A Sinful Dream
レオの母、マリナの過去です。
「マリナ様!」
リビングのソファで編み物をしていると、扉の開く音と共に可愛らしい声がマリナを呼ぶ。振り返ればリアとレオが手をつないで部屋に入ってくるところだった。
「母上、お加減はいかがですか?」
「2人ともよく来てくれたわね。さぁ、座って」
今日はレオとリアが別荘までマリナに会いに来てくれると聞いて、マリナも朝から楽しみにしていた。そして……
「まぁ……」
リアの膨らんだお腹を見て、マリナは少し驚く。リアが身重だという報告は受けていなかった。
「秘密にしてもらっていたんです。マリナ様を驚かせたくて」
リアはいたずらっ子のように笑ってマリナの隣に座った。
「ルカ、お祖母様だよ。ご挨拶してね?」
『んー、きゃはっ』
リアがお腹を撫でて言うと、笑い声とともにふわりと風がマリナの髪をなびかせた。
「ルカ……男の子なのね」
「あぁ」
向かい側のソファに座ったレオが頷いて自分の右手の小さな風にルカを引き寄せる。
『うー!ぱー、ぱー』
ルカは嬉しそうにその風と戯れた。
「ふふ、賢い子みたいね?」
「はい。でも……」
リアの表情に少し不安が映って、マリナはそっとリアの手を握った。
「大丈夫。レオもそうだったし、王家の子は少なからずああやって外に出てくるものらしいわ」
「それは本当ですか?」
レオが少し驚いたように言う。マリナは頷いてリアの頭を撫でた。
「えぇ。それでもルカは少し力が強いように感じるけれど……貴女とルカを守るのがレオの役目よ。レオも、わかっているわね?」
リアを安心させるように言ってから、レオに視線を向けるとレオはとても真剣な表情で頷いた。それを見て、マリナも安心する。
「今は大きな戦争もないわ。ルカも鍛錬を始めればすぐに自分の力をコントロールできるようになるでしょう。あまり心配してはダメよ?ルカには貴女の心が伝わるわ」
「はい」
マリナの言葉にリアは笑顔で頷いてくれた。
「マリナ様は?体調は……今日はよろしいみたいですけど」
スッとリアがクラドールの顔になる。
「えぇ。最近はとても調子がいいし、イヴァンも毎日様子を見に来てくれるから心配しないで」
そのとき、侍女が人数分の紅茶とお菓子を持ってリビングに入ってきた。
「失礼致します」
丁寧に並べられていくカップとお菓子の皿。ルカの風がその上を興味津々に吹いている。
「ルカ、邪魔しちゃダメだよ」
『まー、もー?』
リアが注意すると、ルカがリアのところへと戻ってくる。くるくるとリアの周りを吹いて、何かを訴えているようだ。
「桃は朝食べたでしょ?」
『ふぇっ、もー!もー!』
ルカの好物は桃らしい。そういえば、レオもこんな風にわがままを言ったことがあったと思い出す。マリナはクスッと笑って侍女に桃を用意するように言った。
「母上……」
「あら、食べさせてあげないとどうなるかはわかるでしょう?レオ、貴方のときも大変だったの」
苦い顔をするレオに、マリナは笑った。甘やかすなと言っているのだろうけれど、このままルカの機嫌を損ねたら部屋が半壊してしまう。レオのときも、突風が吹いて大変だったのだ。
そして、ふと思う。
「エンツォは……お姉様のお心がわかっていたのかしら」
カリストがエンツォの出生に気づいていなかったということは、ヒメナがエンツォを身ごもっている間、風となって出てくることがなかったということだ。
「母上、まさかすべて知っておられたのですか?」
レオが驚いて、リアもマリナをじっと見つめている。
「知っているも何も……お姉様とオビディオ様に夢を見て欲しいと頼んだのは、私なのよ?レオもリアも、もう知っているのでしょう?」
マリナはソファに座りなおして姿勢を正した。
「ごめんなさい。私のせいで、あなたたちを苦しめることになってしまった」
「マリナ様……」
リアがマリナの手をギュッと握る。
「セストに全部聞いたのよ。聞き出した、と言った方が正しいかしら」
マリナは思い出して笑った。セストもなかなか粘っていたけれど、引かないマリナに結局すべてを話してくれた。
「リアが1年半も私に会いに来ないのは変だわ。本当に体調が悪くて静養するのだとしても、私と同じこの場所でさせる。そうでしょう?」
リアは頻繁にマリナに会いに来てくれていた。それがパッタリ姿を見せなくなって、代わりに担当になったイヴァンに聞けば、マーレ王国で静養していると言われた。
変だとは思っていたけれど、自分の体調も良くなかった時期でセストにも誤魔化されたまま……胸にしこりを抱えたまま、時は過ぎてしまった。
「エンツォがオビディオ様の子だということは知っていたの。オビディオ様もお姉様も何も言わなかったわ。だから私も黙っていた」
彼らは自分を愛してくれていた。気を、遣い過ぎるほどに。そしておそらく罪悪感を持っていたのだろう。マリナも2人に残酷な夢を与えてしまったのかもしれないという、罪の意識があった。
「でも、カリスト様があんなにひどい仕打ちをされていたなんて知らなくて……」
ヒメナの苦しみもエンツォの苦しみも、何一つわかっていなかった。オビディオがマリナに伝わらないようにしていたのかもしれないけれど、気づけなかった自分に非がある。
「私のわがままが、みんなを傷つけた」
そう、それはマリナのわがままだった。
罪深き夢。
いけないことだった。たとえ自分たちが痛みを抱えていたとしても、それを次の世代へと残すことは許されなかったのに――
***
ヒメナがカリストの家から帰ってきた日のすぐ後、マリナは城に呼ばれた。上機嫌の父の隣で、唇を噛み締めて必死に涙を堪えるのはとてもつらかった。唇よりも、心が痛くて……
客室へと案内されたら、オビディオは優しく微笑んでマリナを迎えてくれて、それが更につらくて、我慢していた涙が溢れてしまった。
「マリナ、泣いてはいけない。すぐにアダンが来る」
「でもっ!」
オビディオはマリナを抱きしめてくれた。彼の逞しい胸に顔を埋めて思う。この場所は、ヒメナのものだったはずなのに、と。
「ごめんなさい!私が、もっとお父様のことに気をつけているべきでした」
カリストが姉を気に入っていることは誰が見ても明らかだったのだ。そして、父がそれを利用しようとしていたことも、マリナは知っていた。気をつけていたつもりだった。ヒメナとオビディオが愛し合っているのは一番よくわかっていたと思う。だから、2人を引き離して欲しくなくていろいろと理由をつけてはヒメナと一緒にいたのに。
「お前は悪くないよ、マリナ。俺がアダンから目を離してしまったのがいけなかったんだ」
「違うんです!私、お姉様は後から来るからって……そんな嘘も見抜けなくてっ」
あの日、マリナは母方の祖父母の家に行った。病床の祖父の容態が急変したと速達で知らせが届いて、家族全員で行くはずだった。けれど、ヒメナはちょうど友人とオペラ鑑賞に出かけていて、父が迎えに行くから先に行っているよう言われた。
事情が事情であったから、母と急いで出かけてしまった。それが、間違いだったのだ。こんなチャンスを父が逃すはずない。
祖父が良くない状態にあったのは本当のことだったけれど、ヒメナと父が姿を現すことはなかった。夜、母と自宅に戻ったときには2人は家にいなくて、日付が変わってしばらくしてから帰ってきたのは父だけ。
すべてを悟るにはそれだけで十分だった。
「マリナ。自分を責めてはいけない。ごめんな?お前にも、つらい思いをさせてしまって……」
オビディオはマリナの涙をそっと拭ってくれた。優しい手つき、微笑みも、全部マリナを安心させようとしてのもの。
(どうして……)
なぜ、ヒメナもオビディオも自分に微笑みかけるのだろうか。
なぜ、泣いているのはいつも自分なのだろうか。
つらいのは、本当につらいのは、2人のはずなのに。
「どうして笑うのですか!?お姉様も、泣かなかったわ。どうして?私だって、それくらい受け止められます!」
本当は、知っている。
2人ともマリナの前でそんなことをしたら、マリナが罪の意識に苛まれてしまうと思っている。そして、きっとそれは正しい。今ですら、マリナはヒメナからオビディオを奪ってしまったような気分で心が重い。
「マリナ」
オビディオがマリナをあやすように背中を優しく叩いた。それ以上は、何も言わずに。
マリナも何も言えなかった。
2人が受け止めている現実を、自分だけが見ないわけにはいかないこともわかっていたから。
縁談はすぐにまとまった。そして、国民へのお披露目を数日後に控えたその日、マリナはオビディオの部屋の扉を叩く。
「マリナ、おいで」
扉を開けてくれたオビディオが微笑んでマリナを迎え入れる。
とても広い部屋。その奥、窓際にあるベッドへと手を引かれていく。
「オビディオ様、私――っ」
ベッドに座ったとき、言いかけたマリナの唇にオビディオが人差し指をそっと押し付ける。
「それ以上言ってはいけない。いいな?」
つらくなるだけだ、と。その漆黒の瞳が言っている。
「ごめんな。お前の気持ちさえも守ってやれなくて……」
オビディオは額にキスをして、マリナの身体をベッドに沈めた。そっとマリナの髪を梳き、頬を撫でてくれる彼の瞳は、確かにマリナを見ていた。それが、オビディオの優しさ。ヒメナの代わりとしてではなく、マリナ自身を見てくれている。
「つらいなら、目を閉じて……好きな男のことを考えていればいい。だけど、1つだけわかってほしい」
オビディオの顔が近づいて、吐息がかかる。
「俺は、ちゃんとお前を見ているから。お前のことを想って、お前に触れるから……」
その言葉の後すぐに唇が塞がれて、そのままマリナはオビディオにすべてを委ねた。オビディオは言葉通り、“マリナ”を抱いてくれた。優しく触れて、名前を呼んで、伴侶としての証をくれた。
それでも、マリナは2人の間に自分が割り込んでしまったことに心が重くて。今思えば、ただそれを消したかっただけなのかもしれない。そんな、自己満足のものだったのかもしれない。
「マリナ、それは――」
「お願いします!」
マリナは渋るオビディオの腕をギュッと掴む。
今夜、ヒメナを城に招待することはオビディオにも父にもすでに許可をもらっていた。けれど、その本来の意図を告げるとやはりオビディオは苦い顔をした。
「お姉様は、私の前では泣いてくれなかった。でも、きっとオビディオ様には本当の心をお見せになるわ。だから、お願いします。最後でもいい。夢を見て欲しいんです」
オビディオはマリナの頭を撫でる。マリナを諭すときに、よくするその行為の意味は“NO”だろう。
「マリナ、確かに俺はヒメナを愛している。でも、お前のこともちゃんと愛しているんだ。だから、それはできない」
マリナは首を振った。オビディオがマリナを想ってくれていることはよくわかっている。でもそれは、ヒメナへの想いとは異なる類の“愛”だ。言うならば、家族を――妹を想うようなそれ。
「お願いします。私のわがままだって、わかっています。でも、お姉様のお心を少しでも癒して差し上げられるのは、オビディオ様しかいらっしゃらないの」
そう言いながら溢れてしまった涙を、オビディオはそっと拭ってくれた。
「……わかった。とりあえず、ヒメナには会うから。それでいいだろう?」
オビディオはため息をついてマリナの願いを聞き入れてくれた。優しいオビディオのことだから、このときはただ会うだけに留めるつもりだったのだと思う。
マリナもそれだけでも構わないと思った。ヒメナが本心を吐き出してから、カリストのもとへ行くことが一番の願いだったから。
次の日の朝、マリナが目を覚ますとオビディオがベッドの淵に座ってマリナの頭を撫でていた。でも、その手つきはいつもと違って……
「オビディオ様……?」
薄っすらと目を開けると、オビディオは珍しく少し動揺したように視線を泳がせた。マリナが起きるとは思っていなかったらしい。
「すまない。起こしたな」
パッと手を離すオビディオに、マリナはすべてを悟る。でもそれは、マリナの望んでいたことだったから。
「やっぱりオビディオ様にお願いして良かった」
そう言って微笑むとオビディオの顔が少し歪んだ。
「マリナ、俺は――」
「言わないでください。いいのです。私が、そうして欲しいと頼んだのですから。そうでしょう?」
マリナはオビディオの胸に頬を寄せた。自分のせいで、罪の意識に苛まれるオビディオの顔を見たくないという、わがままな気持ちもあった。
自分は、ずるい。
「オビディオ様……もう1つ、わがままを言ってもいいですか?」
ずっと言おうと思っていたことだったけれど、今このタイミングでそれを切り出す自分はやはりずるくて。
「なんだ?」
オビディオがマリナの頭を撫でる。その手つきにはいつもの優しさが戻ってきていて、マリナを安心させた。
「しばらく2人で過ごしたい……」
「……」
マリナが口にした願いに、オビディオは黙り込む。
それは、オビディオとの夜を拒む言葉。
婚約の儀を済ませてから、2人が肌を重ねたことはなかった。オビディオもマリナの気持ちを汲んでくれてそうしてくれているのだと知っていた。結婚式まで済ませた今、それが本来なら通らないわがままであることも。
もうすぐ王位を継承するオビディオに世継ぎができないことで、風当たりが強くなることがあるかもしれないし、マリナ自身も大臣たちや、特に父から小言を言われるであろうことは容易に想像できた。
でも、マリナは少しだけでもいいから時間が欲しかったのだ。覚悟を決めるだけの時間が。
そしてオビディオにも、ヒメナとの夢を鮮明に抱えたままマリナとの夜を過ごすようなつらい思いはして欲しくなかったから。
いや、きっと色褪せることはないのだろう。だが少なくとも、時間が経てば今よりも心穏やかにそれを思い出せると思った。オビディオがマリナを裏切ったと強く思っている今は、無理矢理笑って欲しくない。その気持ちがある以上、彼の選択も1つしかないとマリナは確信している。
「……わかった」
「ありがとう、ございます」
マリナはホッと息を吐いた。このときすでに、嵐が育ち始めていたことも知らずに――
***
「お姉様がお心を壊されたのも、エンツォがあなたたちへしたことも、本をただせば私の罪だわ」
「マリナ様、それは違います」
マリナの話を静かに聞いていたリアが、少し大きな声を出す。
「ヒメナ様は、マリナ様がくれた夢を大切にしていました。それが、ヒメナ様にとって支えだったんです。それを、罪だったなんて言わないで……」
リアが今にも泣きそうな表情でマリナを見つめている。そういえば、セストが言っていた。リアはヒメナの記憶を見たのだと。
「俺は、リアが巻き込まれたのは母上のせいだと思っている」
「レオっ!」
淡々と思うことを口にするレオ。マリナは視線を落とす。
レオの言う通りだ。マリナが軽率に2人を引き合わせてしまったから……
「でも……母上の選択が間違っていたとも思わない」
その言葉に顔を上げると、レオはその漆黒の瞳でマリナをまっすぐに見つめてきた。オビディオと同じ色の瞳には同じ優しさが映っている。
「2人を想う気持ちは、俺にもわかるから」
「うん……マリナ様、みんなが持っていた愛はちゃんと私たちに届いています」
リアは愛おしそうにお腹を撫でて微笑んだ。とても眩しい笑顔。
「エンツォも、少し誤解があっただけで……とても優しい人だった。エンツォの中の真実を変えてしまった私の選択は間違っていたのかもしれないけれど、レオは信じると言ってくれた」
そしてリアはマリナにギュッと抱きついてきた。
「私もマリナ様の選択を信じます。マリナ様は大切な人たち――ヒメナ様とオビディオ様――に幸せな夢を与えたのだもの」
その温かさに、マリナは目を閉じてリアの背中に手を回した。
リアはこうしてエンツォを救ってくれたのだろう。マリナのことも、優しく包み込んでくれる。きっと、ヒメナやオビディオも……彼女の優しさに癒される。
レオとリアはマリナの過ちを正してくれた。すべてを知って、それでもマリナを抱きしめてくれるリアの温かさに涙が溢れた。
「ありがとう」
そう、呟くと風が笑った――




