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風に恋して  作者: 皐月もも
第七章:嵐が去るとき
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夢と約束

「お姉様っ!」


その日、日も高く昇る頃に帰ったヒメナを迎えてくれたのは妹のマリナだった。泣き腫らした目をして、ヒメナの顔を見るとまた涙が頬の道筋を増やしていく。


「マリナ、そんなに泣いてはいけないわ。明日はお城へ行くのでしょう?」

「嫌!嫌です!どうして……どうしてなの?こんなのひどいわ!」


父親の策略にハマッてしまった自分のせいで、マリナにもつらい思いをさせることになってしまった。

昨夜……家族で食事をするからと言われて連れて行かれたのは、カリストの屋敷だった。マリナや母親は後から来るという父親の言葉を信じてついていってしまった、バカな自分。

食事は確かに振舞われたけれど、それだけで終わるはずがなくて。

ヒメナは馬車からカリストの屋敷が見えた時に覚悟を決めていた。思ったよりも冷静でいられた。

もし、自分がオビディオの元へ嫁げばマリナがカリストに嫁ぐことになるだろう。あまりいい噂を聞かないカリストのもとでより、優しいオビディオのもとで大切にされたほうが幸せだと思ったからかもしれない。

妹が幸せになれるのなら、自分はどんな痛みでも引き受ける。

父親は母親にもマリナにも黙ってこの計画を実行しただろう。もしこの計画を知られたなら彼女らの反対にあうのは目に見えている。けれど、賢い妹のことだ。昨夜1人で帰宅した父親と彼の態度からすべてを理解し、1人泣いて夜を明かしたのだ。


「マリナ、もう泣かないで?私は平気だから」


ヒメナがどれだけ言っても、マリナは「嫌」と繰り返し、しばらく玄関でヒメナにしがみついて泣いた。

ヒメナの分も……


そして、マリナとオビディオの結婚式が終わってヒメナももうすぐカリストの元へと嫁ぐという頃。

城で暮らす妹から食事の誘いが届く。


『親愛なるお姉様へ


カリスト様の元へ嫁がれる前にお食事にいらっしゃいませんか?オビディオ様にもお父様にもお許しをいただいたの。

好きな時に会えなくなってしまう前に、また一緒にお喋りして夜を過ごしたいの。きっと、素敵な夢が見られるわ。ねぇ、いいでしょう?

お返事待っています。


心を込めて マリナ』


甘えたような文面。ヒメナは思わず笑みを零した。あまり行きたくなかった城にも、マリナのためなら行こうと思えてしまう。

ヒメナはすぐに返事を出した。必ず行く、と。

その選択が、未来に大きな嵐を及ぼすことに気づけるはずもなく――


「オビディオ、様……?」


ヒメナは少しパニックになっていた。なぜ、彼がここにいるのだろう。夕食の後、自分はマリナの部屋に案内されたはずだ。姉妹2人で楽しくお喋りをして夜を過ごすために。


「すまない。驚かせたよな。マリナに頼まれて……いや、俺も望んでここにいる」


じっと自分を見つめる漆黒の瞳は、以前と変わらない情熱を秘めてくれていて。


「こ、こんなのは、いけません!私はマリナと――っ」


今しがた閉めたばかりの扉に向かおうと身体を反転させると、後ろから抱きしめられた。


「待ってくれ。話を、聞いて欲しい」

「ダメです。オビディオ様、離してください」


こんな風に抱きしめられたら、心が揺らいでしまう。だが、オビディオは更にヒメナをきつく抱きしめた。


「すまなかった。俺が……もっとしっかり見張っておけばよかった。カリストがお前を気に入っていたことも、アダンが繋がりを作りたいと思っていたのもわかっていたのに」


耳元で紡がれる言葉。苦しそうな、声。


「守れなくて……ごめん」

「……謝らないでください。貴方のせいではありません。私も迂闊でした」


カリストと父親が接近しているのに気づいていたのに、のこのことついていってしまったのだから。


「ヒメナ!なぜ、俺を責めない?なぜ、泣かない?」

「どうして貴方を責めるのですか?私は貴方が、マリナが幸せならそれだけで――っ!」


グッと、顎を掴まれたかと思ったら次の瞬間にはオビディオと唇が重なっていた。何度も触れたことのある、柔らかくて温かな感触。お城に来たときの、秘密の逢瀬だった。


「いやっ」


ヒメナは力いっぱいオビディオの身体を押し返した。


「ヒメ――」

「こんなことしないで!貴方はマリナと結婚したのよ!」


妹を、裏切らないで欲しい。裏切らせないで欲しい。

零れそうになる涙を必死に耐えた。


「ヒメナ……泣いて、叫んで、俺にすべてを吐き出して。そうしたら、お前を解放するから……」


オビディオがヒメナの身体を抱き寄せる。ヒメナの顔が、オビディオの胸に押し付けられた。この場所はもう、自分のものではないのに……


「マリナが言っていた。自分の前ではお前が泣いてくれないと。だから、俺をここに呼んだ。そして言ったんだ。夢を見て、と」


夢を見て――

手紙にも“素敵な夢が見られる”と書いてあった。ようやく妹の思惑を理解する。

けれどそれは、マリナを裏切ることだ。

『お姉様!どうして泣かないの!?』と。あの日、玄関で泣いていた妹。そしてこんな風に、幸せを運んでくれようとする妹。可愛い、妹――

マリナを裏切ることなどできない。


「ヒメナ、ちゃんと……泣いてから行け。お前の涙を受け止めるくらいは、それくらいは俺にさせてくれ」


オビディオの言葉に、ずっと我慢していた涙が溢れた。


「どうして、どうしてなの?」


泣きながらオビディオにしがみつき、涙とともに溢れて止まらない想いを吐き出していく。


「オビディオ様っ……好き、好きなのに!」


大好きだった。情熱を秘めた瞳も、優しく抱きしめてくれる腕も、心地良い温もりも、ヒメナを呼ぶその声も、全部、全部……


「約束、したのにっ!こんなに好きなのに!私がっ……ごめ、なさいっ……ごめんなさい!」


あの夜、すべてが変わってしまった。こっそり交わした将来の約束が、誰かに伝えられることはなくなってしまった。

自分が、カリストに抱かれてしまったから。


「ヒメナ……っ」

「っ……は、んっ……」


オビディオがヒメナの唇を奪う。息もつけないほどの性急なキス。

いけないのに。求めては、いけないのに。

唇が離れたと思えば、オビディオに手を引かれて身体がベッドへと沈んだ。


「ヒメナ……夢を、見ようか。2人で…………」


涙でぼやけて、オビディオの表情はよく見えなかった。でも、どんな顔をしているのかは手に取るようにわかってしまう。彼もまた、秘めた想いとマリナへの罪悪感の間で苦しんでいる。彼はマリナを大切に想ってくれている。

マリナ。心優しい妹。自分はこれから一生苦しんでも構わない。どんな痛みでも耐えるから、だから……


(ごめ、んね……)


一夜の夢を見せて――



マリナとオビディオのくれた“夢”は、ヒメナの支えになった。

そして月日は流れ、エンツォが生まれる。

初めは半信半疑だった。なんとなくオビディオの面影があるかもしれないと思うのも、それは自分がオビディオのことを想うあまりに彼の姿を重ねてしまっているだけだと思い直した。

けれど、成長していくエンツォを見ているとそう思わずにいられなくなって。

時折使おうとする風の力も強く、口元がオビディオにそっくりで。瞳はヒメナの色であるし、目元や鼻もヒメナに似ている。それに、カリストが黒髪であるから2人の子として外見的には不自然ではないのだけれど。

加えて、カリストが外でたくさんの愛人を作っているというのに、なぜか誰も身ごもらない。カリストは少なくとも貴族として申し分ない地位と経済力を持っている。彼女たちの中に、それを狙う者がいてもおかしくないことくらいヒメナにもわかる。カリストの血を引いた子供ができれば、彼と確かな繋がりを持つことができるのだ。

それなのに……自分も何度もカリストに抱かれているけれど、まったくそんな兆候がないのだ。


(まさか、本当に?)


ヒメナは首を振って自分を奮い立たせた。とにかく、エンツォの父親がオビディオでもカリストでも、ヒメナの子供だということに変わりはない。自分は変わらずエンツォを守るだけ。

できる限りの幸せを与えるのだ。



***



「ヒメナ」


それは、珍しくカリストが交流会にヒメナを連れてきてくれたときのことだった。

まだ幼いエンツォが愚図って、仕方なく中庭に出て遊ばせていたヒメナは聴こえてきた声に振り返る。そこには予想通り、オビディオが立っていた。


「オビディオ様……どうしてこちらに?貴方が会場を抜けてはいけないのでは……」

「いや、今は皆食事を楽しんでいるからいいんだ。それより、部屋を用意させよう。ここでは冷える」


そう言って、近くを通りかかった執事に頼んでくれた。


「わー、すごいね。きらきらしてる」


客室に通されると、エンツォは部屋の内装が気に入ったらしくまた走り回った。カリストの屋敷も十分広くていろいろな装飾品が飾られているが、やはりヴィエント城には敵わない。


「気に入ったか?」

「うん!ぼくも、おおきくなったらおしろつくる」


オビディオがエンツォの頭を撫でて笑う。エンツォはくすぐったそうな表情をしてそれを受け入れている。カリストは、あんな風に優しく頭を撫でたりしない。子供には無関心だ。

すると、エンツォが大きな欠伸をして目を擦った。


「眠いのか?」

「ううん、ねむくない」


だが、ずっと中庭で遊んでいたから疲れたのか瞼が重そうだ。ヒメナはエンツォを抱き上げた。


「もう夜も遅いわ。エンツォは寝る時間」

「うん……」


そして、エンツォはヒメナの胸に頭を預けるとすぐに寝息を立て始めた。

ソファにエンツォを寝かせると、オビディオが上着をかけてエンツォの髪をそっと撫でる。


「ごめんな……」


ポツリ、とオビディオが呟く。ヒメナの心臓がドキッと音を立てた。そしてオビディオの視線がゆっくりとヒメナに向けられた。

彼が謝る理由なんてヒメナには1つしか思い当たらない。


「俺の、子……なんだろう?」

「ち、違います!」


エンツォが眠っていることも忘れて叫んでいた。

それは口に出してはいけないこと。たとえ真実がそうであっても、だ。エンツォがオビディオの血を引いていると知られたら、カリストや父親が黙っていない。

今はまだ幼いエンツォには手を出していないだけだ。何もわからない彼が“それ”を話してしまうかもしれないと思っている。外面だけは気にする男なのだ。

マリナにもこんなことは言えない。確かにあの夜の出来事は彼女も望んだことかもしれない。でも、最終的に彼女を裏切ってしまったのは自分なのだ。それにオビディオとマリナの間にはレオが生まれた。そこに、エンツォの存在など入る余地はない。


「ヒメナ。俺もバカじゃない。カリストが愛人を多く抱えているのは知っている。そしておそらくお前も……っ」


オビディオは少しだけヒメナから視線を逸らす。しかしそれはすぐに戻ってきて。


「なぜ、2人目ができない?愛人に子供ができたという話も聞かない」

「そ、それは……」


口ごもってしまった。ヒメナの考えていたことをズバリと言い当てられたから。オビディオはゆっくりとヒメナの元へ近づき、その腕の中へ引き寄せた。

「オビディオ様!いけません!」


ヒメナが胸を押し返すけれど、オビディオは離そうとはしてくれなかった。そして……


「ごめんな。俺は……お前が苦しんでいるのに何もしてやれない。どうして――」


掠れた声と、震えている身体。

ヒメナは抵抗をやめた。

もしかしたらオビディオは、エンツォが生まれたときから気づいていたのかもしれない。交流会になかなか顔を出さない自分に確認する機会がなかっただけで、ずっと1人で苦しんでいた。

王といえど、いや、王だからこそというべきか……一介の貴族の家への口出しをすることはできない。もちろん、国も関わってくる彼らの仕事や領地については管理もしているが、私生活については自由だ。だから、カリストが愛人のもとへ行くことも、酒を飲んで荒々しくヒメナを抱くことも、すべてがオビディオの想像通りだとしても、傍観していることしかできない。


「後悔、しているか?あの日のこと」

「いいえ。あの“夢”は、私の支えだから……私はきっとエンツォのことを守ってみせます。幸せを与えてみせます。だから、貴方もマリナとレオ様を幸せにしてあげて……」


ヒメナは少し緩んだオビディオの腕をそっと解く。そして、背伸びをして彼の頬にキスをした。これが、2人の新しい約束。

家族を愛して、幸せにすること。


「わかった……でも、1つだけ」


オビディオはもう1度エンツォの眠るソファへと歩いていき、その場に膝をついた。そっと大きな手をエンツォの胸の中心――風属性のセントロにあたる場所――に当てる。


「父親としてできる最初で最後のことになるかもしれないな」


そう言って、オビディオは自分の力をエンツォに入れた。あまり呪文は得意でないヒメナでもわかるほどの強い力。これが、王家の血……


「将来……俺の代わりにお前を守れるように、大切な人ができたときに守れるように」

「オビディオ様……」


ヒメナは不安になって、オビディオを見つめた。

エンツォはまだ幼い。今でさえ、あまり風をうまく扱えていないように見えたのだ。その力が大きくなってしまったら尚更使いこなすのが難しくなってしまう。


「心配するな。コントロールできるように入れてある。それと……しばらくは使えないようにも」


エンツォが呪文を学ぶ場へ行き、鍛錬を始めれば自然と鍵が外れていくだろう。


「ヒメナ……お前を、心から愛していた」


“愛していた”と、過去形の言葉をくれたのは……彼の優しさだ。ヒメナは精一杯の笑顔をオビディオに向ける。


「はい。私も、貴方を愛していました――」


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