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風に恋して  作者: 皐月もも
第六章:風向きの変化
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逆らえなかった運命

――身体が痛い。

頭の中も、腕も、足も、内臓まですべて……何かに押し潰されるように圧力がかかっている。

声が、音が、色が、リアを襲う。

痛い……目も耳も。

苦しい……心臓が潰されるように。

レオがリアを抱きしめたと思えば、エンツォが笑顔で診療所に顔を出して。

目を瞑っても、たくさんの人々の顔がリアの瞳に映る。

『リア』と、たくさんの声が重なって。一体誰が自分を呼んでいるのかわからない。

耳が痛いほどの音と声が通り過ぎていくのに、自分の声は聴こえない。大きく口を開いて、「助けて」と叫んでいるはずなのに。


溺れていく。記憶の海に、沈んでしまう。


リアがそれに逆らってもがいていたときだった。

『君が“赤い瞳”で人を殺めた――』

一際大きな声が響いてリアの意識が遠ざかる。深い海の底へと沈んでいくように――



***



「リア、こんなところでどうしたんだい?」


ヴィエント敷地内の大きな訓練場の隅。急に後ろから声を掛けられて、ボーっとしていたリアはビクッと身体を跳ねさせた。


「ああ、悪い。驚かせたか?」

「マルコ将軍……こんにちは」


リアが振り返ると、体格のいい中年の男性がタオルで汗を拭いながらこちらに歩いてきていた。

マルコ将軍――リアにそう呼ばれた彼は、ヴィエントの軍をまとめる大将だ。訓練が終わって出てきたらリアが突っ立っていたから声を掛けてくれたのだろう。


「レオ様は、今日は公務があるから剣の稽古には顔を出していないよ」

「あの……えっと、それは、知っているんですけど……」


ぎこちないリアの態度にマルコが首を傾げる。そしてリアの視界にマルコの後ろから出てきた1人の青年が映ってリアは身体を硬くした。それをマルコが見逃すはずもなく。彼はチラッと振り返り、少しそわそわした様子の部下を見て「あぁ」と小さく呟いた。


「リア、ちょうど良かった。少し今週の食事プランを変えたいんだ、執務室に来てくれるかい?」

「え……?あ、でも……」


突然の申し出にリアは戸惑う。マルコの頼みを断るつもりはないけれど、自分は約束があってここに来たからだ。約束、というよりは……一方的に押し付けられたような気もするが。


「バレリオ、今日は集中力に欠けていたぞ。残って基礎訓練をもう1度やってから食事に行け」

「へ……待ってください!俺――っ」


マルコはスッと目を細めてバレリオと呼ばれたその青年を見た。バレリオはグッと押し黙る。そして、一礼をして訓練場に戻っていった。

「マルコおじさん、ありがとう」


マルコの執務室で、兵士たちのメニュー表を受け取ったリアはお礼を言った。リアを連れ出す口実として使っていたけれど、直したいと言っていたのは本当だったようだ。

リアの口調は砕けたものに変わり、呼び方も小さい頃からの癖で“マルコおじさん”に戻っている。マルコが父親のリベルトと仲が良いため、リアとの接点も多く、リアはマルコに懐いていた。ただ、さすがに他の人の居る前でヴィエント軍の最高指揮官でもある大将を任せられている彼を“おじさん”と呼ぶことは憚られる。


「まったく何回目だ?ちゃんと断れって、言っているだろうに」

「……ごめんなさい」


リアは人見知りであまり親しくない者にはうまく自分の思いを伝えられないのだ。バレリオにも、今朝急に声を掛けられて……訓練が終わったら話があるから、訓練場の前で待っていて欲しいと言われた。今まで話をしたことはなかったと思うのだけれど。

マルコはため息をついた。


「リア、おいで」

「うん」


促されて、ソファに腰をおろしているマルコの隣にリアが座る。


「俺はお前の父親ではないけれど、少し心配だぞ?男が怖いか?」


リアは首を振る。確かに、男の人と話すのは女の人よりも気を遣ってしまう。だが、“男性”が怖いということではない。レオやセスト、マルコとは自然に話せる。付き合いが長いということもあるとは思うけれど。


「そんなことないよ。マルコおじさんにはこうやって自分のことも話せる。レオやセストさんにも」

「じゃあ、恋はしないのかい?」


恋……それは、どういうものなのだろう。


「ねぇ、恋って、どんな気持ちなの?」


リアがそう問うと、マルコは少し寂しそうに笑った。


「そうだなぁ……恋は、簡単に言ってしまえばドキドキする気持ちのことだ」

「ドキドキ?」


リアは心臓に手を当てて考える。この鼓動が速くなったら、恋?そうすると、自分はまだ恋をしたことがない。


「そう、苦しくなる。誰かと一緒にいて安心するのは愛だよ。クラウディアとリベルトがいると安心するだろう?それは、お前が愛されているからだ」


苦しくなるのは、少し怖い。それなら、安心できる愛のほうがいい気がする。


「恋をしなくても、愛になる?」

「それはどうだろうなぁ……両親とお前の関係のことを言っているのなら、それはまた違う“愛”だから。恋をして、それが愛になったら永遠の誓いをするんだよ」


マルコの言っていることはわかる。家族との愛と恋人との愛は違うということなのだろう。

苦しいのは嫌だ。安心だけ欲しい。そう思うのは、わがままなのだろうか?


「レオは……恋をしたことがあるのかな」


もし、レオが恋を知っているのならどんな気持ちか彼にも聞いてみようかと、そんなことを考えた。


「レオ様?ははっ……なんだ。心配していたが、大丈夫そうだな」

「……え?」


マルコの言葉の意味を図りかねて、リアは首を傾げる。そんな彼女の頭をマルコは大きな手で優しくポンと叩いた。


「すぐにわかるさ」


そのマルコの笑顔はとても嬉しそうだった。

――そんなやりとりから1週間ほど経ったある日。


「ねぇ、レオ。マルコおじさん……大丈夫だよね?」


リアは隣に並んで座っているレオに問う。中庭のお気に入りの木の下、先ほどから本を読んでいるけれど、読めていないというのが本当のところだ。


「あぁ。うちの争いではないし、万が一飛び火したとしてもマルコが怪我をするようなヘマをすると思うか?」


マルコは今、一軍を率いてルミエールとの国境警備に赴いている。その付近のルミエール王国側では紛争が起きているため、万が一を考慮してヴィエント王国の方へ被害がないよう守っているのだ。


「うん、そうだよね……」


そうは言ったものの、リアの胸騒ぎは収まることを知らないらしい。


「リア。どうした?マルコも大丈夫だって言って出て行っただろ」

「わからないの。でも、怖いの」


なぜなのだろう。マルコが現地へ行ってから数日が経つのに、今日になって急に不安に襲われている。

リアが少し震えていると、レオがそっとリアの身体を抱きしめてくれた。


「大丈夫だ。万が一怪我をしても、城には優秀なクラドールがいるだろう?お前も含めて」

「ん……」


リアはレオの胸に頬を寄せた。安心する、レオの温かい腕の中……


「レオ様!」


そんな、ゆっくりした時の流れに身を任せようとしたとき、セストの声が遠くから聞こえた。

息を切らして走ってくるセストは、かなり焦っているようだ。

リアの全身の血が、逆流したような気がした。

セストがこんなに慌てたところを見たことがない。それに、今報告があるとすればそれは確実に――


「国境付近で戦闘が……ヴィエントの兵糧目当てのようで、こちらにも怪我人が出たと。詳細はまだ……」

「わかった、すぐに行こう」


レオがリアから身体を離して立ち上がった。オビディオは今、フラメ王国との定例会議に出ている。レオが代わりに指揮を執るのだろう。リアは思わずレオの服を掴んだ。


「私――っ」

「ダメだ。お前は城で待っていろ」


最後まで言わせてすらもらえなかった。リアの考えていることなどレオにはすべてわかってしまうのだ。


「でも、マルコおじさんが無事かわからない!」

「あちらにはリベルトが行っている。もし負傷しても治すクラドールがいるんだ」


それは、わかっている。でもリアが言っているのはそういうことじゃない。


「嫌!お願い、レオ。連れて行って」


リアがレオの服を掴む。


「リア――」


レオが再びリアをなだめようとしたときだ。ヒュッと、紙がレオの耳元に飛んできてレオの動きが止まる。


(何?)


リアはざわめく心を落ち着かせようと必死になったけれど、うまくいかなくて。そしてすぐに、そんなリアの心を再現するかのようなざわめきが中庭まで届いてくる。


「早くしろ!揺らすな、丁寧に運べ!」


一際響いてきたのはリベルトの声だ。そしてチラリと見えた城の廊下を何人かの兵士が通り過ぎて、彼らの運ぶ担架に……血まみれの人。


「マ、ルコ、おじさん?」


一目でそれが彼だとわかった。


どうして、嫌な予感は当たるのだろう?


「……っ、マルコおじさん!」

「リアっ」


レオの制止を振り切ってリアは走り出した。


(嘘、嘘……)


遠目からでも、生死の境を彷徨うほどの怪我だとわかった。それほどに出血していた。リベルトの慌て方も普通じゃなかった。

それに、設備の揃った城に戻ってきたということは軍の陣営で対応できないということ。


治療室に入ると、リベルトがマルコの服を切り裂いてクラウディアが薬の投与を始めていた。止血の処置をした形跡もあったけれど、血が止まっていない。

処置の邪魔にならないよう、マルコを運んできた兵士たちが部屋を出て行く。

血の気の引いたマルコの顔。いつも、リアに笑いかけてくれるはずのそれは苦痛に歪んでいて、彼がかすかに息をする度にヒュッと音がする。


「マルコおじさん、マルコおじさん!」


リアが駆け寄ると、マルコは微かに目を開いた。


「……っ、り……ぁ……?」

「うん、私だよ。大丈夫、すぐに治るから」


リアは精一杯笑って、トラッタメントを始めた。


「ダメだ、血が止まらない!」

「内臓の損傷もひどいわ。どうしてこんな傷を……」


傷の浅いものも含めるとかなりの箇所を剣で貫かれていて、このままでは出血多量で助からない。リベルトとクラウディアが2人がかりで、そしてリアもトラッタメントを施しているのにだ。


「民を避難させているときに襲われて庇ったようです。襲ってきたのは反乱軍ですが、何人もの剣に貫かれたと……」

「その後の援軍が回収した剣には毒が塗ってあったようだ」


外に出て行った兵士たちに事情を聞いてきたらしいセストとレオが治療室に入ってくる。誰かを庇いながら複数の相手をするのはかなり難しい。血が止まらないのはおそらくその毒のせいだろう。


「いやっ、マルコおじさん!死んじゃダメ!」


助けたい。いや、助けなくては。

トラッタメントの効果が薄くて、このままでは助からない。毒で呪文の効果を薄めているのなら、呪文を使わずにやるしかない。


(大、丈夫……)


きっと大丈夫だ。大丈夫にしてみせる。

使ってはいけない。

そう、教えられていた。リアが赤い瞳の所有者だということが知れたら、彼女自身に危険が及ぶ。そして、副作用に苦しむのもリアだ。

だが、両親たちが“使ってはいけない”と教えていた一番の理由は、リアがそれを使いこなせていないから。使いこなせるレベルの集中力を持続させることができない。

リアが優秀だと言われるのは、16歳という年齢を考えれば素晴らしい技術を持っているということであって、まだ成長途中であるリアの肉体も精神も“赤い瞳”を使いこなすには早熟。

リア自身、それを理解していた。していたけれど、そんなことは瀕死のマルコを目の前にしたら霞んでしまったのだ。

“助けなくては”という思いの前に。


「っ、リア!いけません!」


娘の心の動きを逸早く感じ取ったクラウディアがリアを止めようと手を伸ばしたけれど、それは空を切った――

グン、と引っ張られるような感覚。マルコの身体の中に沈んでいくような……

初めて自ら力を解放した。けれど、どうすればいいのかが本能的にわかる。

リアはマルコの傷ついた細胞に視線を合わせ、ひとつずつ修復していく。だんだんと、すべてが元通りになり始めて……だから、少しホッとしてしまったのかもしれない。

ほんのわずかな――言うなれば、縫合ミス。でも、そのわずかなズレが人体に及ぼす影響は計り知れない。

リアの心臓が大きく音を立てるのと、マルコのそれが生命の活動を止めるのは、皮肉にも同時だった。


「や……」


スッと、目の前にあった細胞の映像が遠のいていく。そして見えたのは青白い顔をして横たわったマルコ。それもすぐに歪んで景色が回る。

頭がガンガンと叩かれるように痛くて、胃からこみ上げてくるもの。身体が熱くて呼吸ができない。


「いや、いやぁぁぁっ!」

「リア!」


立っていられなくなって倒れるリアを、レオの腕が支えてくれたのがおぼろげにわかって。

そこで、リアの意識は途絶えた――


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