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118 不幸な少女に幸福を


 いきなりあらわれた少女に俺は少々警戒する。


「どうしたの、お嬢ちゃん。こんな時間に危ないぞ」


「あの、すいません。お花、いりませんか?」


 みれば女の子は一輪の花を手に持っている。白い花だ、名前は分からないけれどそこらへんに生えていそうな花。たいした値打ちはなさそう。


「花ねえ……」


 正直いらない。


 けれどこの子、どうしてこんな時間に花なんて売っているのだろうか。


 もしかしたら、と俺は思う。もしかしたらこの子はマッチ売りの少女的なあれだろうか。そもそもマッチ売りの少女ってなんでマッチ売ってたんだっけ? という疑問はさておき、ここで俺が花を買ってやらなければこの子は凍え死んでしまうかもしれない。


 奉天の街の夜は冷えるのだ。


「いくら?」


 俺がいうと、女の子は嬉しそうに笑った。


「あ、あの。5万テールです」


「高っ!?」


 え、だって5万テールって日本円だと5万円だよね。なんでそんなに高いのさ、こんな花が。


「あ、あの……いちおう初めてなんです。5万テールでお願いします……」


 なにが初めてなのかよく分からない。


 でもたぶん5万円必要なんだろうな。


 もしくはこの花、じつはケシかなにかのアヘンの材料の花だったりして。だとしたら余計いらないけど……でも女の子のためだ。


「これで足りる?」


 俺はもらったお金を出す。この国のコインの価値はいまだによく分かっていないから、もらったお金で一番高そうなのを差し出す。


「あ、あの。これじゃあ2万テールで……」


「あっそう。じゃあ3枚ね。お釣りはいらないよ」


 サービスだ。


「あ、ありがとうございます! あ、あの。初めてですけどたくさんたくさん頑張ります!」


「え? あ、うん。じゃあ頑張って」


 俺は花を受けとると長屋に向かって歩きだす。


 まあ高い花だったけどシャネルにプレゼントしよう、たぶん喜んでくれるはずだ。


「あ、あのー?」


 後ろから声をかけられる。


「なんだ?」


 振り返る。


「や、やらないんですか?」


「なにを?」


「あ、あの……ですから」


 なんだか歯切れが悪い。俺は眠たいのだ、さっさと帰りたいのだ。


「とにかくさ、キミも早く帰りなよ。親が心配してるだろ。こんな夜遅くまでさ」


「あ、あの……ありがとうございます!」


 女の子はなぜか泣きそうになって、土下座をするような礼をすると、きびすを返して走り出した。転けそうで危ないなあ、なんて俺はそれを眺めていた。


 まったく、なんだったんだ。


 さーて、帰るか。


「ふふ、さすが朋輩ほうばいですわ」


「うわっ、びっくりした!」


 いきなり声がしたものだから驚く。だって誰もいないと思ってたんだもん。


 こんなことをするのはただ1人。


「ごきげんよう、朋輩」


「いつもながらいきなり出てくるな、アイラルン」


 因業いんごうなんていうよくわからないものを司る邪神――もとい女神、アイラルンだ。


 なんだか久しぶりに見たなぁ。


「朋輩、わたくし感動してしまいました」


「なにが?」


「だって朋輩、いまの女の子、手を出さずにお金だけ与えて返すだなんて。朋輩はわたくしが思っていたよりも紳士でしたのですね」


「なんのこっちゃ」


 俺がそう言うと、アイラルンは微笑んだ。


 認めたくないがその微笑みは清楚なもので、俺の好みのものでもあった。


「やっぱり気づいてらっしゃらない?」


「なにが」


 アイラルンの金色の髪が奉天の夜風にサラサラと揺れる。俺はそれに見惚れる。


「朋輩、あの花を売るって隠語ですわよ」


「因業?」


「い・ん・ご! まったく朋輩ったらかわいらしい」


「うるせえな」


 お前のほうがかわいいよ、とは言えない。言わない。言ったらたぶん調子に乗るし。


「あの女の子は朋輩に処女を捧げる代わりにお金がほしいと言っていたのですわ」


「……え?」しかしすぐに察する。「どおりで高いわけだよ、この花!」


「ふふ、ですからあの子はやる気満々でしたのよ。サービスもたくさんしてくれるって、いったいなにをしてくれるつもりでしたんでしょうか?」


「いや、でもさすがの俺でもさ……うん。あれは犯罪でしょ」


 なんていうんだっけか、児童ポルノ法? 略して児ポ法。なんだかこの略し方も卑猥だよね。


「いやはや、朋輩は素敵な殿方ですわ。アイラルン、感激しちゃいました」


「知らなかっただけだよ」


 ま、知ってててもやらなかったと思うよさすがに。


「そんな朋輩にご褒美をあげましすわ」


「キスか?」


「まさか」


「そうか……」


 ちょっと残念。


「あの女の子がどうして自分の体を売っていたのかお教えしますわ。あの子は母親と2人暮らしですわ。しかしその母親が病気になり寝たきりなのです。父親は貧乏に嫌気がさして馬賊になりそれっきり帰ってきません」


「酷い話だ、不幸な女の子」


「本当に。しかしあの子はむくわれますわ。朋輩があげたお金であの子は母親のために薬を買います。そして薬が効いて母親は病気を完治させますわ。父親も長い馬賊生活から帰ってきて、それから3人は幸せにくらします」


「なんだそれ、そういうのご都合主義っていうんだぜ」


 というかアイラルンの妄想だろ?


 そんな都合のいい話あるかよ。


「しかしそうなるのですよ、というかわたくしがそうします」


「はは、そりゃあ頼もしい」


「はい。ですから朋輩の行為は無駄ではありませんわ。貴方は正しいことをした。素敵ですわよ、朋輩」


「おかげでまだ童貞さ」


「ふふ、朋輩。これだけは言っておきますわ。初めてはシャネルさんがよろしいですよ」


「えー、シャネルー」


 と、言いつつも俺もそれがいいと思っていた。


 なんだかんだ、俺はシャネルのことが好きなのだから。


「朋輩は素敵な人ですわ、不幸な少女に幸福をあたえたのは間違いなく貴方です」


「かいかぶるなって」


「では朋輩、今日はここまでで。わたくしは帰りますわ」


「はいはい、じゃあな。また出てこいよ」


「もちろんですわ。朋輩も、くれぐれも他の女にうつつを抜かさぬようお気をつけくださいまし」


 他の女って?


 それってえーっと、シャネルが主軸だろうか。それともまさかアイラルン? まさか、ね。


 アイラルンは消えた。まあいつもどおりだ。


 俺は1人になって長屋まで帰る。


「ただいまー」


 もう夜だし、他の家にも迷惑かと思って小さな声で言う。シャネルも寝てるかもしれないしね。


 でもシャネルはちゃんと起きていた。


「おかえりなさい」


「うん、ただいま」


「遅かったのね」


 もうかなりの時間だ。


「それがさ、今日は街の外に出てたんだよ。悪いやつらを退治してきた」


「そうなの? 怪我はない?」


「大丈夫」


 俺はシャネルに花を手渡す。


「なあに、これ?」


「花だよ」


「見れば分かるわ」


 シャネルは呆れる。でもそんな表情もクールで素敵た。


「プレゼント」


「ふふん、ありがとう。ちょっとお酒臭いわね」


「飲んできたからね」


「ふうん」


 シャネルは水の入ったツボから、一杯の水をすくってくる。それを俺に渡してくれる。一息で飲む。どうして酔が覚めてきたときの水はこんなにおいしいのだろうか。


「ありがとう」


「もう寝る?」


「ああ」


「そう」


 シャネルは布団を敷いてくれた。俺はそこに潜り込む。酔は覚めてきたとはいえ、ちょっと気分が悪かった。


 シャネルが灯っていたロウソクを消した。奉天には驚くことに電気が通っているような場所もある。けれどこんな貧乏長屋ではとうぜんロウソクだ。


「おやすみなさい」と、シャネルが言う。 


 そちらを見ると、シャネルの白い肌が薄明かりに照らされて神秘的に光って見えた。


 なんて美しいんだろうか……。


 アイラルンが美しいのは彼女が女神だからだ。


 ならばシャネルは?


 シャネルの美しさだって負けていない。


 まったく俺にはもったいない女だ。朝起きたらなにか感謝の言葉を言ってやろう。ありったけの愛

情を込めて。それくらいしか俺にはできないのだから。


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