146 虫の知らせ
……深夜だった。
俺は嫌な予感がして飛び起きる。
「あら、シンク。どうしたの?」
シャネルは文机に向かって、翻訳本をつくるための翻訳作業をせっせと続けていた。
「なんか、嫌な予感がするんだ」
「なにが?」
シャネルがこちらを振り向く。
ロウソクの光に照らされたシャネルの青白い顔は、どこか冷たい美しさがある。
「いや、よく言えないんだがな……」
なぜこんなに嫌な予感がするのか分からない。
しかし俺の中でなにか分からないものがガンガンと警笛を鳴らしているのだ。
「そんなこと言われたって。ふぁああ。眠いわね」
「いや、目が覚めた」
ここから眠ることなんてできないだろう、完全に頭は覚醒している。
「嫌な予感って、そんな曖昧なこと言われても、私は困っちゃうわ」
「そうなんだけどさ」
分からない、なにがこんなに俺を追い詰めている?
とりあえず外の空気でも吸ってこようと、長屋を出る。
空気が肺を指すようだ。風もかなり冷たく、もしかしたら雪が振ってくるかもしれない。
「……分からん」
なぜこんなにも嫌な予感がするのだろうか。
「ふっふっふ、朋輩」
いきなりアイラルンが街角から歩いてきた。いつもなら突然背後とかに立ってるやつだが、今日は心臓に優しい登場の仕方だ。
「なあ、アイラルン。嫌な予感がするんだけど」
「心臓がドキドキしたり?」
「そう」
「それはきっと恋!」
「適当言うな、俺が誰に恋してるっていうんだよ」
「わたくし?」
「それだけはない」
ふっふっふ、とアイラルンは笑う。
「ひどいですわ」
なんだかバカにされているような気になってきた。
「あー、なんかむしゃくしゃする」
「更年期でしょうか」
「分からん、不安と苛立ちが入り混じったような感情なんだ。それでいて……なんか誰か知っている人に危害が加わりそうな気がして……」
誰かが、傷つくような予感がする。
誰だろうか。
シャネル?
ティンバイ?
それともスーアちゃん?
誰か、誰か俺の親しい人に危険が迫っている。
「さて、あんまり遊んでいても手遅れになります。朋輩、お教えしますわ」
「やっぱりなんか知ってたか」
こういうときのアイラルンは頼りになる。
「朋輩、それはスキルの覚醒ですわ」
「スキルの?」
それってあれだよな、このまえ『5銭の力』が『+』になったときみたいな。
「つまり俺のスキルが強くなった?」
「はい、そうです。朋輩とわたくしの愛の結晶である『女神の寵愛~シックス・センス~』のスキルがね。朋輩がいま感じているのは虫の知らせというやつですわ。他人の死を予感できるというものです」
「それってあれだよな、遠く離れた人が死ぬときに嫌な予感がするってやつ。え、つまりいまか?」
「そういうことです」
「誰か死んだのか?」
「いいえ」と、アイラルンは首を横にふる。「まだ間に合います」
「間に合う?」
「わたくしが朋輩に差し上げたスキルがそんなヤワなものなわけないじゃないですか。良いですか、朋輩。朋輩の虫の知らせは、言ってしまえば虫の知らせを予感するものです。もしこれで本当に死ねば、その予感は確信的なものに変わります」
「つまり誰かを助けることのできるスキル?」
「はい、朋輩にはお似合いのスキルですわ」
そうだろうか。
しかしこの嫌な予感、いったい誰だろうか。
そこが分からないのは少しだけ不便だ。
考える、頭が熱をだすほどに。
そして、いきなり歯車が噛み合ったような感覚が頭の中ではじけた。
「もしかして……師匠か?」
李小龍。
こっちの国に来て、俺にまともに武道を教えてくれた人だ。何歳かは知らないがかなりの高齢のくせに、俺よりも強かった。
「さあ、わたくしは分かりませんが朋輩がそう感じるのでしたらそうなのでしょう」
「くそ」
ここから師匠の住む家までは、どれだけ急いでも人間の足では三十分はかかる。そしてそのあとにはあの長い階段だ。
「くそ、いますぐ行かないと!」
「それがよろしいですよ」
俺は一度部屋に戻り、ジャケットを羽織り剣をかつぐ。
「出かけるの?」
「ああ、ちょっと言ってくる」
「私もついていこうか?」
いいや、と首を横にふる。
師匠がどんな状況なのかは分からないが急がないければならないことだけはたしかだろう。シャネルと二人で行くよりも俺が一人全速力で走ったほうが確実に速い。
「キミはここにいてくれ」
「危ないことしちゃ嫌よ」
ここでダメではなく、嫌と言ってくれるあたり。シャネルはいい女だ。べつに禁止はしないが、自分としてはやってほしくないというほどの意味だろう。
だから俺も、
「わかったよ」
なんてイケメンスマイル(自称)で答えるのだ。
準備を整えてまた外に飛び出す。
アイラルンはいなくなっていた。もしかしたらというか十中八九まだ見ているのだろうが、少なくとも俺の視界には映らない。
俺は走る。
全力で。
最近では馬に乗ることも多く、運動することもあって体力もついてきたと思う。異世界に来たときにバフがかかっている分もあって、本当にオリンピックとか出られるんじゃない? なんて思ってしまう。
夜の街だ、こんなときに出歩いているのは犯罪者か酔っぱらいくらい。
そういう人たちは忍び足か千鳥足。
俺のように走っている人間なんていない。
なんとか師匠の家にたどりつき、しかしそのさきにはバカみたいに長い階段が待ち構えている。
「くそ、家くらい平地に建てやがれ!」
叫んでも答えるものはいない。
なんて思ったら、
「がんばってくださいましー」
と、まるで風が歌うようにアイラルンの声が聞こえてきた。
はいはい、やりますよと俺は階段を二段飛ばしであがっていく。
嫌な予感はどんどん強くなっている、いったい師匠になにがあったというのだろうか。
師匠の家の敷地内は、しんとしていた。
だが、武道場の扉だけは不自然に開いている。
俺はいざなわれるようにその扉の方へ。
嫌な予感が大きくなる。
武道場の中を覗く。そこには、師匠ともう一人。見たことのない大男が立っている。
まるで武蔵坊弁慶のように、背中に武器をいくつも背負っている。
「師匠、お覚悟を」
弁慶男が、槍を構える。
それは修行用の刃が潰れたものではない、正真正銘の槍だ。
「はあ、はあ……」
師匠は息を切らしている。
その手には同じように槍が握られていた。
弁慶男が前に出る。
それよりも更に速く、俺は駆けている。
二人の間に入り込み、一瞬にして剣を抜く。そして向かってくる槍を切り上げた。
一瞬の閃光のようなかち合い。
「ぬうっ!」
弁慶男が後ろに下がる。
槍は真ん中ほどで切れて、刃の部分は天井に刺さっていた。
「お前さん……」
「師匠、久しぶり」
最近忙してくてあまりここには来ていなかった。
「なにもの」
と、弁慶男が言う。
「なにものだぁ? 俺からすりゃあお前こそなにものってもんだぜ」
俺は男をにらみつけ、そう言い放った。




