブロックの敵を蹴散らして、そのまま逃げます」
「よし、分かった」
なんとかなりそうだ。
たぶん敵は多いだろうが、それだって5分の1に減るわけだろう。
でもまあ、こういうときはシャネルがいれば便利なんだよな。だってほら、あいつの魔法はすごい範囲をぶっ放せるわけだから。
しかしいない人を頼ってもしかたない。
トントン、と部屋がノックされた。
「どうぞ」と、シノアリスちゃん。
「すいません、教主様。Cブロックなのですが封鎖に問題がありまして」
入ってきたのはどうにも辛気臭そうな顔をした男。
「どうしました、火薬がなくなりましたか? でしたら火系統か土系統の魔法を使える方を呼んできてなんとかしてください。ポーションなら少しありますから――」
「いえ、そうではなくて。避難したくないと言っている人がいて……」
シノアリスちゃんがはて、と首をかげた。
こちらを見てくる。
「俺を見るな、俺を。教主様だろ、お前は」
ちょっとおどけて言ってやる。
シノアリスちゃんは頷いた。
「分かりました。いまから行きます。説得すれば良いんですよね?」
「お願いします」
ふ~う……。
いまから戦わなくちゃいけないってのに、さてはて。問題は噴出するな。




