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つばさひとつがい  作者: 緒明トキ
不屈のつばさちゃん編
3/11

2


 路地裏で、倒れた白い服の男たちを見下ろしながら、つばさははきはきと言った。


「何度も言ってる通り、私は、高坂に言いたいことがあるだけなんです」


 それだけなんです、と呟くように続けて、つばさは踵を返した。

 と、どこかに連絡をとろうとしている男を見つけて、その肩を踏みつける。

 呻いた男に、言い聞かせるようにゆっくりと言った。


「一番偉い人に会わせてください。高坂を返してください。そうしたら私も、神さまを返すから」


 そこまで言ってから、体重をかけていた足をどけて、表通りへと向かう。

 無機質な電灯の明かりの下へ出ると、幼馴染の皮を被った神さまが、金の目を細めて迎えた。


「おかえり、つばさ。きょーそには、会えなかったか」

「うん」

「そうか。今度は、会えるといいな」

「うん、そうだね」


 子どもがするように無邪気に滑り込ませてきた手のひらをやんわりと握って、つばさはアパートへと向かう。

 未来のことなんて、わからないものだ。

 つばさはいつか、幼馴染とこうして歩くことを夢見ていたはずだ。それが今は、高坂の中に住みついている神さまと手を繋いで、家へと向かっている。

 未来のことなんて、わからない。

 だから、ある日突然高坂が元通りになって、一週間前までの日々が戻ってくることを、つばさは信じている。



◆◆◆



 つばさはこの一週間、エンスウ様を守りながら、やってくる白い服の信者たちを追い返して過ごしている。

 学校には病欠と連絡をしているが、どこまで通っているのかわからない。だが、教祖たちにもやましいことがあるのか、警察に通報されることもない。

 今日も囮となったエンスウ様の手を引いて、街中をぐるぐると回るうちに一日が終わってしまった。襲われたのは四回ほどだが、そろそろ武器にも変化がなくなっているし、相手側も追いつめられているのかもしれない。


 分かれ道に差し掛かって、つばさはふと足を止めた。

 一週間前、もしつばさも高坂と一緒に左の道へ進んでいたら、あの時すぐに自分も好きだと言っていたら、何か変わっていただろうか。


 と、繋いでいた手を強めに引かれて、つばさは慌てて顔を上げる。

 エンスウ様が、金色の目でじっとつばさを見下ろしていた。何か言いたいことがあるのだろうか。

 つばさは目を見たまま、小さく首を傾げた。


「なに?」

「コンビニには、行くか?」

「なんか食べたいなら行くよ、なにがいい?」

「冷たいのがいい。あつい」

「あっ、そっか、長袖だから?」


 エンスウ様は時折〝はみ出して〟しまう。夏の日差しには似つかわしくないが、いざという時のために、つばさの部屋にあった高坂のパーカーを常に着させていたが、やはり暑かっただろうか。

 涼しげな顔を訝しんで見ていると、エンスウ様は鷹揚に首を横に振った。


「人間の暑い、ではない。体の中が、熱い。中身を冷たくしたい」

「えっ」


 それは、高坂の体にガタがきているとか、そういうことだろうか。つばさはわずかに目を見開いた。

 エンスウ様はつばさと手を繋ぎたがる。エンスウ様が説明をしようとしないためつばさも詳しくは知らないが、直接触れることで〝はみ出さなく〟なるらしい。

 もしどんどん〝はみ出して〟しまったら、高坂の体は駄目になってしまうかもしれない。つばさはそれが恐ろしくて、エンスウ様の手が放せないでいた。

 ――もしも〝熱い〟というのが〝はみ出す〟に近いものだったとしたら?

 つばさは、沸きあがった恐怖を押し殺して、エンスウ様に笑顔を向けた。


「じゃあ、アイスだね。今の時期ならいっぱいあるよ」

「あいす」

「今日食べたパフェの、上に乗っかってたやつだよ。冷たくて甘くておいしいやつ」


 知らない単語を繰り返す癖があるエンスウ様に説明すると、ああ、と納得したように小さく頷いた。


「アイスは、好きだ。白いのがいい」

「バニラ? 他のもあるから、食べ比べてみたらいいと思うよ」

「白いのは、絶対だぞ」

「わかってるって」


 バニラなんて王道過ぎて逆に邪道だと、一度も食べようとしなかった高坂をちらりと思い出しながら、つばさはコンビニへとエンスウ様の手を引いていく。




 透明な箱に入ったアイスを選んでいると、軽く肩を叩かれた。

 振り返ると、つばさの高校の制服を着た女の子が二人立っていた。右側でにやにや笑っているのは、高坂を駅前で見たと教えてくれた子だった。もう一人の方は、つばさが知らない子だ。隣のクラスだろうか。


「なーんだ、二人とも学校に来ないと思ってたら、デートしてたの? やけに堂々とした不純異性交遊じゃない」

「えっ、あ、これは……ほら、二人とも胃腸炎患っててさ。治ってきたから、アイス解禁って感じ」

「ふーん、そうなんだ。手なんか繋いじゃってまあ、べっつに隠すほどのことでもないと思うけどね」


 どうも納得していない様子でにやにやと笑った女の子は、お邪魔しないうちに行くね、といたずらっぽく笑って、ペットボトルを持ってレジへと向かった。

 つばさは複雑な気持ちで、エンスウ様と繋いでいる手を見つめる。

 デートというか、囮というか、子守りに近い感じもする。

 当のエンスウ様はというと、アイスを吟味するのに夢中になって、振り向きすらしていないようだ。

 と、友人について行くと思いきや、大人しそうな女の子は、つばさに一歩近づいて声をひそめて言った。


「明日、教祖様がお迎えに上がります」

「……みょうに、えっ?」

「高坂さまのご両親もお待ちです。正午に、エンスウ様と、ご自宅でお待ちください」


 妙に平たい、機械のアナウンスのような声で言って、女の子はにっこりと微笑んだ。


「では、ご自愛くださいませ」


 小走りでレジへと向かう女の子には、待ってよお、と明るい声色で友達を引き留めた。

 その姿も声もまるで、つばさが知っている普通の女子高生のようだった。

 なんだか悪い夢を見たような気持ちで頬をつねっていると、エンスウ様に手を引かれる。振り返ると、心なしか生き生きとケースを指でなぞっている神さまが目に入った。


「つばさ、つばさ、これだ。この白いバニラと、あの青いバニラと、黄色いのと、そこの、混ざっているやつ……なんだ、それは顔だ、取れないぞ」

「え、えんしゅーしゃま、みょーにちって、いま」

「ああ、信者だな」


 こともなげに言って、エンスウ様は早く、とつばさの手を揺らした。




◆◆◆




 アイスをぺろりと平らげた風呂上がりのエンスウ様は、喉を撫でながら残念そうに息をついた。


「この辺までは、冷たいのだがな。ここからは、甘くなってしまう」

「喉元過ぎればってやつだね。熱い食べ物もそんな感じだよ」

「そうなのか」

「うん」


 つばさが住んでいるアパートは、防犯がしっかりしているだけのワンルームだ。部屋の隅っこに置いてあるテレビの前で三角座りをしているエンスウ様は、あの金色の目が見えない分、高坂そのものに見えた。

 エンスウ様は夜のドラマがお気に入りで、頭にタオルをのせたまま、時折台詞をおうむ返しにしながら画面に見入っている。

 その姿を見ながら、つばさは、ぼんやりと女の子の言ったことを思い返していた。


『明日、教祖様がお迎えに上がります。高坂さまのご両親もお待ちです』


 高坂の両親とは連絡がつかなくなっていた。数日前に家まで行ってみたが、幼いころ隣同士の家に住んでいたはずのそこは、もはやどちらも空き家となっていた。

 確かに高校に入ってから高坂の家に行ったことはなかったが、引っ越したとも聞いていない。もしかして、高坂の両親にも何かあったのではないか。

 そこまで考えて、つばさは自分の腕につっぷした。

 ――あの日。一週間前のあの日から、色々なことが変わってしまった。

 高坂を追いかけていたら、あの時好きだと言っていたら。

 高坂のことも、あの優しい両親のことも、なんとかなっていたかもしれない。

 エンスウ様のことだってそうだ。

 教祖様とやらに勝手に呼び出されて契約を結ばれた挙句、合わない体に閉じ込められているという神さまは、あまつさえ、つばさの〝お願い〟をきいて、高坂を取り戻すために囮になっているのだ。〝はみ出す〟頻度も増えているし、それを抑えるためにエンスウ様が苦しんでいることも知っている。

 きっと、もっといい解決方法がある。それを見つけるためにも、考えるのをやめてはならない。

 つばさは強く拳を握った。

 全員がもっと幸福になることができるような、満足が行く結果が得られるような方法が、どこかにあるはずなのだ。それが今だったと、いつか後悔したくない。


 ふと目の前が暗くなった。

 顔を上げると、エンスウ様が立っていた。テレビを見ると、味気ないニュースになっている。どうやらお目当てだったドラマが終わったようだった。


「あ、エンスウ様、寝る?」

「寝る。明日が肝心だろう、つばさも休むべきだ」

「あ、うん、そうだね」


 つばさは立ち上がって、包帯で緩く手首を結んだ。

 エンスウ様とつばさを片手ずつ結びつけることで、夜の間に〝はみ出す〟時間を減らすためだ。つばさと触れているうちはおさまるからと、エンスウ様から言い出したことだった。

 小さなベッドに横になると、基礎体温が低かった高坂とは対照的に、じんわりと熱を持ったエンスウ様の体が背中に触れる。

 幼いころは、一緒に寝ることに疑問など持たなかった。だがいつからか別々に寝るようになって、今はまたこんなに近くにいる。中身が神さまでなければ、恥ずかしくて心臓が止まっていたかもしれない。明日にはきっと高坂が戻ってきて、きっとまた別の場所で眠ることになるだろう。明日のことはわからないのだから、つばさは、そうだと信じていたい。

 そういえば、とつばさはうとうとしていた目を開いた。エンスウ様と一緒のベッドで寝るなんて、もうないことかもしれないと思い至ったのだ。高坂が帰ってくるとして、エンスウ様は明日、どうなるのだろうか。


「エンスウ様、起きてる?」

「なんだ」


 小声で尋ねると、思ったより早く声が返ってきた。まだ眠ってはいなかったようだ。


「エンスウ様は、明日どうなるの?」

「私はおそらく、ツガイと子をなすだろう」


 当然だというように返されて、つばさは内心首をひねった。ツガイ、とは、エンスウ様に関わってから何度も聞いて来た言葉だ。


「ねえ、そのつがいってなんなの?」

「ツガイというのは、わたしと対をなすもののことだ」

「対をなすもの?」

「そうだ。似ているが、正反対で、でも、合わされば完璧になるものだ」


 なんだかよくわからない。

 わからないが、なんとなくわかったような気がした。


「じゃあ、私はエンスウ様のつがいじゃないんだよね?」

「つばさは、ツガイではない。わたしは、人間とは違う。ツガイは本能でわかる」

「だよねえ」


 笑いながら返すも、きっぱりと言い切られて、つばさは複雑な気持ちになった。当然のことだ、エンスウ様とつばさは、似ているとも正反対とも言えない。

 だが、もしエンスウ様でなく高坂とだったら、ツガイだっただろうか。

 お揃いだらけで正反対の自分たちだったら、もしかしたら、恋愛感情がなくとも、人生において無二のツガイだったかもしれない。

 運命論は信じていないが、そんな運命だったら悪くもない、かもしれない。

 なんだかおかしくなってくすくす笑うつばさの手の甲を、体温の高い指がなだめるように撫でる。

 まどろみの中で、ぼんやりと明日のことを考えた。もし高坂に会ったら、私も好きだとはっきり言うつもりだ。

 なんたって、一週間も練習期間があったのだから、心の準備もばっちりなのだ。

 ほんとかよ、本番に弱いつばさに限ってそれはねえよ、と呆れたように笑う高坂の声が、遠くで聞こえたような気がした。




◆◆◆




 翌日、正午ぴったりに迎えに来た車から現れたのは、高坂の両親だった。


 驚きで身を硬くしたつばさの左手を握ったままで、エンスウ様はこっそりとささやいた。


「信者だ」

「えっ」


 いや、高坂のお父さんとお母さんだよ、と続けようとした言葉は、聞き覚えのある声に遮られた。


「久しぶりだね、つばさちゃん。エンスウ様は無事かい?」

「えっ?」


 穏やかに微笑んだ壮年の男性は、趣味の良いクリーム色のサマージャケットをこなれた感じで着こなしている。母が「うちのお父さんも少しは見習えばいいのにね」と口癖のように言っていた人物、高坂の父親だ。

 良く知る人物の口から飛び出た〝エンスウ様〟に、つばさは驚きのあまり言葉を返せない。

 すると、聞こえなかったと思ったのか、今度は傍らの女性がおっとりと微笑んだ。


「こんにちは、つばさちゃん。まあ、もうすっかりお姉さんね。ところでエンスウ様は無事?」

「えっ、えっ?」


 品の良いフリルがついたブラウスと、落ち着いたベージュのスカートを身にまとった清楚な出で立ちの婦人は、父が「うちのお母さんもあのくらい若く見えたらいいんだけどね」とことあるごとに話に出していた人物、高坂の母親だった。

 こちらからも〝エンスウ様〟という単語が出た。エンスウ様というのは、こんなに市民権を得た言葉だったのか。いや、そもそもそれ以前に、つばさの隣に立っているのは彼らの息子のはずだ。

 ――まさか。

 わずかに震えだした手を、熱を持ったような手がぎゅっと握った。隣を見ると、何を考えているかわからないような顔のまま、エンスウ様が一歩足を踏み出したところだった。


「えっ、ちょ、エンスウ様?」

「あれに乗るんだろう? 行こう」

「いや、そうだけど、ちょっ、あの人たちはっ」

「信者だ。気にするな」

「気にするよ! だって、高坂のお父さんとお母さんで――」

「つばさちゃん、準備ができたなら早く乗ってね」


 柔らかな声に振り返ると、高坂の母親がこちらに頭を下げていた。傍らの父親もそれに倣っている。

 つばさは、気味の悪さに肌が粟立つのを感じた。

 彼らは、エンスウ様に頭を下げている。自分の息子の名を呼ぶこともしないで。

 ぐっと強く唇を噛んで、つばさはゆっくりと車へと向かった。エンスウ様の言う通り、彼らは信者なのだ。それも、エンスウ様が知っているくらいだから、少なくとも一週間前には信者だったはずだ。

 彼らは、高坂がこんなことになっていることだって知っていたはずなのだ。

 それを思うと、車の中では何も話す気になれなかった。

 もっとも、彼らも穏やかな笑みを浮かべたまま、一言も口をきこうとしなかったのだけれど。




◆◆◆




 延雛教の本部というのは、数年前につぶれた郊外にあるスポーツジムを改修したものだった。

 駐車場から、エレベーターを使って三階まで上る。地下の薄暗い施設を想像していたつばさは、本当に上っているのか訝しく思いながら番号を眺めていた。

 やけにゆっくりと進むエレベーターに気をとられていたつばさは、突如左手を折らんばかりに握りしめられて、痛みに飛び上がった。

 咄嗟に固く拳を握りながら振り向くと、血走った目をしたエンスウ様が、空いている左手で口元を押さえながら扉をじっと見つめていた。

 体が震えているようだ。つばさはエンスウ様が〝はみ出す〟のを抑えているのだとすぐにわかった。


「え、エンスウ様? 大丈夫?」

「ツガイがいる」

「えっ」


 押し殺したような声で紡がれた言葉に目を見開くと、エンスウ様はもう一度、恍惚をにじませた声色ではっきりと言った。


「わたしのツガイがいるぞ、つばさ」


 一瞬、高坂の口が耳まで裂けたように見えて背筋が凍った。しかし、一度瞬きをすると元に戻っている。高坂の体が、ひどく不安定になっているのだとわかった。

 つばさは、祈るような気持ちでエンスウ様の手を強く握った。折れてもいいと思った。高坂の手を折ってしまおうとも思った。全部壊れないで済むのなら、なんでもするつもりだ。

 背後の変化に気づいているのかいないのか、扉の両脇に立つ高坂の両親は、黙って前を見つめている。軽やかな音と共に三階への到着が告げられ、ゆっくりと扉が開いた。


「お連れいたしました」


 やけに平べったい無機質な声で言うと、高坂の両親はそろって扉から出る。

 つばさは、エンスウ様の手を引いて、小さな箱を後にした。


 凝ったつくりの両開きのドアが開けられ、中へ一歩進んで、つばさは静かに息をのむ。

 広いフロアが、フードを被った白い服の人々で、びっしりと埋め尽くされていた。まるで小さな雪山が一面に敷き詰められているようだ。中央が道のようにぽっかりと空いていて、前方に見える一段上がった場所へと続いている。

 進んでいくと、見知った顔があることに気付いた。手前には演説の日に会った青年が見える。つばさに声をかけてきた女の子は、両親と一緒らしい。奥の方には、演説をしていた男がいた。

 と、つばさを導いていた二人の信者が立ち止まり、頭を下げる。

 向こうから、中央の道を通って一人の男が現れる。衣装には、ほかの人々のものよりも細かい装飾がされていた。


「――ご苦労様。もう下がっていいよ、あとは儀式が成功するかどうかだね」


 男は特徴のないよく通る声で言うと、愛想よく微笑んで見せた。頭を下げた高坂の両親は、脅えるように一度肩を震わせてから、「はい、我が友よ」と厳かに言った。どう見ても友だなんて雰囲気ではない。

 つばさは、荒く息をしているエンスウ様の手を強く握りながら、近づいてくる男を真っ直ぐに見た。

 男は、つばさの目の前まで来ると、人の好い笑みを浮かべて挨拶をした。


「こんにちは」

「こんにちは、あなたが一番偉い方ですか?」

「そうだよ、僕はここで教祖をしています。よろしくね」


 教祖は、名を名乗る気がないらしい。差し出された手をとる気になれず、つばさは言葉を続けた。


「高坂をもとに戻して欲しいんです。方法を教えてくださるだけでもいいんですが」

「ああ、そうだったね。心配はいらないよ、じきにそのお方はお帰りになるから」


 静まり返った会場を示して「これが終わったらね」と男は朗らかに笑った。つばさは眉間にしわを寄せる。


「これ? これってなんですか?」

「良い質問だね。これは神産みの儀式っていうんだ。僕たちが崇めるエンスウ様のツガイたる神をお呼びして、子どもを産んでいただくんだ。で、それを僕たちが見守る。生まれた神が、両柱の力を受け継いだ次のエンスウ様になる。いわゆるエンスウ様の代替わりってわけだね」


 男の言葉につばさは首を傾げた。

 その言い方では、エンスウ様は元々この世にいたことになる。だが、高坂に入っているエンスウ様は「教祖に呼ばれた」と言っていたはずだ。


「教祖様が呼んだのは、高坂に入っているエンスウ様じゃないんですか?」

「そうだよ。けれど、少し語弊があるね。正確には、僕がお呼びしたのはツガイの神だ。エンスウ様の名は雌雄という意味だから、呼び名としてはどちらもエンスウ様なんだよね。まあ雌雄という概念も、両性具有とも言える神の前ではあまり意味がないのだけれど」

「ツガイの神? ってことは、子どもを産むっていうのは――」

「きみが畏れ多くも手をとっているお方になるね」

「…………え?」


 つばさは、一瞬頭の中が真っ白になった。

 子供を産む? 誰が? つばさの左手に爪を立てている、この神さまが?

いや、この神さまの体は、神さまのものではない。つばさの幼馴染のものだ。

 では、本当に神の子どもを産むことになるのは、誰?

 つばさは弾かれたように顔を上げた。


「――無理です! だって高坂は、この体は男なんだから! 出産どころか、妊娠だって――」

「確かに体は男かもしれないけれど、中にいるのは神だし、産むのも神だ。身籠ったら、都合のいいように体を変質させるくらいするさ」

「体を変質!? そんなことしたら、高坂はどうなるの!?」


 声を荒げて床を強く踏むと、木製のそれは、べきんと音を立ててへこんだ。近くにいた信者たちが、ざわめきとともに後ずさる。

 目の前の男はひるんだ様子もなく、寧ろ呆れたような眼差しでつばさを見つめた。


「何をそんなに怒っているかはわからないけれど、きみが目にするのは人間の妊娠出産じゃないんだよ? 神産みなんだ。確かに数多くの奇跡を目撃するだろうし、きみがいう高坂くん自身も神秘を体験するだろうけれど、彼はリスクを承知で、自ら器となったんだよ?」

「そんなっ、どうしてそんなこと!!」


 高坂が信者だったとは、どうしても思えない。だとしたら、高坂の両親に言われたのだろうか。いや、彼らが人質にとられていたのかもしれない。

 エンスウ様がいなければ掴みかかっているだろう勢いで言うつばさに、教祖はゆっくりと微笑んだ。



「勿論きみのためだよ、コウサカツバサちゃん」


 つばさは、突然呼ばれた自分の名前に身を硬くした。


「…………え?」

「高坂翼くんは、本来器になるはずだった香坂つばさちゃんの身代りになったのさ」



 教祖が言い終わると同時に、太ももの裏にちくりとした痛みが走った。

 体が急に重くなって、つばさは膝から崩れ落ちる。エンスウ様の熱を持った手がするりとはなれた。

つばさは咄嗟に手をついて、床に倒れこむのを免れる。動かない首を無理やり上に向けると、エンスウ様の金色の瞳はまっすぐ壇の上を見据えていた。

 首をめぐらせると、太ももの裏側に針が刺さっている。力の入らない手で抜くと、教祖が驚いたような声色で言った。


「うわ、すごいな。この子、猛獣用でもこの程度なんだ。意識もあるみたいだし」

「教祖様、エンスウ様の用意が整いました」

「ああ、みたいだね。さすがにこれはすぐにわかるよ」


 くすくすと笑って、教祖は立ち上がる。得体のしれない寒気を感じて、つばさは背を震わせた。

 教祖が道を開けるようにして体をずらすと、壇の上の不自然なものに気付いた。

 くしゃくしゃになった老人のようにも見える。しかし、その体はびっしりと黒い羽に覆われていた。

 舌の根が痺れているのか、悲鳴もうまく上げられないでいるつばさを見て、教祖はひょいとしゃがみ込んだ。

 そして、ひそひそ話をするように声を潜めて「ひどいもんでしょ」と笑う。


「ただでさえ器の耐久が足りなくて延ばしてたっていうのに、ちょっとしたパフォーマンスのために外に出したら攫われるなんて、とんだ災難だったよ。おかげでうちのエンスウ様はもうよぼよぼ」

「器の、たいきゅ……?」

「翼くんって体弱いんだね、つばさちゃんと違って」


 からかうように言われた言葉に、つばさはゆっくりと目を見開いた。

 男は先ほどまでとは違う、意地の悪い笑みを浮かべて、「大人しくしてなよ」とつばさの体を引き寄せた。

 まるで通路をあけるように横に転がされて、耐え切れず床に倒れこむ。

すると、教祖はわざわざ側で身をかがめ、実に楽しそうに言った。


「――さ、百年に一度の儀式が始まるよ」


 現れた黒い塊に視線を固定したまま、高坂の皮を被った神さまはみるみる〝はみ出して〟いく。

 めきめきと音を立てて肩が膨らんだかと思うと、弾けるようにして鮮やかな羽が指先まで生えていった。

 色とりどりのそれらは、赤だろうが黄色だろうが、どれも玉虫のようにぬらぬらと光っている。

 まるでこの世の光やきらめきを全部ごちゃ混ぜにして閉じ込めたかのようなそれは、白ばかりの部屋をじっとりと染め上げていた。

 不気味な美しさを持ったばけものは、かろうじて人の顔のままで、金色の瞳をゆっくりと細める。

 その先にいるのは、闇をそのまま羽にしたかのような、のっぺりとした黒を身にまとった塊だった。





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