136 スーアの決意、一緒に行きたいです
夕方になって講談師が帰ると、それに応じるように周りにいた人たちも帰ってしまった。
けっきょく一日中この公園にいたことになる。途中で何度か知らない人がティンバイに挨拶に来たりした。もしかしたら何かしら俺たちの敵である人間が危害を加えに来るかと警戒していたが、それはなかった。
大人たちが帰ってしまい、いまやティンバイの周りには子供たちだけがいる。
こういうとき、子供は怖いもの知らずだ。大人ならばティンバイに遠慮して遠巻きに見るものだが、子供は物語のヒーローが目の前にいると大はしゃぎで話しかけ、遊んでくれとせがむ。
子供と接するとき、ティンバイは驚くほどに優しい顔になる。
いつもの獣じみた表情は鳴りを潜め、力強さがそのまま優しさになったような顔をする。
「……私、もしかしたら張天白さんのことを誤解してたかもしれません」
そう言ったのはスーアちゃんだ。
「あいつもさ、悪いやつじゃないんだよ。キミには少し厳しかったけれど」
「……はい」
最初は俺にも遠慮していたスーアちゃんだが一日一緒にいたらかなり打ち解けた。
もうあまりおどおどしていない。とはいえまだ少し緊張があるのか、口ぶりは丁寧だ。いや、これは彼女の素なのだろう。
「おら、お前ら。そろそろ帰りな。暗くなるぞ!」
ティンバイがそう言った。
たしかに空は茜色に染まっている。
かなり冬が近くなってきた。夜になるのも早い。
「いやだよ、おいらたちまだ遊んでほしい!」
「聞き分けが悪いと、怖い馬賊に襲われても知らねえぞ」
それはお前だろ、というつっこみは無粋だろうか。たぶん怖い馬賊うんぬんはここらへんでは子供に言い聞かせるときの常套句なのだろう。
子供たちもおかしく思ったのだろうか、キャッキャと笑う。しかし意外と素直だ、そのまま帰っていく子たちばかり。
じゃあねー、とみんなはティンバイに手を振る。
いま、1人の子が最後のお別れをしようとティンバイに駆け寄る。
俺はなんとなくだが、危ないなと思った。それはまったくの勘だが、俺の勘はよくあたる。なにが危ないって、子供ってのはよく転ぶからな。だから、これは転ぶなと思ったのだ。
「わあっ!」
案の定、子供は頭からこてんとコケた。
泣くかな? あ、泣いた。
わんわんと泣いている。
やれやれ、と思って俺は子供に歩み寄り、助け起こそうとする。
「ならねえ!」
だけど、そんな俺をティンバイが思いのほか強い口調で止めた。
「なんだよ」
「むやみに助けるんじゃねえ、それはその子のためにならねえって言ってんだ。人間、転けたって誰も助けちゃくれねえんだ。だから自分で起き上がらなくちゃいけねえ。無闇やたらに助けるってのは、そのガキのためにならねえ」
きついようだが、たしかにその通りだと思った。
だから俺は子供を助け起こすのをやめた。
子供は泣いている。でもティンバイの言葉が聞こえたのだろう。その意味が全部理解できなくても、なんとなくは察したのだ。頑張って1人で立とうとする。
泣いているが、それでも立ち上がる。
偉い子だ、と俺は思った。
「良いぞ、めったに好とは言わねえ俺様だが、お前はよくやった、上等だぜ」
ティンバイに褒められてよっぽど嬉しかったのか、子供は「うん!」と答えてすぐに泣き止んだ。
ティンバイは子供の頭を撫でてやる。
子供は嬉しそうに笑うと帰っていった。
「お前って本当に子供が好きだよな」
「子は国の宝だ」
「そうだな」
子供はみんな帰ってしまった。
「俺たちも帰ろうか」、と俺はスーアちゃんに行った。
「……はい」
スーアちゃんはなにかを考えているようだった。その聡明なおつむは、必死で自分の行き先を模索していた。
「家まで送るよ」
「あ、ありがとうございます。お願いします」
「なあ、鳳先生」
「は、はいっ!」
ティンバイに話しかけられて、スーアちゃんはちょっと舌を噛んだ。
「俺様たちは明日の朝、この街を出る。そろそろ奉天に帰らなくちゃならねえ、さすがに休みすぎたと思ってたところだ」
あんまり休んだ感じはないけど。でも多忙なティンバイにとって1日の休日ですら休みすぎたということなのだろう。
「はい」
「良いか、あんたにもこれだけは言っておく。決めるのは自分だ、一度転けてそのまま突っ伏してるのも自由だし、もう一度立ち上がって戦うのも自由だ。あんたにはどっちの道も選べる。だから俺様がどちらをとれと強要はしねえ。だがな、後悔しない方を選びな」
「……はい」
「よっ、英雄」
「茶化すんじゃねえよ、さっさと鳳先生を送ってやりな。俺様は先に宿に戻ってる」
「ああ」
行こうか、と俺はスーアちゃんを連れて行く。
スーアちゃんは家に帰るまで、一言も喋らなかった。さようなら、と家に入るときに言っただけだ。
俺はさっさと宿に戻る。
きっとスーアちゃんはもう一度立ち上がるさ、そう信じていた。
それは俺の勘じゃなくて、ただ彼女を信じただけだ。
だってスーアちゃんの目は、死んだ人間の、終わった人間のそれではなくて強い意思のある人間のものだったのだから。
その日はそれで終わりだ、宿に戻ってティンバイと飯を食った。夜ご飯の時間にも街の有力者が現れたが、まあティンバイはそれなりに対応した方だと思う。あいつにしては、という意味だが。
――そして翌日。
いままさに登る朝日からは快晴の気配がする。
今日は昨日よりももっと晴れる。そんな予感があった。
俺たちは宿の前に馬を並べている。ダーシャンに借りた馬は今日もやる気なさげな顔をしている。
「来るかな」
「どうだろうな、来なけりゃそれまでさ」
まだ早朝だ。
来るにしてもこんな時間に来てくれるだろうか? スーアちゃんが来たときにはもう俺たちが出発した後、なんてことになったら笑えない。
「なあ、もう少しだけまってみないか?」
「どうしてだ」
「だってこんな朝っぱらから来るわけないじゃないか」
「もしそうだとしたら運がなかっただけさ。馬賊になるっていうんだ、運だって必要だ」
そういうものなのだろうか。
俺たちは朝のまだ誰も起き出していない街で、まるでこの世界にたった2人の人間のように立ち尽くす。もう1人、旅の道連れがいてくれればいいのだが……。
「来るかな」と、俺は思わずもう1度、言った。
しかしティンバイは何も答えない。
ティンバイは馬に水をやっている。これから長い旅が始まるのだ、馬の体調も万全にしておかなければならない。俺は恥ずかしながら馬の世話ができないから、ティンバイに任せている。
「よし、行くとするか」
馬に水をやり終わって、ティンバイは出発の決意をしたらしかった。
「……ああ」
ここで引き下がる俺ではない。
もしもスーアちゃんにやる気がなく、もしくは運がないのならば諦めるしかないのだ。
ふと、地面から温かい朝もやが立ち込めてきた。もうすぐ冬が来るのだと俺は感じた。
朝もやは街を包み込む。俺たちはその中で、まるで身を隠すようにしてこの街を出るのだ。
「行くぞ」
ティンバイが馬の尻を叩く。
「そうだな」
俺もそれに続こうとした。
――そのときだった。
朝もやの先から、こちらに向かって駆けてくる少女の姿が見えた。
「ま、待って。待ってください!」
大きな荷物を重たそうに背中に抱え、必死で走ってくる。
いうまでもない、スーアちゃんだ。
「遅いぜ、鳳先生!」
ティンバイが破顔する。こいつはこいつでスーアちゃんが来てくれて嬉しいのだろう。
「あ、あの。わわ、私も。私も連れて行ってくだしゃい!」
あんまり焦っているのだろう、スーアちゃんは見事にかんだ。
それで俺たちは笑ってしまう。スーアちゃんは恥ずかしそうにうつむく。
「良いともさ」と、俺は彼女に言う。
「覚悟は決まったのかい?」と、ティンバイ。
「あ、あの。はいっ。私、一緒に行きたいです。それでこの国を良くしたいんです、貴方たちと一緒に!」
「良いだろう。ただし俺様たちについてくるのは大変だぜ。お勉強しかしてこなかった先生には辛いことかもしれねえ」
「か、覚悟の上です」
スーアちゃんは怯えることもせず、しっかりとティンバイの目を見た。
ティンバイもそれで深く頷く、大丈夫だと認めたのだ。
「ならば一緒に来い! ゆくぞ、長城の先まで。この国をとりに!」
こうしていま、1人の少女が俺たちの仲間になった。
その名は鳳九蓮雛愛。
かつて天才の名をほしいままにし、しかしその若さゆえに難関の試験に受かることのできなかった少女。だがそれからも彼女の中にある国を良くしたいという情熱は衰えなかった。
俺たちにとって、彼女はなくてはならない存在だ。
そして彼女にとっても――俺たちとの出会いは素晴らしいものであるはずだ。
日は昇りつつある。その日が昇れば、あまねく地が照らされる。金持ちも貧乏人にも平等に、日は昇るのだった。




