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風に恋して  作者: 皐月もも
第六章:風向きの変化
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記憶修正

『あぁぁぁぁぁぁ!うっ、ふぇぇぇぇぇ』


赤ん坊の泣き声が響き渡るヴィエント城の治療室。


「ディーノ兄さん、呪文!」


レオの容態を診て呪文を入れていたディノの妹、エレナが叫ぶ。


「わかってる」


その泣き声と共に立っているのがやっとなほどの風が吹き荒れ、ディノが素早く呪文を唱えて水のベールを作った。壁の棚や治療器具に被害が及ばないよう、部屋にあるものすべてを覆う。


「うっ、あぁっ、あぁぁぁ!」


そして赤ん坊の泣き声に共鳴するように一番端のベッドに眠っていたリアが身体を起こし、胸をかきむしった。


「――っ!エレナ、代わって!」

「うん」


エレナの呪文ですべてのベールが彼女に渡った後、ディノは素早くリアのベッドに近づいた。


「リア様、少しだけ我慢してくださいね。お子様も」


リアには聞こえていないだろうけれど、そう断ってディノはリアの手を掴んで呪文を入れた。するとリアが落ち着きを取り戻し、ベッドに横たわる。その瞳は虚ろで天井の1点をじっと見つめている。


「どうして……こんなっ」


ディノが拳を握り締めて立ち尽くす。

リアは精神が壊れかけている。今は定期的に鎮静の呪文を使っているけれど、だんだんと効果の持続時間が短くなってきている。このままでは、引き返せないところまですぐにたどり着いてしまうように思えた。


イヴァンとディノが王の部屋で3人を見つけたとき、セストとレオの意識はなく、リアは金切り声をあげながら自らを傷つけるようにその白い肌を引っかいたり叩いたりしていた。ディノはそれを見た瞬間、血の気が引いた。彼女の精神が崩壊しつつあるとすぐにわかったからだ。

レオもセストも真っ青な顔をしていて、イヴァンがすぐにレオに止血を施した。セストの止血は済んでいたが、かなり血が流れてしまったようですぐに輸血が必要な状態だったし、皮膚の損傷もひどく、目も当てられないような有様だったのだ。

しかし、妙なのは城がいつもと何ら変わらない様子だったこと。あれほど散らかった部屋を作り出すのにはかなり激しい戦闘があったはずだ。そうすれば音や漏れてくる気で城の人間が全く気づかないということはありえないのに。

風の子の助けを聞いたイヴァンが焦ったようにディノの部屋へやってこなければ……確実に手遅れになっていた。特に、リアの処置は。

とりあえず王の部屋を施錠し、イヴァンと協力して3人を治療室へ運び、治療を始めた。それが、昨日の話。

エレナは人手が足りなくて呼びつけた。ヴィエント王国の診療所で研修をしている彼女は急いで飛んできて、今朝から治療室に入っている。

彼女はまだ養成学校を卒業したばかりの身だが、事情が事情なだけに身内を選んだ。もちろん、彼女の腕はディノも認めている。イヴァンも最初は渋っていたが、彼女のトラッタメントを直接見てOKを出した。

もうすぐ太陽が一番高くなる時間。

1日経った今も、リアを治せる可能性のあるセストはイヴァンが治療中。背中の傷はもう少しで完全に癒える。今輸血している分が終わればすぐに目が覚めるはずだ。いや、目覚めてもらわなければリアが助からない。

リアの隣のベッドではレオが眠ったままだ。内臓に損傷があったからトラッタメントにも時間がかかった。彼もまだ目を覚まさない。

そして、泣き止むことのない風の子。

『あぁぁぁん!まー!まぁぁぁぁぁ』

「あぁ……いい子だから泣かないで。お母さんもすぐに良くなるから、ね?」


風が吹き荒れる度にエレナがなだめようとするけれど、あまり効果はない。泣き疲れて眠ってしまうまで、呪文で部屋を保護するくらいしか対策がないのだ。


「泣く、な……」


そのとき、かすかにディノの背中から声が聞こえてきた。ハッとして振り返るとレオが身体を起こそうとしてベッドに手をついている。


『ふぇっ、ぱー?』

「レオ様!」


ディノはレオの背を支えた。上半身を起こすとレオは息をついた。

ふわり、とレオの周りに風が寄ってくる。


「リア、は?」

『まー、まー、んぅー!』


レオは苦しそうに顔を歪めて隣のベッドを見やる。


「今は……呪文で落ち着いています。お子様に影響がないように調節していますので、ご安心を」

「そうか……セストも無事か?」


レオが反対側のベッドへ視線を移す。ディノもそれに従って視線を向けると、セストも目を開けていて弱々しく微笑んだ。


「まぁ、なんとか」

「「セスト!」」


ディノとイヴァンの驚いた顔にセストはまた笑った。


「イヴァン、もういいよ」

「え、でもこのままじゃ傷が残る。もう少しだから大人しくしていて」


イヴァンはそう言って、トラッタメントを続けていく。


「でも、すぐにリア様の記憶修正をしないと」

「それなら私もお手伝いしますから!」


風が止んで水のベールを解いたエレナが、セストのベッドに近づきイヴァンと同じように彼の背中に手を当てた。


ついでに起き上がろうとしていたセストの頭をボスッと枕に戻す。背中の治療のためうつ伏せになっていたセストは「ぶっ」と言って枕に顔面直撃した。

それが面白かったのか、風がくるくる吹いて『きゃはっ!』と笑い声が響いた。

セストははぁっとため息をついてから、顔を横向きにする。


「君……水属性だね?」

「ディーノ兄さんに呼ばれてきました。妹のエレナです」


エレナは張り切った様子で名乗ると、呪文を再び唱える。


「ごめん、人手が足りなくて……マーレから呼び寄せたんだ」


ディノはマーレ王国出身のクラドールだ。確か妹はまだ研修生のはずだが、トラッタメントの技術は申し分ない。イヴァンやディノの監督下にもあるので特に問題はない。

ちなみにディーノというのはマーレ語での発音。ヴィエントではディノとなる。本来の読み方をして欲しいという者もいるが、ディノはあまり気にしていないらしい。というより、いちいち訂正するのが面倒なようだった。


「そう、構わないよ」


重傷の2人と精神の壊れかけたリア、更に荒れ狂う風の子の対応。それを2人で対応するのは荷が重い。

フッと息を吐き、セストは大人しくトラッタメントを受け続けた。 


「お前は、大丈夫なのか?」

『んー、ぱー、ぱー』


レオが自分の身体に巻きつくように吹く風に問いかけると、その声はレオを呼ぶ。よくわからないが、大丈夫なのだろう。


「先ほどまではずっと泣き叫んでいたので、影響があるのかと思っておりましたが……どうやらお2人とも目を覚まさないから泣いていただけのようですね」


ディノがホッと息をつく。しかしすぐにレオに真剣な眼差しを向ける。


「レオ様、一体何があったのですか?あんなに激しい戦闘の跡が残っていたのに、誰も気づかなかったのですよ?」


誰も気づかなかった――結界でも張られていたのだろう。


「ディノ、お前はどこまで聞いた?」

「一応、大まかには。ただ、そんな余裕もありませんでしたので細かくは……」


レオはそれに頷いて口を開く。


「カタリナがエンツォだったんだ。それで、こいつが俺のところにリアの危機を知らせに来た」

『んー!ぱー!』


レオが手のひらに小さな風を作ってやると、その子は嬉しそうにそれに戯れ始めた。


「風移動を使って部屋に、エンツォと剣と呪文でやりあった。だが、あいつは何か薬を飲んでいたようだった。それで……っ」


奥歯を噛み締めて感情を抑える。最後に、おぼろげに見えたリアの涙。


「それで、エンツォは?」

「いや俺は……リアの記憶をあいつが開けたところまでしか、意識を保てなかった」


また、守れなかった。


「お前たちはどうして俺の部屋だとわかった?」

「お子様が私の元へ来たのですよ」


セストのトラッタメントを終えたらしいイヴァンが近くの椅子にドサッと腰を下ろした。ほとんど休む間もなくトラッタメントを施していたらしく、かなり疲れの色が見える。


「こいつが?」

「はい。私がリア様に気を差し上げたことがあったでしょう?おそらくそれで私を覚えていたのではないかと」


イヴァンがそう言うと、レオの手のひらで遊んでいた風がゆらゆらと彼の元へ吹いていった。


『うーうー』


なるほど、イヴァンにも懐き始めたらしい。


「そうか……助かった」

「いえ、お子様のお手柄ですよ」


イヴァンは微笑んで、額の汗を拭った。


「あとは、セストに任せますから」

「人遣いの荒い人たちだ……」


セストがため息をついてベッドから降りる。部屋の隅のクローゼットから適当な服を取り出してそれを羽織り、リアのベッドへと歩いていった。

「ディノ、今の鎮静効果が切れるまであとどれくらい?」

「さっき入れたばっかりだから、2~3時間かなぁ」


セストが頷いてリアの脈を測り、額に手を当てた。


「セスト」


レオは不安になって声をかけた。セストの記憶修正はわずかではあるが、まだ不安が残っている。それを、施しても大丈夫なのだろうか。


「少なくとも、ルミエール城に潜入したときよりは上達しています。それとも、このまま何もせずに壊れていくリア様を見ているおつもりですか?」


相変わらずの物言いだけれど、普段と変わらないセストの態度にレオはなんとなく安心した。


「わかった。頼む」

「承知しました」


そして、セストの気が大きくなる。


「う、あぁっ」

「くっ……」


じっとりと、濃く、繊細に練られていくそれが消えていき、リアとセストから苦しそうな声が漏れる。それが、何十分か続いて……


「はぁっ、はぁ……」


セストがガクッと膝をつく。


「セスト!」


大量の汗をかき、手足を振るわせるセストにディノが駆け寄って気を送ると、少し呼吸が整ったようだ。


「なるほど……これは、鍛錬とは次元が違う」


セストは思わず呟いた。

リアの記憶の中に入ったとき、たくさんの映像が見えた。彼女の本物の記憶と偽物の記憶たちだ。流れ込んでくるそれらを見ながら、記憶の仕分けに消去。

他人の記憶を見ることによる体力消耗、精神消耗に加えて呪文使用によるそれもセストの疲労を促す。

今はセスト自身もトラッタメントを終えたばかりで万全の状態でないにしても、小分けにしてやらなければならない。集中力を保つことが一番困難だからだ。


(相当時間がかかる)


それまでリアが持つかどうか。

たった今、記憶修正できた分と残りの記憶、そしてリアの体力を考慮して……彼女の中のもう1つの命も。どう考えても綱渡りにしかならない。

セストは片手で目を覆う。

なるべく早く修正を進めて、リアが意識を取り戻してくれれば自力で仕分けができる場合も……いや、それまでに精神的疲労がどれだけ溜まってしまうかを考えると、そのときにはリアの心が不安定であると思った方がいい。そうなると、自力での回復は難しい。

何にせよ、時間との闘いであるのに変わりはない。となれば……


「ディノ、エレナ。今、私に分けられる気はどれくらいある?」

「うーん、いつもの半分くらいなら。あまり寝てないし、トラッタメントで使ったからそんなにはあげられないよ。エレナは?」


ディノがエレナに視線を向けると、彼女はニッコリと笑った。


「私はまだまだ元気よ!」


それから、ディノとエレナの気を使って更に修正を進めることができた。

先ほどより落ち着いたリア。ぼんやりと天井を見ていた瞳は閉じられて眠っている。そのベッドの横に椅子を持ってきて、ずっとリアの手を握っているのはレオだ。


「今日はここまでだね」


セストがそう言うと、ディノとエレナは大きく息を吐いて椅子に座る。かなり多くの気を使わせてしまったので仕方ないだろう。イヴァンは徹夜でトラッタメントを施してくれていたらしく、部屋の隅のソファで眠っている。


「人遣いが荒いのはセストじゃないの?」


ディノが恨めしそうにセストを見ている。エレナは声を出すのも億劫なようだ。


「それは失礼。どうも主に似てしまったようで」


そう軽口を叩いてみるが、セスト自身かなりつらい。立っているのがやっと、少しクラクラする。


「夕食はここに持ってこさせよう。セスト」


言ったそばからそう声を掛けられて、セストはため息をつく。


「承知しました。メニューは?」

『もー!』


すると、先ほどまで大人しくしていた風がヒュッと部屋を駆け回る。緩やかなので、部屋の備品を傷つけることはないが……


「もー、ですか?」

『もー、もー』


セストが困惑していると、レオがクッと笑った。


「桃じゃないのか?リアがよく食べていただろ」

「あぁ……」


さすが父親というべきか。いや、ただ単にリアの行動を把握しているだけかもしれない。セストは紙を取り出して、言の葉を乗せるとそれを吹き飛ばした。



***



夕食の後、レオは1人治療室に残ってリアの寝顔を見つめていた。

リアが危険な状態にあるとしても、こうしてまだレオの元にいるという事実に安心している自分がいる。

記憶修正を行って疲労困憊の様子だったセストやディノは部屋に戻し、エレナにも部屋を用意させ、しばらく滞在してもらうことにした。眠っていたイヴァンも夕食時に起こして事情を説明し、明日からは記憶修正を手伝うことになっている。

ふと、先ほどの会話を思い出す。


『なぜ、エンツォはリア様を連れて行かなかったのでしょうか?』


セストが部屋を出て行く前に口にしたことだ。レオも気になっていた。今はリアの回復が最優先だから、あまりそれについて話さずにセストを休ませたけれど……

1年前も、同じような会話をした。あのときは、エンツォがどうやってリアを連れ去ったか、だったけれど。

リアはレオの部屋でもそうだったけれど、十分エンツォに抗うことのできる呪文を使える。それをしなかったのは、エンツォにそれだけ気を許していたということなのか……

どちらにせよ、1年前も昨日もリアを守り切れなかったことだけが悔やまれる。


「リア……ごめ、ん……」


うまく、言葉を紡げない。謝ることしかできない。とにかく理由が何であれ、昨日の時点で連れ去られなかったのは不幸中の幸いといったところか。

しかし、もう1つ。

エンツォは最後、リアの“人を殺めた”記憶を蘇らせてあげると言った。リアは今、その中で苦しんでいるのだろうか。それとも、もっと違う記憶の中を彷徨っているだろうか。

そうであればいいと思う。本物の記憶と偽物の記憶の狭間で混乱しても、見える記憶が幸せな記憶なら、少しでも苦痛が和らぐのではないかなどと……バカなことを考えてしまう。


「リア」


レオはリアの手をギュッと握った。

リアは悪くない。事故、と言ったら少し語弊があるかもしれない、だがそれ――彼の死――は確かにあの日に定められていた。それが本来の理、運命で……“自然”だったのだ。

リアはその運命に逆らって彼を救おうとしただけだった。誰もリアを責めなかったけれど、彼女自身が自分を責めた。自分が“殺めた”のだとショックを受けて、その後、副作用で寝込んで苦しんで……そして封じ込めた記憶。

自己防衛のようなもの。

リアが目覚めたときに、そのことを覚えていなくて正直ホッとしたのだ。レオも、リアの両親も、あの場にいたすべての者が。

だからどうか……このまま罪の意識に苦しむことなく過ごして欲しい。思い出さないで欲しい。そう願うのはもう遅いのかもしれないけれど。


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