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223 シャネルの成長?


 夕方になって、それまで女の子たちに針仕事を教えていたシャネルが、いったんアパートに戻ると言い出した。


「シンクはここにいてね、明日の朝にでも必要なものをもって戻ってくるから」


 エトワールさんの護衛は今日からはじめている。


 なにせ一度は命を狙われたのだ。エトワールさんを襲った殺し屋が、エトワールの生死を知っているかはわからない。死んだ、と思い込んでくれればいいが。しかし生きていると知っていた場合、今晩にでもまた襲ってくるかもしれない。


 それは誰にも分からないのだ。


「1人で大丈夫か? 夜道ってほどじゃないけど、すぐに暗くなるぞ」


「あら、心配してくれるの? もしかして私が襲われるかもしれないって」


 シャネルは針と糸を片付けながら、小さな女の子の頭を撫でている。明日はこの続きよ、と優しく言い聞かせる。


「そしたら心配するのはキミのほうじゃなくて襲った相手の方だよ」


 そりゃあシャネルは見た目こそ華奢で、しかし胸はおっきくて、悪い男からすればヨダレが出るような存在だろう。


 けれどもしシャネルに声をかけようものなら、まず無視される。それでもしつこくすれば、次の瞬間にはその男は消し炭になっている。


 くわばらくわばら……。


 考えてみれば俺、よく初対面のときシャネルに殺されなかったな。


 きっと相性が良かったんだね!


 いや、運が良かっただけか……。


「私なら1人でも大丈夫よ、それともシンクが1人だと寂しいのかしら?」


「そんなわけあるかよ」


 1日くらい平気さ。


 でも不思議だ、いつもならシャネルは嫉妬してアンさんのいる孤児院に俺を1人で残すようなことしなかっただろうに。


 いや、べつにこの孤児院にはたくさんの子供たちがいて、それにエトワールさんもいて。他の大人たちも少人数いるのだ。俺とアンさんがとりたてて何かしらの関係をむすぶわけではないのだが。


 それでも文句を言うのがシャネル・カブリオレという女性だったはずなのだが。


「ねえねえ、この人ってお姉ちゃんの恋人さんなのぉ?」


 シャネルにむらがっていた女の子は4人。その中でいちばん年長の子が、とんでもないことを言う。


 こんなことを聞いたらシャネルのやつ、「夫婦よ」なんて真顔で嘘をつくのだ。


 もう何度もその光景を見ている俺、予想できてるよ。


 しかし、今回は違った。


「ええ、そうよ」


 あろうことか、シャネルは恋人であると言ったのだ!


 そうか、俺たちは恋人だったのか、知らなかった! 夫婦って言われると否定するが、恋人ってはっきり言われると否定できない。というかちょっとだけ嬉しい。


 いや、でもほら、あのさ、告白とかはしてないからさ。


 やっぱり違うんじゃね?


 なんて、童貞の俺としては思うのだが。やっぱり告白は伝説の木の下とかが良いから(古い)。


 女の子たちはきゃあきゃあと喜んでいる。小さいと言ってもやっぱりそこは女という生き物なわけだ。


「ほらほら、あんまり喜んでないで。そろそろ夜ご飯の時間じゃないの?」


 シャネルはこの前まで違う国で先生をしていたから、子供の扱いは手慣れたものだ。


「男の子たちがお風呂に入ってるから今日はまだだよ!」


 ちなみにこの孤児院には風呂があるのだ! 大浴場! あとで入ろうと思っています。町のお風呂と違って衛生的にも良さそうだしね。


「そうなの。誰かさんが泥だらけにしたからね、きっと」


「お、誰だろうな?」


 とぼける。


 さっきまで俺は男の子たちにチャンバラを教えていた。


 いちおう俺だって刀の使い方くらいは知ってるからな。危なくない程度に稽古をつけていたんだが……まあ小さな子どもたちだし。そこらじゅうで転んだりして泥んこになってたね。


 やっぱり孤児院に泊めてもらういじょう、ある程度は手伝いがしたいわけで。


 まあ俺たちにできることなんて子供と遊んであげることくらいだ。


「こらあっ! 廊下を走っちゃダメだって!」


 外からアンさんの声がしている。


 いつもよりも元気な声。


 家族に対する喋り方というのは、意外とみんな外でのものとは違うものだ。


 ドアが乱暴に開けられて、フリチンの男の子が部屋に入ってくる。


「シンク、遊ぼうぜ!」


「おいおい、お前びちょびちょじゃねえか。ちゃんと体ふいたのか?」


 床が濡れて、ああこれはシミになるぞ。


 アンさんが慌てて入ってくる。


「もうっ、ダメでしょ!」


 げんこつをひとつ。あまり痛そうではない。けれど男の子は大仰に痛がってみせた。


「元気ねぇ」と、シャネルが呆れたように言う。


「すいません。あの、すぐにお風呂まで連れ戻しますんで」


 アンさんは男の子を引っ張っていこうとする。しかし男の子はその場で地団駄を踏んだ。


「アンねえちゃん、シンクのことが好きだからええカッコしてるんだい!」


「こ、こら! どどど、どうしてそんなこと言うのこの子は!」


 アンさんは目に見えて狼狽する。


 そして思わず帽子のつばで自分の顔を隠そうとしたのだろう、しかし手は空気を握っただけだった。残念、アンさんはいま帽子をかぶっていない。


 というか、あはは。アンさんが俺のことを好き?


 まったく、子供というのはバカだなぁ。男女の好き嫌いのことを知るにはまだ早いぞ。どこをどう見たらそう見えるのかな?


 しかしシャネルをフォローしておかなければ。


 こういう問題発言のあと、だいたい嫉妬しだすからな。


「あのな、シャネル。これはこのガキの妄言で、アンさんが俺のことを好きなんて可能性はそれこそ夜空の星が自分の元に落ちてくるようなもので――」


「ふふっ。可愛らしいのね、子供って」


 えっ、シャネルさん笑ってるぞ。


 これは怒ってるのか? 


 それとも怒ってない?


 わからない、どっちだ。杖を握っていないところを見るに大丈夫なのか?


「すいません、すぐに連れ帰りますから!」


 けっきょく、男の子はアンさんに連れて行かれた。


「さて、私もそろそろ帰るわ」


 いちおう、この部屋は俺とシャネルのために用意された部屋ということになっている。その客室から、シャネルは出る。


 俺も門のところまでシャネルを送る。女の子たちは空気を読んだのかついて来なかった。


「あのさ、シャネル。さっきの男の子の言葉だけど――」


 俺は前を行くシャネルに声を掛ける。


「あら、それがどうしたの?」


 空がうっすらと橙色に染まっている。


 こういうのを逢魔が時というのだろうか……。


 なんだか幻惑的な雰囲気で、シャネルは振り返った。


 カラスがどこかで鳴いている。この異世界にもカラスがいるのだ――。


 シャネルは舌なめずりでもするように、俺を見つめている。


 変だ、絶対にシャネルは変だ。いつもと違う。なにが違うのか、俺には分からない。


 分からないことは怖い。


「なあ、お前どっかおかしくないか?」


「おかしいのはいつも通りよ」


 その自覚があるのがそもそもおかしいのだが……。


「なあシャネル」もしかして、もう俺のことを――。


 そんな女々しいことを聞いてしまいそうになる。


 しかしその前に、シャネルが俺の唇をふさいだ。


 自分の唇をもって。


 ――ッ。


 キスされた。


 しかもだ、なんかこうゾゾゾという感覚。まるで蛇が口の中を這っているような――。


 それがシャネルの舌だと気がついたとき、俺は思わず口を閉じてしまった。とっさのガード、これが格ゲーだったらお前マジ神プレイだぞ!


 しかし悲しいかな、これは恋のシーソーゲームなのです。


 チュポンッ、という音がして唇が離される。


 ……はい、キスされましたよ。なんだろうか、いろいろ大事なものを失ったような感覚がする。レイプ被害にあいました、とまでは言わないけれど。


「あら、深いのはダメ?」


「……あ、いや」


 ダメというかびっくりしただけ。


 え、というかなんで俺ブロックしているの? あのままディープキスもやっとけば良かったじゃん! くそ、この童貞バカ!


 俺は自分で自分のことを罵倒する。


 いや、マジでミスったわ。戻れるものなら戻りたい! 女神様、ちょっと時間巻き戻してくれ!


 もちろんそんなことはしてくれません、アイラルンのやつ。


「うふふ、そうね。続きはまたこんど」


「こんどがあるんですね!」


 俺は嬉しくて思わず敬語になってしまう。


「当たり前じゃない、シンク」


 俺はニコニコ笑う。うんうん、良かった。どうやらシャネルは俺のことを好きじゃなくなったわけではないようだ。


「でもどうして?」


 なんでいきなりキスを?


「嫌だったかしら?」


「嫌じゃないです」


 むしろもっとして欲しいくらいです。


 いや、自分からやろうよキスくらい! でもそれはそれで、童貞には難しいのです。


「シンク、いままでごめんなさいね」


「え?」


 なんで謝られてるの?


「私、たぶんいままでシンクのことが信じられていなかったの。自分に自信がなかったの」


 いやいや、なんの話?


 あれ、なにこれ? マジトーン? これもしかして真面目な話?


 イベントCGとか出てる感じのやつ?


 おいおい、そう言われてみれば夕日をバックに少し悲しげな、でも確固たる意思を持って話しているシャネルはとんでもなく美しいぞ。


「だからね、少しばかり貴方のこと束縛してたかもしれないわ」


 ……少しばかり?


 いや、まあ良いんですよ。俺どっちかと言えばマゾだし。


「でも貴方に愛してるって言ってもらって、分かったの」


 ん? そんなこと言ったか?


 ……言った。


 言ってるよ、俺。この前、とっさの判断で愛してるの連呼で修羅場を乗り切ってるよ。


 もしかしてあれでシャネルのやつ、なにかしら吹っ切れたのか?


「私と貴方は相思相愛で、愛の世界に言葉はいらなくて、それでね、それで――貴方が私から離れることなんてないのよね?」


 少しだけ、本当に少しだけシャネルの不安が伝わってくるような気がした。


 俺はやれやれ、と観念する。


 もう無理だろうな。ここまで言われたら誤魔化すことなんてできない。


「当たり前だろ」と、俺は言った。


 そりゃあそうだ、俺はたぶんこのまま、一生シャネルから離れることなんてできないさ。


 愛してるの言葉がその場しのぎでも、それは嘘というわけではない。


 俺はシャネルを愛している、大好きだ。


「だからね、そんなにカッカしないことにしたの、私」


「おう、それはとても良い考えだ」


 いやはや、シャネルさんも大人になったなぁ。


 なんて思っていると、おやおや? なんでシャネルさんナイフを取り出したのかな。


 あれ、なんか人差し指の先を切ったぞ。あ、血がぷっくりとドーム状になってこんにちは。そしてなにをするかと思えば――。


「うぷっ!」


 俺の口に指を突っ込んできた。


 甘い匂い。


 鉄の味と。


 優しい吐息。


「でもやっぱり、浮気はしちゃダメよ」


 指を抜かれる。


 血はすでに止まっているのか、シャネルの指は陶器のようにつるつるできれいだった。


 シャネルはステップを踏むように孤児院から出ていく。


 俺はそれを呆然ぼうぜんと見送る。


「やっぱりあいつ、やべえよ」


 俺はシャネルがすっかり見えなくなってから、そう呟いた。


 けっきょくのところ、シャネルはいつも通りのバイオレンスな美少女だったのだ。



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