102 初めての夜
まだ十時頃だろうか。
祖父母と叔父夫婦の4人暮らしには十分な広さのある邸宅内は、しんと静まり返り、夕べの疲れが残っている沙紀は横になったとたん、瞼を閉じてしまいそうになっていた。
「沙紀……もう寝た? 」
身を起こし沙紀の顔のそばに肘をついた康太が訊ねる。
薄明かりの中、半分だけ目を開けた沙紀が、あまりにも近すぎる康太に少し驚いた。
「こうちゃん。どうしたの? 眠れないの? 」
沙紀はタオルケットを顔の半分まで引き上げ、目だけきょろきょろして訊く。
「いや、そうじゃないけど……」
そう言いながらタオルケットを握り締める沙紀の手に康太が唇を寄せてきた。
優しいキスが指の一本一本に舞い降りてくる。
ああ、なんてことだろう。
あまりにも生々しいこの状況に、沙紀の目は冴えわたってくる。
薄明かりにも慣れて、彼の様子がはっきりと見えるのだ。
「疲れてるよな? ゆっくりおやすみ……」
続けて額に小さなキスを落としてくれた康太は、すぐさま自分の布団に戻り、はあ、というため息と共に大の字になっていた。
「こうちゃん。あたし、このままだとほんとに寝ちゃうかも。せっかくの夜なのに……ごめんね」
まさか、このまま抱いて欲しいなどとは口が裂けても言えない。
だって、恥ずかしすぎるではないか。
心の中の思いとは全く逆のことを言ってしまい、瞬時に後悔する。
沙紀は自分の本心に気付いてもらいたくて、すぐ横にいる康太の手に自分の指を絡ませた。
大きくて、しなやかな指が沙紀の手を即座に包む。
康太の指から伝わるぬくもりに、まるで身体じゅうが包み込まれるような錯覚すら覚える。
今夜はこれでいい。
また二人だけで出かけた時に、思う存分その先に進めるではないかと、自分に言い聞かせる。
再び瞼を閉じて眠ろうとすると、その手が突然、沙紀を引き寄せ、身体を横たえたままやや乱暴に抱きしめられた。
そして……。
とうとう唇を重ねてしまい、お互いの本当のぬくもりを確かめ合う。
やっぱり彼も同じ思いだったのだろうか。
もう気持ちが抑えられなくなっていた。
キスくらい、もう何度も、それこそ数えきれないくらい彼と交わした。
でも今夜のそれはいつもとは違うのに、沙紀も気付いていた。
ついにその時が来たのだ。
ここが祖父母の家であってもかまわない。
祖父母の部屋は二階にあるし、干渉されることもない。
沙紀は覚悟を決めた。
「沙紀。いいのか? 」
康太の掠れた声が耳元に響く。
沙紀は小さく、うん、と頷くと、大胆にも自分から康太の首に腕を絡める。
次第に深くなっていくキスに呼応するようにして、彼の右手が沙紀の身体中をさまよい始めた。
最初はためらいがちだった彼の動きも次第にハードさを増し、とろけそうになる疼きにも似た感覚に、思わず声をあげそうになる。
器用にTシャツを脱がされ、パジャマ代わりのハーフパンツもはぎ取られる。
そして下着に触れられたその時だった。
「……院長……ですね……どうします? あの子たち……大丈夫ですか? 起こして……」
居間の方からタキと長一郎の声が途切れ途切れに聞こえてくる。
康太の動きも止まり、耳を澄ませた。
あの子たちを起こす? いったい何があったというのだろう。
すると康太が突如その場に起き上がった。
「何かあったみたいだな。俺、様子を見てくるよ」
「こうちゃん……。ごめん」
「そんな顔するなって。俺は大丈夫だから」
「なら、あたしも行く」
沙紀も起き上がりついて行こうとするが。
ほとんど何も身につけていない自分の姿に驚愕する。
あわてて着衣を整えると、大急ぎで康太の後を追った。
「おやおや二人とも。……起こしてしまったようだね。別に何もないから、いいからもうお休み」
タキが申し訳なさそうに居間にやって来た康太と沙紀に言った。
「何もないわけないし。どうしたの? おじいちゃん。今からどこかに出かけるの? 」
今まさにパジャマからポロシャツとスラックスに着替えたばかりの長一郎に向って問いただす。
「いやいや、ちょっと往診に行ってくるだけだよ。いつもの患者さんなんだが、容態がおもわしくないみたいなんでね。夕方にちょっと一杯やってるんで、タクシー呼んで行ってくるよ」
「おじいちゃん一人で? 」
「ははは。そうだよ。こんなことは日常茶飯だからね。大丈夫、大丈夫。わしだってまだまだ現役だからな……。おっと、こうもしてられない。急がないと。事務長! タクシー呼んでくれ」
玄関で履物の用意をしていたタキが、はい、と威勢のいい返事をする。
見事なまでの連携プレーだ。
「おじいさん。あのう……。もし良ければ、僕が運転しますよ。何か手伝えることがあったら言ってください」
タクシー会社に電話をかけようと居間に戻ってきたタキも目を丸くして、康太を見ていた。
「えっ? いいのかい? キャンプの疲れもあるだろうに」
長一郎は心配そうに康太に言った。
「僕は平気ですから。さあ、準備して早く行きましょう」
康太は客間にもどり、短パンからジーンズに履き替えて、もうすでに玄関に待機している。
沙紀も、Tシャツにキュロット、そしてパーカーを羽織って康太と並ぶ。
「えっ。沙紀も行くのか? 俺だけで大丈夫だよ。寝てろ」
「何言ってるのよ。こんな時に、のん気に眠れるわけないじゃない。あたしも行く。なんならあたしが運転しようか? こうちゃんより、この辺の道、詳しいし」
六月の終わりには晴れて運転免許を手にした沙紀は、得意げに康太に言った。
が、もちろん彼が首を縦に振るわけもなく。
「沙紀、それだけは辞めてくれ。路地に猫がうろつくたびに、はたまた対向車が来るたびにハンドルから両手を離して、キャー! とか言われたらたまったもんじゃないからな。じゃあ、一緒に来てもいいから、おとなしくしてるんだぞ」
「……わかった。こうちゃんの言うとおりにする」
どうにか免許を手にしたものの、以降運転したのは、たったの二回。
こんな緊迫した夜に、冷静に運転など出来るわけがないと、沙紀自身が一番よくわかっているのだ。
タキに見送られた三人は、街灯の少ない農道をゆっくりと進んでいった。
康太は持ち前のずば抜けた動体視力と反射神経を駆使して、順調に車を走らせている。
すでに雅人先生よりも運転の技術が上回っていると豪語するだけのことはあって、何も不安はない。
長一郎の的確な方向指示も手伝って、十五分ほどで患者の家に着くことができた。




