89 逸材
木下教授視点になります。
「おお、次はハンガリー舞曲だな」
「そのようですね」
店長が穏やかな口調で相づちを打った。
木下は二人のあまりにも息の合った演奏に、思わず口元が緩んでしまう。
なんと仲のいい二人なのだろう。
「あの二人は恋人同士なのだろうか……」
木下がぼそっとつぶやくように声に出した。
それを受けて店長がすかさず話し始めた。
「はい、そのようですね。お二人が店に入って来られる前、看板を直しに外に出た時、とても仲が良さそうに肩を組んで歩いておられました」
「そうですか」
「私自身も大変驚いております。男性の方はすぐに康太くんだとわかったのですが、まさかあのように女性と連れ立って街を歩かれるとは……。大げさでもなんでもなく、腰を抜かしそうになりました」
「ほお。店長らしからぬ言葉ですな」
そのような主観的な言葉が店長の口から聞けるとは思ってもみなかった木下は、若い二人の様子はともかく、よほど店長が驚くことだったのだろうと、話の続きに興味が広がる。
「下世話なお話で申し訳ございません。けれども、本当に信じられないことでしたので、康太くんに気付かれないうちに、そそくさと店内に戻ったのです。と言いますのも、彼のことは小さいころから存じておりまして、それはそれは利発で、物腰の柔らかい、かわいいぼっちゃんだったのですよ。ピアノはもちろん、学業の方も大変優秀で、真面目一辺倒な青年に育ったと、ずっとそう思ってまいりました」
「ふむ。そんな感じだね。話の受け答えもしっかりしているし、マナーもいい」
「でも。まさかあのように、普通の今どきの学生さんのように、彼女とお歩きになるなんて、想像だにしておりませんでした。それに、それに……」
「それに、何ですか? 」
「はい、その彼女なんですが」
「ほお。あの子ですね。かわいい、真面目そうな女性じゃないですか」
「はい。実は、その……。こんなことまで、教授にお話してもいいのかどうか。いや、でもこれをお伝えすることが、彼の音楽性へのご理解へとつながると思うので……」
「ここで話を終わらせるなんて言わんでくれよ」
「わかりました、お話しましょう。彼女もまた、実は子どもの頃から知っておりまして。二人は同じピアノ教室で、その、レッスンを受けていて、毎年行われる発表会でも、ずっとこの私がお世話させていただいておりました」
「なるほど。では、さっき吉野君が言ってましたが、お母さんのピアノ教室で、ということですね」
「そうです。それもあのお二人は家もご近所でして、といいますか、隣同士でして。なので、そんなお二人がまさか恋人同士になろうとは、いくら人生経験が多いと言われる私であっても、想定外の出来事に再び腰を抜かしそうになったわけでございます」
「そうでしたか。では幼なじみの彼女と恋愛中ということですね。いいじゃないですか。それが彼の音楽にプラスに働いているようだし。そうか、そんなことがあったのか……」
店長の話を聞いている間にも、二人の連弾は周囲の観客を巻き込みながら楽しそうに続いている。
「店長。その吉野君のことだが……」
「はい」
「稀に見る逸材かもしれん。あのまま放っておくわけにはいかんだろうな……」
「教授。あなたの目の付け所はいつもどんぴしゃですからね。おっしゃるとおりだと思いますよ。彼の母親も確か、百合ノ葉出身だったと思いますが」
「えっ? そうなのか? ならば話は早い。いずれ親にも会って話をつけないといけないかもしれないな」
「はあ。でも残念ながら彼の父親が海外勤務でして、ご両親とも日本にいないのですよ……」
「そうか……」
木下は残念そうにため息をひとつついたが、しばらくの間、二人の演奏をじっと聴いていたのだった。
すると次は彼女が椅子から離れ、彼が一人で何かを弾き始めるようだった。
メンデルスゾーンの春の歌だ。
これはまたかわいい曲を選んだものだと、再び耳を傾ける。
そういえばこの曲、ずいぶん昔になるが、息子が高校生の頃に家で弾いていたのをふと思い出していた。
というか、その時の息子の演奏と生き写しのような弾き方に目を見張る。
学校の入学式で披露すると言っていたように思う。
その息子も今では大学生になり、ますます親への反抗心をむき出しにして迷走している最中だ。
本当なら他人の育成を手掛ける前に自分の子どもをまっとうな音楽の道へと導く必要があるのだが、いかんせん、世の中はうまく行かないことだらけだ。
息子に出来ないことを大学で学生に指導し、今またこの吉野という青年に想いを託そうとしている。
それもまた人生。
幼なじみとの恋愛に身を置き、余すことなく音楽に心をぶつける。
今日初めて会った吉野という青年の生きざまに自分の人生を重ねてしまう。
そう言えば、自分の妻も幼なじみではないか、と。
今の人生を歩むまでにはいろいろなことがあった。
別の出会いもあった。
でもその彼女との恋は実ることなく、今の生活がある。
木下はふっと息を吐き、では楽譜の取り寄せ、お願いします、と店長に告げて店を後にした。




