105 飲み水を買おう!
その日から俺の修行は始まった。
「とりあえずそうじゃのう、水をくんで来るんじゃ」
最初は水くみから。
修行はつけてくれないという約束だったはずだが、どうやら雑用はさせるらしい。必然的にこの家にしばらく泊めてもらうことになる手前、断ることはできない。
「それは良いけどよぉ、ジイさん。水ってどこからくんでくるの? 井戸?」
「これ、ジイさんとはなんじゃ。せめて師匠と呼べ。もしくは小龍老師でも良いぞ」
「うるせえ、ジイさん」
桶で頭を叩かれた。
避けられなかった。
「ほれ、行ってこい。下に行けば水売りがおるからの、そこで買ってくるんじゃ」
「井戸じゃないんだな」
「当たり前じゃろ、この奉天で井戸水なんぞ飲んでおったらすぐに体が腐って死ぬわい」
どうやら街の衛生面は悪いようだ。
それにしても水を売っている人がいるのか、うーん個人的に水とか買うのってなんだか嫌なんだよね。いや、もともといた現代日本での話。
だって水を買うくらいならコーラとか買うでしょ、普通?
それなのに水を買う人とか、そういうのっていわゆる意識高い系って言うんだよな。
「で、師匠。水売りの店ってどこ?」
「水売りが店など構えるもんか、そこらへんに一輪車がおるじゃろう。適当に買ってこい」
ほれ、と小銭を投げられる。お金の価値は分からないが小さくてみすぼらしくも見えるコインだ。円形ではなくちょっとだけいびつ。
「それで二つほどじゃ」
「昨日も買ってたんだろ?」
もうなくなったの? という意味で聞く。
「お前さんの連れが使ったんじゃろうが」
そうだった、昨日の夜にシャネルが水浴びをしたいと言うので桶の水を二つほどもらったのだ。まさか有料の水だとは思わなかったからな。そう思えば申し訳ないことをした。
え、水浴び?
覗いてないよ、もちろん。
厳密には覗こうとしたけどチキって覗けなかったのだ。いつものことだ。
「じゃあ買ってきまーす」
いよいよもって文句を言う資格がない。
素直に階段を降りて水を買いに行く。
行きはよいよい帰りは怖いってね、今は水桶がからだから良いけど帰りは大変だ。
下の街に降りるとまさに外界に降りてきたという感覚だ。まわりがうるさいのなんのって。
さて水売りはどこだろうか、と思いながらあたりを見回す。あまり遠くまで行ったら帰ってこられなくなりそうだ。
キョロキョロしていると……ラッキーだ、すぐに水を売っている人を見つけた。
一輪車に水桶をつんで歩いている。
不思議なのが一輪車を前に向かっておしていることだ。普通はひくものだと思っていたのだが、どうやら奉天ではこちらが当たり前のようだ。
「水、水いらんかね~」
俺はすぐにその水売りの元へ。
ちょっと緊張したけど、まあ異国の地だと自分に言い聞かせて話しかける。
「おっちゃん、水桶2つ分くれ」
老人――もとい師匠にもらった小銭を渡す。
「あいよ」
水売りは桶を2つおろす。一輪車にはいくつか桶が乗っていたが、何個かはからになっていた。
「えーっと、これ入れ替えればいいの?」
俺は桶を手に取り、自分が持ってきた桶に水をくもうとする。
「なにしてんだ、あんた?」
でも水売りのおっちゃんがそれを止めた。
「え?」
「その桶をここに乗せてくれればそれで良いから」
ほうほう、と思い一輪車のあいた場所に持ってきたからの桶を置く。
「じゃあこっちが俺の?」と、水の入った桶を指差す。
「当たり前だろ。じゃあな。水、水いらんかね~」
水売りはまた歩きだした。
ふむ、ずいぶんと合理的だ。もしかしたら桶には個人の所有物という概念がないのかもしれない。これに似たものは現代日本にもビニール傘というものがある。
ま、俺の場合はビニール傘じゃなくても無くなってたりしたけどね。
「嫌なこと思いだしちまったぜ」
俺は水桶を両手に持ち、また長い階段を登っていく。
「うげ~。きつい」
こういうときは独り言がはかどる。
なんとか登りきったときには息があらい。
「師匠、買ってきたぞ」
「おう、早かったのう」
師匠は木陰で涼んでいた。
「すぐそこに水売りがいたからね」
「それ、台所の水瓶に入れておくんじゃよ」
「了解」
言われたとおりに台所に行くと、なぜかシャネルがいた。
「あらシンク」
シャネルはいつもよりおとなしめの服――といってもかなりゴテゴテしているけど――を着ている。彼女の荷物の大半が服であるということを俺は知っている。
「な、なにしてるの!?」
俺は嫌な予感を覚えながらも聞いてみる。
こういう予感は当たるからな……。
「シンク、しばらくこの家に居座ることにしたんでしょ」
「うん」
まだシャネルには言ってなかったけど、たぶん師匠から聞いたのだろう。
「それなら私も仕事をしようかと思って」
「思って?」
――頼む、台所の掃除とかであってくれ!
「料理でもしようと思ったの」
やっぱりそうでしたか。
「いや、でもシャネル。ほら、ルオの国の人にドレンスの料理があうか分からないからさ」
ドレンス料理って美味しいらしいからさ。
「それは大丈夫よ、なにせドレンス料理は世界一美味しいから」
だとしてもお前の料理はあれもう料理じゃなくて灰だよ!
とはもちろん言えない童貞の俺である。
「そ、そっか……火事だけは気をつけてな」
「大丈夫よ、シンクったら失礼しちゃうわ」
俺は水桶に水を移し替える。
そしてまた外に出て師匠の元へ。師匠は寝ているのか目を閉じていた。
「入れてきたよ」
「うむ」
目を閉じたまま師匠が言う。
「あのさ、こんなこと言ったらアレだけどさ。シャネルに料理はさせないほうが良いよ」
「なぜじゃ?」
師匠が右目だけを開けた。
「いまに分かるから」
その瞬間、俺の背後で爆発音がした。
慌てて振り返る。
どうやら台所のほうは無事らしいが……。
中からシャネルが出てきた。すまし顔だ。こちらを見ている。
俺はため息を付いた。
「少し失敗しちゃったわ」
まったく申し訳ないなんて思っていない態度だ。
「まあ、失敗したって分かってるなら成長してるよ……」
師匠はもう両目を見開いていた。
「たしかにこれは……料理をさせてはあかんの」
「でしょう?」
「お主ら、朝ごはんは下に行ってなにか食べてこい」
「師匠は?」
「わしはいらん、この歳になるとあんまり食べんでもすむんじゃ」
そう言うと師匠はまた目を閉じた。
「とりあえずなんだ……シャネル。ご飯でも食べてくるか」
シャネルはこくりと頷いた。
俺が武術の修行をするように、シャネルも料理の修行をしたほうが良いのかもしれない。
階段を降りてまた外界へ。こう何度も上り下りしていると面倒だ。
「エスカレーターでもあればなあ……」
「なあに、それ?」
「いや、こっちの話」
シャネルが店に入ってもまた門前払いだろうから、俺がそこらへんの店で肉饅頭を買った。コンビニで食べるものよりも冷たくてパサパサしていたけど、これが本場の味ですと言われれば納得はできた。
「それでシンク、どれくらいあの家にいるの?」
肉饅頭を食べ終わって、シャネルが聞いてくる。
俺はこの肉饅頭の中、いったいどんな具材だったんだろうとビビっていたのでシャネルの質問を聞き逃した。
「なんだって?」
「だから、あの家に。どれくらいいるつもり?」
「そうだなあ……」
期間を定めているわけではない。
でもしいていうならば強くなるまでだろうか。
「いままでスキルだけで戦ってたからな、ここらでちゃんと武道ってものに触れておきたいんだよ。強くなって困ることなんてないだろ」
シャネルはまるで懐かしいものを見るかのように笑った。
「男の子ってみんなそうなの?」
俺は男の子なのだろうか? もう十七だから青年だぜ?
それよりも――。
「俺の他にそういう人がいたの?」
「お兄ちゃんが昔ね」
言ってからシャネルは嫌そうな顔をした。自分でもその思い出がわずらわしかったのだろう。
「男なら強くなりたいもんさ」
と、俺は適当にうそぶいた。
彼女の嫌な思い出を少しでも慰めてやりたかったけど、どうすれば良いのか分からなかった。
それにしてもシャネルの兄貴ってどんな人なのだろうか……?
シャネルがこれなのだ、そうとうおかしな人だとは思うが。それこそ村ひとつをたった1人で全滅させるほどおかしな……。
俺はシャネルの肩を抱いた。
抱いてから、自分でも恥ずかしくなった。
「あら?」と、シャネルが俺を横目で見る。
「うるさい」
なにも言ってないのに言い返す。
シャネルが笑った。それだけでこの恥ずかしさも我慢できたのだった。




