232 欲求とバランス
帰りの馬車で、エトワールさんは俺の隣に座った。
いやいや、それはダメでしょと思ったのだがどうしてもそうしたいと言って聞かなかったのだ。
代わりにシャネルが馬車の中へ。なんだか貴婦人を運んでいるようで、それはそれでいかにも馬車っぽいけれど。
「榎本さんはどう思われましたか?」
「なにがですか」
俺は馬車の手綱をひきながら答える。あまりスピードは出しすぎないように馬をあやつる。
道の横には街灯がある。あれはいったい何で点灯しているのか。油だろうか、それとも魔石のようなものを使っているのだろうか?
淡い光を横切りながら、馬車は幅の広い道をはしっていく。
「人は、なにごともバランスが大切です」
「バランス、ですか……?」
「はい。それが崩れたとき、人は人でないものに少しずつ変わっていく」
「なにごともほどほとが一番ということですね」
「その通りです。そういう意味ではカシィ教皇もアドリアーノさんも、そのバランスを崩してしまわれています」
「そんなことを言っても良いんですか?」
少なくとも今の発言はかなり問題のあるものだ。
俺は思わずあたりを見てしまう。異教徒が跳梁跋扈している街では、夜になれば人の姿がなくなる。
「これはオフレコでお願いしますよ」
「言われなくてもそうしますけど。でも確かに、あの2人はおかしいかもしれませんね」
異教徒だというだけで根城を壊滅させる。その提案を平気でするアドリアーノも、それを平気で許可する火西も。
「アドリアーノさんも、昔はすばらしい聖職者でした。しかし今では権力のトリコです。榎本さんはこういう話を知っていますか? 人の欲求には段階があるというものです」
「欲求の段階、ですか?」
「はい。それは5段階になっていると言います」
「知りません、よければ教えてください」
わりに知識欲はあるほうだ。まあ、それはだいたい野次馬根性として現れるのだが。
「人は最初、その生命を意地したいと思います。これは生理的な欲望です。たとえばそうですね、睡眠だとか、食事だとか、そういうことをしたいと思うわけです」
ついでに性交だろうか?
人の三大欲求くらいは知っている。
「これが満たされた場合、次に自身の身の安全を欲します」
「えーっと、つまり立場を守りたいとかそういうことですか?」
「それとはちょっと違いますよ。もっと簡単に誰かに危害をくわえられたくない。安全な場所がほしいという欲求です」
エトワールさんは目を細めて優しく笑った。みんなに人気だった学校の先生がこんな笑い方をした気がする。
「つまり、家だとか?」
「そうですね。そしてそれが満たされて、人は次に集団に所属したいと思います。孤独や追放を嫌い、家族や恋人、友人などと繋がりたいと思うのです」
「ふんふむ」
これは割と分かりやすい。
誰だってひとりぼっちは嫌だもんな。
ああ、つまり俺は高校でイジメを受けて、この欲望が満たされなくなっていたのか。
それで安全な家に引きこもって、毎日食べて寝てを繰り返すような自堕落な生活になった、と。
「そして4段階目として承認欲求がきます。自分を他者に認めてほしい。すごいと言って欲しい。貴方が大切だと、誰かの代替品ではないと言われたい」
承認欲求か。
そういや俺は引きこもっているとき、そういうのはなかったかもな。誰かに認められたいだなんてそもそも思わなかった。というよりも自分が嫌いすぎてそんな場合じゃなかったのだ。
「そしてそれすらも満たされたとき、人は自分自身になりたいと考えるのです」
「自分自身?」
「そうです。なんの偽りもない純粋な自分。他者との軋轢などまったく意に介さない自分。この段階まで到れる人は極めて少ない。私だって……まだそのいただきには上り詰めておりますまい」
「では教皇様は?」
俺はあえて「火西」ではなく「教皇様」とあいつのことを呼んだ。
エトワールさんは首を横に振る。
「カシィ教皇は、バランスを崩されてしまった。他人から認められ、5段階目に登ることもできられたはずです。しかしカシィ教皇は自己ではく神にその欲望の果てを求められた」
「自分自身にはならなかった?」
「その通りです。カシィ教皇はおそらくもはや人ではない何かなのでしょう。言うなれば教皇という器。地位とでも言いましょうか。ただ神のみを盲信している。あの御方に自己というものはあるのでしょうか……?」
まるで心配するようにエトワールさんは言う。
たしかにあの男はかつての火西とはまるっきりべつものに思えた。耳を自分で潰し、神だけを信じ。ともすれば口から出る言葉はすべて説教臭い。
あるいはあいつにとって、すでに自分は神と同一のような存在なのではないだろうか?
「アドリアーノさんもアドリアーノさんです。いつまでも承認欲求ばかりを持ち、他者に認めてほしいと喚き散らす。人のためではなく自分のために生きている。昔はそうではなかった、私が若い頃はあの方も立派な人だった」
エトワールの顔は一転して悔しそうなものになった。
もしかしたらこの人は、アドリアーノのことを昔は尊敬していたのかもしれないとなんとなく思った。
「私はね、榎本さん」
「はい」
「教皇になんてなりたいとは思いません。これは本心です」
「でしょうね」
「ですが、他の人が私を教皇に推すのならばと思いここまで頑張ってきました」
「他人の期待に答えるのは良い事だと思いますよ」
コクリ、とエトワールさんが頷く。その堀の深い顔に、影がおちた。
「すいません、そこを右に曲がっていただけますか?」
「右にですか?」
「はい」
孤児院までの帰り道からは外れる。だがエトワールさんがそういうのだ、もしかしたら近道なのかもしれない。いいや、違うな。たぶんどこかに寄りたいのだ。
「シャネル、少し遠回りしていくぞ」
いちおう、馬車の中のシャネルにも言っておく。
返事は声ではなく、コツンコツンと馬車の内装を叩く音だけだった。
「私は他人の期待に答えようと、ここまで来ました。しかし今、はっきりと分かりました」
「なにがですか?」
「私は、この狂った教皇庁を変えるために、その頂点に立ちます。おそらく我々は外からどれだけの攻撃を受けたところで変わらないでしょう。異教徒たちがどれだけコンクラーベを引っ掻き回したところで、コンクラーベを延期にすらしない」
「たしかにそうですね」
「そして挙句の果てには地下に住む異教徒たちを全滅させる? その先になにが残るというのですか。ただ憎しみだけが連鎖していく。異教徒たちはさらに強固に我々を憎み、我々も異教徒を憎む」
「復讐は復讐を生んでいく、と?」
「そうです。たしかにディアタナ様の記したとされる聖典には異教徒を認めないという言葉があります。しかしなにも殺せとは書いてないはずです」
「そりゃあ……」
嫌だよな、神様が自分を信じないやつを皆殺しにしろなんて言ったら。それじゃあまるで独裁だ。
「そこをまた左にお願いします」
「はい」
何度かエトワールさんの案内を受けてついたのは、焼け跡だった。
石畳の家々の間に、ただぽつんと空間が開いている。その光景はどこか異様だ。
瓦礫は撤去されないまま残っていた。たぶんここは……。
「エトワールさんの住んでいた教会ですか?」
「そうです」
エトワールさんは馬車から降りて、杖をついて歩く。
俺も馬車を降りた。シャネルも降りてきた。
「なあに、ここ?」
でもシャネルはあんまり興味がなさそうだ。
「ここには当時、何人かの神父と手伝いの者が住んでおりました。……しかし、生き残ったのは私だけです。異教徒はおそらく私の顔を知らなかったのでしょう、隠れていた私を殺さず、他の者を殺していった……あるいはこの杖のおかげで助かったのでしょうか?」
エトワールさんの目には、涙が浮かんでいる。
たぶん自分の身代わりに死んでいったその人のことを思っているのだろう。
シャネルが飽きたのか、馬車に戻ろうとする。
酷い奴め、と思ったら違った。俺の手も引っ張っていく。
「1人にさせてあげましょうよ」
シャネルなりの気遣いなのだ。
「そうだな」
俺たちは馬車に戻る。
エトワールさんは人知れずこの場所で泣いていた。
俺たちは馬車の中でエトワールさんのすすり泣きの声を聞いた。
しばらくして「すいません」と言いながらエトワールさんは戻ってきた。
「榎本さん、馬車を出してください」
「はい」
「気はすみましたか?」と、シャネル。
「はい。そして決意しました、私は異教徒を憎みません」
「憎まない?」と、俺は思わず聞いてしまう。
「はい、そう決めました。そうすれば、この憎しみは私のところで終わります。ここでもし私が相手を憎んでしまえば、それは永遠の憎しみを生むだけですよ」
しょうじき耳が痛い。
けれど、たぶんエトワールさんが正しいのだと思った。そしてこの人は大人なのだと。
相手のために自分を痛めつけられるような。
「さあ、帰りましょうか。あまり遅いとアンが心配しますから」
「そうですね」
俺はまた馬車をころがす。
空には月が浮かんでいた。満月だった。
なんだかこの異世界に来てから満月をよく見る気がした。なぜだろう、月の満ち欠けがあちらの世界とは違うのだろうか。考えたが答えはでなかった。
ただそこに月が浮かんでいる。
それが答えだった。




