161 それぞれの春――ハンチャン1
奉天の街にぞくぞくと馬賊たちが帰ってきた。
春が来たのだ。
久しぶりに奉天に戻った馬賊たちが一番驚いたのは、おそらく見たこともない通貨が我が物顔で流通していたことだろう。
自分のもっているテールが紙くずになったのかと勘違いしたものもいただろう。しかし銀行にさえ行けばそれがゲンという新しい紙幣に交換できるとすぐに気づく。
レートはほとんど同じ。
なのだが、街では自然とテールの価値が下がっていた。それはそのまま市民からのティンバイに対する期待が繁栄された結果だ。
ティンバイの元には街から大量のテールが集まってきた。あとはこれを使って外国から武器を買い入れる。
もちろんこんなことをすれば周りから反感をくらう。ルオの政府からは矢のような抗議文が届いていたが、まあ無視したようだ。
そして、準備は整った。
俺たちは戦争に行くのだ。
雪は溶け、気温は上がり、馬たちは活気づく。
誰もなにも言わない。けれど、戦いが近いことだけは感じ取っていた。
そしてこの日、なぜか俺たち馬賊は全員休みをもらった。
ティンバイは何も言わないが、しかしいきなりの休みだ。バカでも分かる。これは戦いの前の小休止なのだ。
俺はいきなりもらった休み――といっても、冬の間はずっと休みみたいなものだった――を有効活用しようと、街に繰り出していた。
シャネルはいない。
ちょうど翻訳作業が佳境に差し掛かったとかで、街に遊びに行くような状態じゃなかったのだ。
だから俺は一人だ。
「おや?」
街の雑踏の中に、見知った男を見つけた。
いかにも無骨で、武張った男だ。平時だというのにまるで戦場にいるかのように顔をしかめている。
『不死身の毛』こと、ハンチャンだ。
ハンチャンはあたりを見回しながら歩いている。
どこか怪しい様子だ。
「おおい、ハンチャン」
俺は呼びかける。
「………………」
だがそうとう集中しているのか、俺の声は聞こえていないようだった。
俺は近づき、もう一度声をかける。
「ハンチャン!」
「ん? ああ、シンクか」
「なにしてんの、こんなところで」
「いや……それが」
ハンチャンの手には小さなカザグルマが持たれていた。子供がよく遊んでいるあれだ。そこらへんで買ったのだろう、真新しく見える。
俺はそのオモチャを見て、すぐに察した。
「もしかして、娘さんを探してるのか?」
「ああ」と、ハンチャンはどこか恥ずかしそうに頷いた。「奉天に帰ってからもあまり休みがとれなくて。久しぶりの休みだからな」
俺と違ってハンチャンの仕事はティンバイの警護というものもある。それはたしかに休みのない仕事だ。
「そっか。どう、見つかりそう?」
「ダメだ。朝から探しているんだが、やっぱりこの広い奉天で人間一人を見つけるなんて土台無理がある」
「そっか……あ、じゃあ俺も手伝うよ」
「いいのか? せっかくの休みだろ」
「平気平気。どうせ暇だったんだよ。一人で探すより二人で探したほうがいいだろ?」
「ああ、そうだな。……それに、シンクは俺の娘を見てるんだよな」
「え? あ、うん」
その話はあんまりツッコんで聞かれるとボロが出そうなのでやめてね。
「実は俺、自信がないんだ。娘を見たとしても、それが娘だって分かるか。女房なら絶対に分かるはずだ、けれど……娘は」
たしかにそうだろうな。もう十年も会っていない娘だ。ハンチャンの記憶にある姿よりも成長しているはずだ。
俺が思うに、カザグルマですらもういらない年齢だったと思う。
けれどそれを言うのは酷に思える。
「大丈夫だよ、親子なんだろ?」
「そうだろうか」
「おいおい、しっかりしてくれよ。馬賊に臆病者はいらないって、お前が言ってたんじゃねえかよ」
ふっ、とハンチャンは笑う。
「それとこれとは話が別だろう」
たしかにな、と俺も笑った。
というわけで榎本シンク、友人のために一肌脱ぎます。
「とりあえず、どうする? 子供が行きそうなところでも探すか?」
「子供が行きそうなところ? どこだ」
「いや、俺も知らないけど」
ハンチャンはジト目で俺を見る。
「シンク……」
「あ、いや、待って。そうだな、講談師のところとかどうだ? 子供ってほら、お話し聞くの好きだろ? てきとうに公園でも回ってみたらさ、案外いるかもよ」
「たしかにそうだな。そうしてみよう」
俺たちは並んでそこら中の公園に向かう。
たしかに公園には子供たちがたくさんいた。そもそもそのための施設だからな。でもハンチャンの娘さんはどこにもいなかった。
それどころか、俺たちは子供たちに囲まれて足止めすらくらう。
「ああっ! 小黒竜だ!」
「あっちのは『不死身の毛』だぜ!」
「すごい、握手して!」
まあ、おおむねこんな感じだ。
俺はもうわりと慣れっこだが、ハンチャンはこうして子供たちに囲まれた経験があまりないようで、どこかおっかなびっくり対応していた。それがなんだか新鮮だった。
「おいおい、お父さん。もうちょっと笑顔で応対してやれよ。あんなんじゃあ娘もないちゃうぜ」
公園から出て、俺はハンチャンをからかうように言う。
「言うなよ、俺だってもう少し愛想よくしてやりたいさ。でもな……」
「でも?」
「子供って怖いだろ。ちょっと触れば壊れちまいそうで。俺はこれまで、人を殺すことしかしてこなかったから……怖いんだよ」
「ま、慣れるしかないだろ」
次の公園でも同じように子供たちに囲まれた。
さすがに二度目となればハンチャンも対応には少し慣れていた。
けれどそこにもハンチャンの娘の姿はなかった。
そんなふうに公園を回っていると、じきに夕方になっていた。
「シンク、もう諦めよう。今日はありがとうな、酒でもおごるよ」
「おいおい、諦めちゃうのかよ」
たしかに一日中あるきまわって足が棒のようだけど、けれどここで諦めるのはなんだか違う気がした。
「しょうがねえよ、それにさ、探すだけなら戦いが終わった後でもできるさ」
その瞬間、俺は猛烈に嫌な予感がした。
まるで胃の中に針を十本も落とされたような、そんな感じだ。
俺はこの予感を一度だけ感じたことがある。
――虫の知らせだ。
もしかして、ハンチャンは死ぬのか? 今度の戦いで。
ハンチャンはもう諦めてしまったようで、さっさと歩いていこうとする。
「待てよ、ハンチャン!」
俺はハンチャンを呼び止める。
だがハンチャンは止まらない。「さっさと行こうぜ」と、まるで迷路のような奉天の裏道を通っていく。
「ダメだよ、ハンチャン。行っちゃダメだ! 娘に会わなくちゃ!」
ハンチャンがもし死ぬのなら――いや、死んでほしくないが――それでももし死ぬのなら、絶対にいま娘に会わなければ後悔する。
死ぬときに一目娘に会いたかったなんて思いながら死んでいくのは、悲しすぎる。
こうなれば、本当は嫌だがあいつに頼るしかない。
俺は心の中で決心するのだった。




