112 極意と旅立ちの日
奉天の雨はいつもジメジメとしている。
俺は武道場の入り口の前に座っていた。
「どうしたんじゃ?」
師匠が声をかけてくる。
「うん? あ、いや……」
自分でも落ち込んでいるのは分かっているのが、どうして自分が落ち込んでいるのかは分からない。なぜ木ノ下の写真を見ただけでこんなに落ち込んでいるのだろうか。
あれから1週間ほど経った。その間、奉天では雨ばかりが降った。日に日に気が滅入ってくるような気分だ。
「秋雨じゃな」
師匠が隣に座る。
「そうだね」
「これ、食うか?」
差し出されたのはリンゴだった。受け取ると朝の修行でやられた肩が痛む。皮もむかずにかじりつくと思ったよりも酸っぱい。さんざんだ。
ザーザーと雨が降っている。
俺はいったいどうすればいい?
もしかしたらこの俺は、もう復讐なんてしたくないのではないのだろうか。いままで2人殺した、その2人には殺されるだけの理由があった。俺のことをイジメていたし、この異世界に来てからだって俺に危害を加えた。
でも木ノ下はどうなのだろうか。
彼女はこの国の元首として国を統治しているのだ。そんな人を俺が個人的な復讐心で殺してもいいものだろうか。
「ねえ師匠、この国の人はどうして女の人に統治されてるんだ?」
俺は師匠に聞いてみる。
そりゃあ古代では日本だって卑弥呼だとか、逆に現代の議会民主制では女性が国家元首になることはある。けれど、言っては悪いがこういった中世、近代の政治において女性が表舞台の、それもトップに立つことなんて稀も稀だろう。
「……この国の人間はのう、みんなあの御方が好きなのじゃ」
「どうしてだよ」
酸っぱいリンゴをさらにかじる。
ここ1週間ほど木ノ下――木大后と呼ばれている――のことをいろいろ聞いて知った。本当にこの国ではあの女はみんなから好かれているのだ。
「あの御方は40年も女手ひとつでこのルオの国を治めてくださった。守ってくださった。あの御方がいなければこの国はとっくに洋人どものものになっておったじゃろうな」
「どうして?」
「お前さんは知らんようじゃが、この国は30年も前に戦争をしたんじゃよ。グリースという国とな。そりゃあもう酷い戦いじゃった、一方的な戦いじゃったよ」
「一方的――? 勝ったの、負けたの?」
いや、この言い方では勝ったわけがない。
「負けたよ。それによりこの国には魔片と呼ばれる物質が持ち込まれるようになった。あれは毒じゃよ、たしかにあれを体内に摂取すれば天にも昇る心地じゃて、それに色々と身体にも好影響はある。しかしあれを飲めば心が壊れる。そんなものがこの国に蔓延したのはグリースの、洋人のせいじゃ」
「だからこの国の人は洋人を嫌っているのか」
「そういうことじゃ。そのあとも何度か戦闘は行われた、近年でも南の方でグリースに支援を受けた革命派が反旗を翻したようじゃが、それは中央政府の袁将軍が鎮圧したそうじゃ」
「グリースって国はこの国を狙ってるんだな」
そういうの植民地支配っていうよな。
「そうじゃ、それを食い止めておるのはひとえに木大后様のお力じゃ」
俺は庭先に降り注ぐ雨をじっと見つめる。
……どうすればいい?
シャネルならばそんなの関係なく殺せばいいと言うだろう。けれど俺はたぶん、そこまで気が狂っていないのだ。
たしかにイジメられていたことは腹が立つ……しかし。
俺は木ノ下に直接会うべきなのだと思った。
そして俺は俺自身のこの気持に整理をつけるべきだ。そうしてから生かすか殺すかを決める。
俺の中で暗い感情がうずまく。木ノ下への殺意と、殺してもいいのかという葛藤。
「ときにお前さん、この前の闘技場でのことじゃがな」
「うん?」
「妙な感覚がしたと言っておったじゃろ」
「ああ、うん。変な感じだった。なんか俺がよけるんじゃなくて、相手が攻撃をはずす? みたいな感じ。あれ以来一回もできてないんだけどさ」
「のう、お前さん。野心はあるか?」
ある、と言えばある。でもそれは野心というべきか。
誰かの上に立ちたいのではない。俺をしいたげたやつらをこき下ろしたい。そういう気持ちならある。
「微妙」
「そうか。このさいじゃからはっきりと言っておくぞ。お前さんはいつまでもこんな枯れた老人と一緒におるべきではない。人間いたるところに青山ありと言うじゃろう」
「え、ごめん意味わかんない」
「骨を埋める場所などこの世のどこにでもあるのじゃ、大きな目標があるならば恐れずどこにでも向かっていくべきじゃて」
「大きな目標……」
「それくらいあるんじゃろ?」
俺は頷く。
とにかく木ノ下に会わなければ。会って確認するのだ。
「わしが弟子をとらんようになったのには理由があるんじゃ」
「へえ」
「最後にとった弟子をわしは最良の弟子じゃと思った。才能だけならばお前さんと同じくらい、いや上回るかもしれん男じゃった」
「そりゃあすごい」
「そやつは極意をえとくして、ここを去った。そのときわしは思ったのじゃ、この弟子以上の者はもう現れない。わしはこの男をこの世に送るためにいままで武道にはげんできたのじゃ、とな」
「でも俺にはいろいろ教えてくれたぜ」
「そうじゃ、お前さんの才能には一目で気づいた、それで心底惚れ込んだ。だからもう一度、という気持ちになったんじゃ。わしの期待どおりにお前さんはこの短期間で極意にまで到達しおった」
「それってあの……?」
「そう、その極意とは――」
「あ、待って。これもしかして奥義伝承みたいなパターン。困るなあ、まだ心の準備ができてないよ」
「奥義など、ない。あくまで我が流派にあるのは極意じゃ。それは心構えでしかなく、それを知ったからといって相手を倒せるわけでもない」
「そうなの?」
「そうじゃ」
「そういえばこの流派の名前って?」
「名前もない。名付ければ形が定まる。そうすれば根を下ろした木のようにその場からは動けんくなる。しいていうなら無名流じゃ」
「無名流……」
「そうじゃ。そしてその極意とはすなわち水となること。お前さん、そこの水たまりに手を突っ込んでみよ」
俺は立ち上がって、地面にできた水たまりに近づくと手を入れた。
「こうか?」
「どうじゃ?」
「どうじゃって」
手が汚れただけだ。どうというわけでもない。
「お前さんが手を入れたとき、水は痛みを感じたか?」
「感じるわけないだろ」
「ではそれをよけたか?」
「いや、よけるわけないじゃん」
よけた、というのは違う。ただ俺が手を入れて水が動いただけなのだ。
「つまりはそういうものじゃ、それこそが水の極意。水となることじゃ。分かるか?」
俺は首をかしげる。
「分かるような……分からないような……」
「ふおっふおっふぉ。それで良い。これで分かったなどと生意気なことを言っておったら叩いとったところじゃよ」
「あぶねー」
でも本当に、なんとなーくは分かっているのだ。
そしてこの奥義を教えてくれたということはつまり――。
「師匠、俺も出ていくよ」
「それが良い」
「うん」
ふと見れば、青空が覗いている。突然雨があがったのだ。
シャネルが家の方から出てきた。
「ねえシンク、お昼ご飯なんにする?」
「いや、シャネル。荷物をまとめてくれ」
「え?」
「師匠、いままでありがとうございました」
俺はしっかりと頭を下げる。
師匠は頷いた。
「……いきなりねぇ」
シャネルが呆れたように言う。否定はできない。
「しかしお前さん、どこか行くあてはあるのか?」
「そうだなあ……」
その時、いきなり馬のひづめの音が聞こえた。
なんだろう、と思って階段の方に行く。すると、長く険しい階段を馬が駆け上がってきていた。
俺は慌ててその場から離れる。このままだと馬に轢かれそうだ。
「はあっ!」
馬を駆る男が声を張り上げた。
すると、馬は高く跳躍するようにして階段を登りきった。
男は険しい三白眼で睨むように周囲を見渡す。男の黒髪の先には水滴がついており、それは太陽の光に反射してキラキラと光ってみせた。
「ここか」
と、男は言う。
馬上の男の顔まではよく見えない。
しかしその片耳がちぎれていたのを確認したとき、俺は思わず声をだしていた。
「ティンバイ!」
「ああ? 誰だ、この俺様のあざなを馴れ馴れしくも呼ぶやつは――って、榎本じゃねえか」
馬に乗ってド派手に現れたのは奉天でも有名な大馬賊、張作良天白だった。
ティンバイは馬から軽やかに降りると、俺に向かって獣のような笑顔を向けた。
「久しぶりだな、ティンバイ」
と、俺は言う。
「息災だったか? 榎本」
「ああ、お前こそ馬賊家業なんかで死んでなかったか?」
「いいやがるぜ」
どうやら傷はすっかり治っているようだ。まったく元気そうだ。
「どうしてこんな場所にきたんだ?」
「李小龍に会いたくてな。お前、龍の弟子だったのか、どおりで強いわけだぜ。まさかこんな場所で会うとは思わなかったよ」
俺とティンバイが会った荒野から、この奉天まではかなり距離が離れている。
「お前の噂はよく聞いてたよ」
「俺様は有名人だからな」
「師匠ならそこにいるぜ」
ティンバイは武道場の前に座る師匠の元にいき、自分の膝が濡れることもお構いなしに膝をついて礼をした。
「高名な李小龍先生とお見受けします」
ティンバイは驚くほど丁寧に師匠に対して言った。
「そうじゃよ」
「突然のお願いなのですが、我が軍に加わっていただけないでしょうか。貴方が名を連ねてくれれば、我が軍にもいきおい力が増すというものです」
「軍、とな。馬賊ふぜいが。悪いが断るよ」
「そうですか」
「しかし、そこの不肖の弟子を連れて行けばよかろう」
ティンバイがこちらを振り向く。
え、俺?
いやそれもアリか。
「榎本、お前が来てくれるか!」
「あ、いや……」
でもいきなり言われてなあ。
「いまは長城を越えるのに1人でも戦力が欲しいんだ。お前のような実力者が来てくれるならばこれに越したことはない。しかし李先生、いいのですか?」
「なあに、そいつはこんな場所にいる男ではないよ。にしてもお主、長城を超えるとな?」
「はい」
ティンバイたちの話は俺には理解できない。
しかしなにやら深刻そうな話をしている。
「お主が天下をとるか? 一介の馬賊が」
その瞬間、ティンバイの表情は獣のように険しくなる。
「ジイさん、俺様にできねえことなんてねえのさ。民がそれを望む限りな!」
その瞬間、ティンバイは太陽を背にしていた。その神々しいまでの後光を俺は見た。
この男の言葉には自信がある。他人を酔わせる絶対的なカリスマが。ついてこうと思った。師匠も好意的に思ったのか、微笑んでいる。
「若いのう……よろしい。ならばわしが弟子を連れて行け。そして木大后様のところに行くのじゃな」
それこそが、俺が望んでいることでもあった。




