解けていく糸
リアは読んでいた本を閉じて棚に戻し、ため息をついた。
あれから数日、レオもセストもリアの治療をしていた間に溜まってしまった執務を消化するのに忙しく、なかなかゆっくり話す時間を見つけられない。
話さなければならないことはたくさんある。
リアの見たエンツォの記憶と、ユベール王子の呪文のこと。それから――マルコ将軍のこと。
あの日、自分がマルコにトラッタメントを施したことは覚えていた。でも、次に気づいた時には自分のベッドの上だったのだ。
それで、リアのトラッタメントの効果も薄いまま、血が止まらなくて結局亡くなってしまったことがショックで倒れたと聞かされた。副作用はマルコの姿にショックを受けて暴走しかけたせいだと……レオは言った。でも、リアは確かに赤い瞳を“使って”いたのだ。
『まー?』
「あ……うん、なあに?」
ルカの声に答えると、ふわりと風がリアの頬を撫でて窓を揺らした。外に出たいのだ。
「じゃあ、中庭に行こうね」
『んー!』
嬉しそうな声に、リアは表情を緩めて研究室を出た。
中庭に出ると、少し冷たい風がリアに吹き付けた。もうすぐ最も風の強い季節がやってくる。
ルカは楽しそうに笑いながら中庭の噴水に水しぶきをあげてみたり、木々の間を吹いて葉を揺らしてみたりして遊んでいる。
「リア」
それを見つめていると、後ろからそっと上着が掛けられた。首を捻ってみれば思ったとおりの人、レオが微笑んでいる。
「レオ。お仕事は?」
「とりあえず一段落ってところだ。書類整理は、だが。明日からいろんな人に会わなければならないから、午後は休むことにした」
レオがリアの身体を後ろから抱きしめる。
「身体が冷えている。部屋に戻るぞ」
「でも、ルカが……」
先ほど中庭に出てきたばかりなのだ。まだ遊び足りないだろう。
「ルカ!」
『んぅー、ぱー?』
ヒュッと風が2人のところへと舞い戻ってくる。
「今日は寒いからここまでだ。いいな?」
『んー』
納得したような返事をして、ルカの風はパチンと弾けて消えた。
「リア、体調が良ければ少し話を聞かせて欲しい」
それを見届けて、レオが静かに言った。
きっと仕事もそのために一段落つけたのだろう。リアを迎えに来てくれたらしい。リアはそれにしっかりと頷いてレオの手を取った。
レオの部屋に戻ると、セストが部屋にいて紅茶を淹れていた。
「すみません。せっかくのお休みですが、いろいろと確認したいことがありますので」
「ううん。私も話そうと思っていたから」
セストがお茶をそれぞれの前に置き、向かい側のソファに座った。淹れ立ての紅茶からゆらゆらと漂う湯気を見つめて、リアは口を開いた。
4カ国会議の日の朝、ルカがリアをレオの部屋へと導いたところから……
「やはり、ユベール王子はすべてを知っていたのですね。それでエンツォを焚きつけた」
「エンツォもオビディオ様のことを誤解していたみたいだったから……」
だから、ユベール王子の言葉を信じたのだ。母親は、弄ばれたのだと。
「それから、レフレクシオンの呪文だけど……ユベール王子とエンツォが一緒にいると呪文の使用中も気を隠せるの」
「それは本当か?」
リアの言葉にレオが驚きに目を見開いた。
「ユベール王子の気は光属性でしょう?だから、鏡の反射を利用するの。エンツォの風の壁に薬を使って鏡の効果を付加できる」
話には聞いたことがあったし、先ほども研究室できちんと確認してきた。物体にかけるとその表面を鏡のように変化させることができる薬は、高度な技術を求められるけれど作れないわけではない。闇取引ではかなりの高値がつくと言われている。
「たぶんそれを少し改良していて、飲んで呪文を使うんだと思う」
「飲んで、ですか?」
セストが眉間に皺を寄せる。それはそうだろう。いわゆる鏡を作る薬だ。いくら改良してもアルミニウムなどの金属は入れなければならないはず。少量ならわからないが、人間1人を覆うほどの壁に使うために飲む量を考えると安全とは言い切れない。
「うん……」
リアは俯いた。エンツォは、手を出してはいけない呪文や薬を使いすぎている。デペンデンシアにしても、本来の器とは違う身体で過ごすというのはかなりの負担がかかるはずだ。
いくらカタリナの身体がレフレクシオンの効果でエンツォを受け入れていたとしても、エンツォの精神自体はそのまま入っているようなもの。レオと剣を交えていた時の異常な力も薬で力を増幅させているのは明らかだったし、それに……エンツォに記憶を開けられて思ったことがある。
「ねぇ……マルコおじさんが怪我をしたとき、毒を使われてたって言ってたよね?」
「リア、お前やっぱり……」
レオがハッとしてリアを見つめる。心配そうなレオに、リアは笑顔を返した。
「うん。でも、大丈夫だよ。2人とも……私のために嘘をついていてくれたんだね」
確かにあの日、目の前で、しかもリアが処置をしている最中に息を引き取ったマルコを見てショックを受けた。自分のせいだと思った。倒れたのは副作用のせいだけじゃなく、そういった精神的なものもあったけれど。
「違う。どうあがいても、マルコは助からなかった。だから……」
「わかってる。マルコおじさんは、城に連れてこられたときにはもう手遅れだったって。でも、私なら助けられたかもしれないのは事実だよ」
リアは両手を胸元で握った。
あのまま普通のトラッタメントを続けていても、マルコは助からなかっただろう。そして、彼の状態を見たときからあの場にいた全員がそれを覚悟していた。
けれど、赤い瞳なら彼の死という“運命”に逆らうことができた。だから……リアはリスクも承知で自ら力を解放したのだ。ただ、助けたいという感情に流されてしまった。感情的になって周りが見えなくなってしまうこと、そして赤い瞳のリスクを100%理解するほどリアは大人でもなかった。
それをきちんとわかっていなかったことが、リアの罪。
直接の原因が自分にないとしても、彼を死に追いやるような行動に出てしまった。それは、忘れてはいけないことだったのに。
「違うんだ、リア。あのとき……お前がマルコの中に入っていた時、マルコはお前の名前を呼んだ。笑っていたんだ」
レオがリアの両手をその大きな手で包み込んでくれた。
マルコはリアを責めていないだろうか。それを考えると怖かった。助けてあげられなかったことが、こんなにも痛い。でも、レオの言う通り彼が自分の名を呼んでくれて笑っていたのなら。
「そっか……マルコおじさん、苦しくなかったかな?」
「とても、安らかな顔をして眠りにつかれましたよ」
永遠の、覚めることのない眠りに。セストの言葉にリアの頬に涙が伝った。
「うん……良かった」
簡単に償うなどと言ってはいけないのかもしれないし、償いと呼ぶには小さなことなのかもしれない。それでもリアはこの先1人でも多くの人の命を救って、自身の命が尽きるまで苦しむ人たちの手助けをしたい。
マルコの死を受け止めて、背負って生きていくのだ。
リアは涙を拭うと、顔を上げた。
「でもね、それで……思い出したの。あの毒は血が止まらなくなるというよりは呪文の効果を薄めているみたいだったから」
トラッタメントの効果がほとんどなくて、止血すらままならなかった。気を濃く練って入れれば入れるほど……
「つまり、呪文が強ければ強いほどそれに反応して効果が薄れていくと?」
「うん……それが、エンツォの使っていたと思う薬に似てるなって思って」
レオとセストが息を呑んだのがわかった。
エンツォが使っていたのは力を増幅させる薬。彼が起こした破壊の風はかなりの水圧をかけていたリアの水のベールを突き破ろうとするほどのものだった。
そしてどちらの薬も呪文、呪術者の気の強さに対して反応を示すもの。インプットが同じでアウトプットが逆。同じものに対しての効果を逆転させる場合、時計の針を逆に回す程度の細工で良い。ある程度の知識と技術を持ったクラドールならば簡単に改良できる。エンツォならば、片手間にでもやってのけるだろう。
「それは、あの争いで使われていた毒がエンツォの作ったものだということか?」
レオの問いにリアは視線を落とした。テーブルの紅茶は冷めてしまったようだ。
「エンツォが作ったとは言い切れないけど……でも、あの戦いは元々ルミエール王国の紛争から飛び火したものだったし、襲ってきたのが反乱軍なのにそんな薬を使ってたことが変だと思うの」
あの紛争はルミエールの上流階級などに対して不満を募らせた民たちの起こしたものだった。貧しい国境付近の民が簡単に薬品を手に入れられるとは考えられない。
「まさか、ユベール王子が手引きをしていたと?」
セストが苦い顔をする。
「う、ん……実験、だったんじゃないかと思ったの。エンツォがこの城に来たのはあの後すぐだったでしょ?」
エンツォが城にクラドールとして迎えられることはその前から決まっていた。入城はマルコが亡くなった後だったけれど。
「エンツォは、オビディオ様自身にも復讐をしたいと思っていたみたいだった。それにあの薬を使おうと思っていたら……試しておく価値はあると判断すると思うの。特にユベール王子なら」
紛争に紛れ込ませた新薬……レフレクシオンを使えば反乱軍に潜入することなど、どうということはない。教育を受けられない貧民たちは呪文のことなどわからないし、属性感知もできないだろう。
それが、たまたまヴィエント軍――マルコ将軍を傷つけたのだ。
呪文の効果を薄める薬。何らかの方法でオビディオを傷つけ、その薬を使えば……マルコと同じ運命を辿ることになっただろう。王家専属のクラドールが優秀であればあるほど、その薬の効果は大きくなる。
「ところがその前にオビディオ様がご病気で亡くなられて、その薬を改良することにした、と?」
「どちらにしろ、改良する予定だったのかもしれないな」
セストとレオがそれぞれに考えていることを言っていく。
「ねぇ、レオ。マリナ様はまだ……」
「あぁ、母上は別荘で静養中だ。最近は調子も良いらしいが」
レオの母親、マリナはレオが成人した頃から体調を崩しやすくなってしまい、王家の別荘で過ごすことが多くなっている。ここ数年はほとんど城に帰ってきていない。リアが小さい頃はとても元気だったのだけれど。
今思えば、ずっとヒメナのことで心労が絶えなかったのだろう。優しいマリナのことだから、自分がヒメナからオビディオを奪ったように感じてしまっていたのかもしれない。
エンツォはマリナを責めるようなことは言っていなかった。それは、マリナを傷つける意思はないということだろうか。
「ヒメナ様とマリナ様はとても仲の良い姉妹でした。エンツォはマリナ様に少なくとも悪い印象は持っていないのではないかと」
リアの心配を察して、セストが言う。
「あぁ。それに、母上を狙っていたとしても別荘にいれば見つけることは難しい」
王家の別荘はその所在地は極秘とされているし、結界も張られている。それに万が一見つかったとしても、完全なレフレクシオンにはユベールとエンツォ2人で赴かなければならない。
「今は、母上が城に戻れなくて良かったと思うな……」
レオが息を吐いて、ソファに背を沈めた。疲れているようにも見える。かなりハードなスケジュールで執務をこなしていたのだろう。
レオはフッと少し勢いをつけて息を吐き出すとソファに座り直した。
「もう1つだ。どうしてエンツォはお前をこの城に残していった?」
「うん……それは私も気になっていたの」
リアが覚えているのは、エンツォが追憶の呪文を唱えたところまでだ。その後は混沌とした記憶の中を彷徨っていた。
「イヴァンが自分のところにルカ様がいらしたと言っていましたよね?ルカ様が何かされたのでは?」
「そう、なのかな?」
確かにそういう考えもあるけれど、あのとき疲れて眠ってしまっていたルカが回復するには時間が短かったと思う。イヴァンのところにきたときも、弱々しい泣き声だったと言っていた。
肝心なルカも今は眠っているのか何も言わない。
(エンツォ……)
――「…――目的のためならどんなものも犠牲にできる」
その言葉が、リアの頭の中でリフレインしている。
“どんなもの”も……
リアの思い過ごしなのだろうか――…
「リア?眠いのか?」
「ううん、平気。ルカが眠ってるだけだよ。レオも疲れてる」
リアはレオの頬に手を当てた。体温が少し低い。
「エンツォはまたここに来るでしょう。それに、レオ様が公務を再開することでおそらくリア様が回復されたことに気づきます。そうしたら今度はどんな手を使ってくるか……」
セストが眉を寄せてため息をついた。
「うん……でも、大丈夫だよ」
「リア?」
レオがリアの手を取った。じっとリアを見つめている。
「レオ、少し休んだ方がいいよ。体力が落ちてる。栄養のある食事を作ってもらってくるから、ね?」
自然に笑えたと思う。レオの瞳にも、少し安心が混じった。
「セストさんにも用意してもらうね」
「あ、はい。ありがとうございます」
リアは立ち上がり、レオの部屋を後にした。
ひとつの決意を胸に――




