181 ぽーかーふぇいす 4
「沙紀、これは何なんだ。パパにもわかるように説明してくれ」
徹が沙紀の顔と見積書を交互に見ながら沙紀の返答を待っている。
「パパ。これはね、あたしが今度買うつもりのマンションなの。職場の近くはここよりもずっと田舎だから、マンションも安いの。でね、一部屋を防音仕様にして、そこで思う存分、康太にピアノの練習をしてもらおうと思ってる」
「そうなのか。結婚するのならそれもいいかもしれないな」
「んもう、だから結婚はまだしないって」
「ええ? 結婚もしないのに、マンションを買うのか? 」
「そうよ。あたしの名義でね」
「沙紀、ちょっと待て。いくらなんでも無謀だろ? それに、康太君も知らなかったようだし。なぜ康太君に内緒でこんな大事なことを勝手に決めようとしてるんだ? 」
「そ、それは……。康太を驚かせたかったから。それに、言えば反対されそうだったし……」
徹はうーむと唸って、尚も用紙の隅から隅まで一字一句見落とすまいとでも言うように見入っている。
「……あたしだって知ってるの。康太がピアニストになる夢をまだ捨ててないって」
康太がはっと息を呑み、沙紀の顔を穴が開くほどじっと見ている。
「ねえ、康太。そうだよね。コンクールで優勝した後に、山ほどあった演奏依頼も全部断って、それに、星川部長がアメリカに来ないかという誘いも、気のないふりをして無視を決め込んで。でもそれは本意じゃなかった……」
「そんなことはない。優勝できて、一区切りつけようと思っただけだよ。学校の仕事が中途半端になるのも、子ども達に申し訳ないし」
「康太はね、やっぱり弾かなきゃダメなの。それも大勢の観客の前で。あたしがずっと幼稚園の仕事を続けるから、康太はこのマンションで仕事の合間に練習をして、いつか日本を出て世界に飛び立ってもらいたいと思ってる。それに、二人で食べていけるくらいなら、あたし一人の稼ぎでなんとかなるから。あなたの貯金は海外に渡る費用に充てて欲しいの。康太のピアノを世界中の人に聞いてもらいたい。それがあたしの願いなの! 」
「沙紀……。沙紀の気持ちはわかった。俺のことをそこまで考えてくれてるんだってことも……。でも、俺だって譲れないよ。沙紀には絶対に何があっても医者になってもらう。今すぐにでも幼稚園の辞表を書かせて、予備校に放り込みたいくらいだ。おじいさんだってそれを望んでいる。なあ、沙紀。ここは黙って俺の言うことを聞いてくれ、頼むよ」
「嫌よ。絶対にイヤ! じゃあはっきり言うわ。そうよ。康太の言うとおり。あたしは医者になりたい。いや、なりたかった。でもね、康太と一生を共に生きようと思えば、それは無理だってわかったの。だって医者になるには最低でも六年はかかるんだよ。一人前になるには、もっと時間がいるし。そうなったら、あたしたちどうなる? 」
「どうもならないよ。今と変わらない。沙紀が仕事を辞めて勉強の日々になったとしても、俺がそんな沙紀をずっと支えていくって言ってるだろ? 」
「だから、違うって。康太はピアノに専念しなきゃダメなの。あたしのことはいいから! 」
「そうはいかない。今ならまだ間に合う。勉強だって、高校の時、文系クラスにいながら、理系の点数の方が良かったじゃないか。それは今後の受験勉強においても大きな助けになるよ」
「それはあの頃の話し。中学の時に康太が数学を教えてくれて、それから面白くなって、センター試験でも数学や理科分野で点数を稼いだ部分が大きいのは認める。でも今は全部忘れちゃったし、もし運よく入学出来たとしても、医学部の費用は康太とあたしの貯金を合わせたって、きっと足りないよ」
「だから、銀行で教育ローンを組むって言ってるだろ! 」
「康太だけにそんな負担はかけられない! 」
「ストップ! あなたたち、ちょっと待って! 」
春江の一言が二人の言い争いをピタリと止めた。
「沙紀の言い分も、こうちゃんの言い分もよくわかったわ。ねえ、あなたたち、賢者の贈り物の話、知ってる? 」
「えっと、確か……。夫が時計を売って妻の美しい長い髪のためにくしを買い、妻が長く美しい髪を売って夫の時計の鎖を買った話……って、あっ! 」
沙紀は幼稚園でも子ども達に読んで聞かせたことのあるその物語を思い出していた。
今の自分達が、その物語の夫婦と全く同じだとは思わないが、春江の言いたいことはなんとなくわかる。
康太もその意味がわかったのか、照れ笑いを浮かべて、首の後ろを掻いている。
「二人ともまだまだ若いんだから、何でも挑戦できるわね。本当にうらやましいわ。沙紀の言うことも正しいし、こうちゃんの申し出も親としてとてもありがたいと思うわ。でも……。選択はこの二つのうちの一つしかないのかしら? 両方とも選ぶ道は……ない? 沙紀の買う予定のマンションのことだけど、今の幼稚園にずっと勤務できる保証はないでしょ? だって公務員だもの。移動はつきものよ。遠くに移動になった時のことは考えてる? それにこうちゃんの言ってた教育ローンは、あなたたちの将来の子どものためにとっておいたほうがいいんじゃない? あわてて答えを出しても後悔するだけだわ。帰ってから二人でよく話し合ってみて。ふふふ」
「……そうだな。ママの言う通りかもしれないな。あ、それと、沙紀。また別の機会に話そうと思っていたけど、康太君もいるこの場で言っておきたいことがあるんだ」
徹が背筋をただし、沙紀と康太を見て含みを持たせて話し始めた。
「父の遺産相続のことだ」
「おじいちゃんの遺産? 」
「ああ、そうだ。俺は今までの事もあって、相続放棄を申し出た。後はお袋と弟夫婦で相崎医院を守ってくれと言って。ところが、父の気持ちを汲んで欲しいと三人に懇願されて。それは沙紀のことなんだ。生前父が沙紀の嫁入りをそれはそれは楽しみにしていたそうなんだ。それで、沙紀にどうしても遺産を分けたいと言ってくれて。あまりに急な事で、父は遺言書などは残していなかったらしい。だから、とりあえず法定相続人である俺の講座に、まとまった金額が振りこまれる予定なんだ。これは父の遺志通り沙紀のために使おうと、ママとも話し合い済みだ。渡米費用にでも、医学部の進学費用にでも、それを役立ててくれたらいい」
「そうね。それがいいわ。お義父さんも喜ぶわね。これで費用の部分はほぼ解決したんじゃない? さあ、ケーキケーキ、ケーキを食べましょうよ。夏子さんにも声をかけるわね。二人の事、報告しなきゃ。ねえ、こうちゃん、夏子さんに沙紀とのこと、話してもいいわよね。病院で二人の事を知ってから、何度、夏子さんに話してしまいそうになったことか」
「あ、はい。いつまでも黙っておくわけにはいきませんから……」
「ああ、これでやっと気持ちが楽になるわ。じゃあちょっと行ってくるわね」
と言って、玄関に消えて行った春江の後姿に、リビングに残された三人の視線が一斉に注がれるのだった。




