破壊
セストは珍しくぼんやりと窓の外を眺めていた。午前中の会議の記録をまとめる手も止まっている。
ノエがユベール王子に接触する様子はない。会議中、更に厳しい警備体制をとっているフラメ城内でもレオの側を片時も離れず護衛に徹している。今はレオが食事中であるから一緒に広間にいる。
(風……)
窓から覗く木の枝が大きく揺れるほどの風が吹いている。フラメ王国は穏やかな気候の国で1年を通して温暖、嵐はほとんどないし、強い風が吹くことも珍しい。
交流会のときの突風も、こんな風だった。
だが、あの後聞いたところレオは呪文を使っていないと言っていたし、リアは風を使えない。それよりも、あんなに大きな風を巻き起こしていたのに誰の気も感じられなかった。
「セストさん?」
「――っ!」
急に肩を叩かれて、ビクッとセストの身体が跳ねた。その拍子にコーヒーカップを倒してしまい、まとめていた書類に染みが広がっていく。
「っ!申し訳ありません、私が急に声を掛けたから」
「いえ、私もボーっとしてしまって、すみません。平気です」
慌ててカップを取り、流れてしまったコーヒーを叩くようにして拭いていくのはフラメ王国第一王子の側近イェニー。
「セストさんがぼんやりするなんて珍しいですね?あぁ……これはもう読めませんね。本当にすみません。最初からやるなら、私もお手伝いしますから」
イェニーは深く頭を下げ、申し訳なさそうな視線をセストに向けた。
「ありがとう。でも、大丈――」
そう言いかけて、セストはハッと気づく。
(最初から?)
最初は、研究室でリアが……いや、違う。それは最初に“エンツォが仕掛けてきた”とき。リアをヴィエント城へ連れ戻したのが本当に最初の出来事。そして、その夜レオは――
「――っ!」
セストは勢いよく立ち上がった。そして迷わず隣の広間へと続く扉に進む。
「「セストさん!?」」
他国の側近たち全員が、セストらしからぬ行動に驚いている。そもそも、今セストが向かっている扉の向こう、広間で王や王子たちが食事中だ。そんな中に入っていくなど……
だが、誰かが止める間もなくセストは扉に手を掛けた――
***
――カタカタとわずかではあるが、先ほどから広間の窓が揺れているのが気になる。
午前の会議を終えて、レオはフラメ城の広間で食事をしているところだ。他国の国王や王子たちも一緒だが、ノエがユベール王子に接触する機会は今のところなかった。
こうなれば、折を見てユベール王子に直接問いただすしかないだろう。
「フラメ王国でこんなに風が吹いているのは珍しいですね」
レオがそんなことを考えていると、マーレ王国の王子が窓に視線を向けた。風は先ほどより強くなっているようだ。
「ふむ……今日はずっと晴れるという予報なのだが」
「変な風、ですね」
フラメ国王も王子も眉を顰めて窓の外を見た。
変……それは、レオも感じていた。匂いが、あのときと同じで……
(親近感?)
そう、言葉で表すならそれだ。レオの使う風に似た――
「――っ」
ガタン、と音を立ててレオが席を立つ。広間に居た全員の視線がレオに集まったけれど、レオはそんなことを気にする余裕などなかった。
「レオ様!」
『うっ、ふぇっ、ぱー!ぱー!まーま、んー』
大きな音を立てて扉が開き、セストが血相を変えてレオに近づくのと同時にガタッと窓が開いて入り込んできた風。そして、広間に響く声。レオの……レオとリアの子の声。
どうして気づかなかったのだろう。
苦手なはずの桃をよく食べるようになったリア。微熱も長引いて、ベッドに丸まって眠ってばかり。
交流会のときの、突風と同じ……風の匂い。自分の風とよく似たそれに混じったほんの少しの水気――その風を誰が使うかなんて。
「これは……」
マーレ国王が驚いた声を出し、その場にいた全員が顔を見合わせる。
「あぁ、やはり……なんてことだ」
セストが額に手を当てる。風はレオの周囲をぐるぐると回ってレオを急かしているようだ。
レオは咄嗟にノエ、そしてユベール王子へと視線を滑らせた。ノエは何が起こっているのか把握できていないようで、とても驚いたように風を目で追っている。
だが、ユベール王子は……
「リアが懐妊していたなんて知らなかったなぁ。どうして教えてくれなかったの?それに……とっても賢い子みたいだね?」
クスッと笑ったユベール王子はすべてを知っている。だが、今はそれよりも――
ユベール王子やノエは城にいるリアに手を出せない。
(ならば、誰だ?)
研究室、呪い、記憶に再び手を入れようとしたときも交流会でも一番リアの側にいた人物。
「ま、さか……」
『あぁぁん!まー!まー!』
レオがその答えにたどり着いたとき、風の泣き声も大きくなった。
「申し訳ないが、緊急事態だ。私はこれで失礼させてもらう。セスト!」
「はい」
セストは頷いて呪文を唱え始めた。
「リアに何かあったのだね?」
「この子の騒ぎ方……早く、帰ってあげて」
マーレ国王と王子に頷いてからレオも呪文を唱え始め、2人の周りに風が渦を巻く。
(リアのところに、だ。いいな?)
『ふぇっ、まー』
泣きながらも、レオとセストを包みこんでいく我が子の力は相当のものだ。さすがに1人では呪文を唱えられないので人を移動させることはできないようだけれど。
「行くぞ」
そのレオの声とともに風がザッと速度をあげ、次の瞬間、レオとセストは風と共に消えた。
***
「……ァ、っ……リア!」
あぁ、レオの声が聴こえる。これは……夢、なのだろうか。
「リア!」
「レ、オ……」
目を開けると、レオがギュッと抱き締めてくれた。この温もりは、本物……?
「わ、たし……」
ぼんやりと視線を移すと、嵐が通り過ぎたかのように散らかった部屋を認識できた。
「良かった。間に合って……」
「赤ちゃん、は?」
『んー、んー!まー!』
リアの声に反応して、緩やかに風が吹く。
「なるほど。随分賢い子供みたいだね?まったく……うまくいかないものだな」
「エンツォ!お前――っ」
間一髪、だった。レオが部屋に降り立ったとき、まさにエンツォの左手の風がリアのお腹に吸い込まれそうになっていて……
「ソプレっ」
咄嗟にそう叫んで、吹き飛ばした。レオの起こした風は、その子の力も乗ってすべてを吹き飛ばすかのように部屋中の物を巻き込んで弾けた。リアもその衝撃に弾き飛ばされ、それをレオが受け止めたのだ。
「ククッ」
エンツォが笑いながら髪をかきあげる。窓ガラスの破片で切ったのか、頬から血が滲んでいる。それを拭い、エンツォがニッコリとレオに笑顔を向ける。
「久しぶりだね、レオ。君の顔は見る予定じゃなかったんだけど……」
「ずっと、見ていたのだろう?」
レオがエンツォを睨みつけると、エンツォもスッと笑みを消す。
「ようやくお気づきだね?」
「あぁ、まったく……どうしてカタリナだけは違うと思っていたんだろうな」
カタリナは幼い頃からリアに付いていた。最初は見習い侍女としてだったが、リアは侍女としてではなく、友達や姉妹のような存在としてカタリナを慕っていたし、彼女もそうだった。
剣の修行も、最初はリアを守るためにと始めた護身術程度のものだった。けれど、その才能はみるみるうちに開花し、ノエ将軍にも引けをとらないものとなり、侍女として働きながらたまにノエ将軍の補佐も行っていた。
「いや……カタリナが花束を持っていたとリアに聞いてから、何かがおかしいと思っていたのに、俺の失態だ」
先入観――カタリナに限って、と。また、レオはカタリナの実力をよく知っていたこともあってカタリナだけは操られることはないと思っていた節もある。
能動的な呪文は得意ではなかったが、カタリナは相手が呪術者の場合の対応策や防衛方法を完璧にマスターしていた。並大抵の者では彼女を屈服させることはできないし、殺せない。
「ククッ。やっぱりカタリナを選んで正解だった。レオ、君はリアとカタリナには昔から甘かった」
リアに対しては“惚れた弱み”とでもいうのか……レオのすべてでリアの望むことを叶えてやりたいと思う。そのリアが信頼を置くカタリナのことを、オートマティックに信頼してしまっていた。
レオはリアを抱き上げてセストの元へ下ろすと、ため息をついて立ち上がる。
「レオ……」
「リア様、あまり動いてはいけません」
離れていくレオを追いかけようとするリアをセストが止める。レオは振り返って、リアを安心させるように微笑んだ。
リアの白い肌にところどころ切り傷がついているのは、やはりガラスの破片で切ってしまったのだろう。セストがすぐにトラッタメントを施す。
レオはエンツォに向き直り腰に携えていた剣を抜いた。
「俺を殺すつもり?」
「必要ならば、それも厭わない」
グッと剣を握る拳に力を入れると、エンツォはクスッと笑った。
「今まで野放しにしちゃってたもんね?自分の失態は自分で挽回しないと、ってことかな」
「いつから……というのは聞くまでもないか」
カタリナが最初からエンツォだったのなら、すべてがつながる。
同じ休憩室を使う侍女を操ることも簡単だろうし、盗んだ鍵で研究室を開けておくタイミングもリアが図書館から帰るときをピンポイントで狙える。開けっ放しで他の執事や侍女に気づかれて報告されないように。
リアの知らない“リア”を少しずつ見せていくことで、記憶のない彼女を追い詰めることも簡単にできるし、レオのスケジュールを把握していればリアの部屋に来る時間も大体予想がつく――呪いの最後のトリガーを引いたのもカタリナだった。
リアがレオに心を許したところで、また記憶操作の呪文をかけようとしたのもピッタリのタイミング。
そして……交流会の花束。おそらくはユベール王子がノエ将軍としてカタリナに花束を渡した。あとはリアに接触できたところで偶然通りかかったように彼らに近づけばいい。
「やはり、デペンデンシアを……」
セストはエンツォを睨みつけた。ここまでいろいろなことをやってのけた、この男ならば不可能も可能にすると、そういうことか。いや、エンツォを突き動かす憎しみが自然の理をも覆す、と……
「やっと記憶修正を習い始めた君には一生使えないだろうね?」
「たとえ使えたとしても、私は貴方のように命を軽々しく弄んだりしない!」
バカにしたようなその言葉に、セストが叫ぶ。
「ハッ!俺はどっかの甘いキャンディのような国王様とは違う。目的のためならどんなものも犠牲にできる」
だから、まったく関係のなかったカタリナやリアまでも巻き込んだというのか。
「命などというが、心の壊れた母さんだって死んだのも同然だ。あいつに殺された!」
「オビディオ様は――っ!」
セストがその名を口にした瞬間、エンツォの顔が憎しみに歪み、旋風がセストとリアを目がけて走った。
ドン、と大きな音がしてガラスの破片や埃が舞う。
「リア!セスト!」
レオはエンツォの風を自分の風で吹き飛ばし、2人の前に立った。
「けほっ、くっ」
「はっ、かはっ」
咄嗟に風で周囲に壁を作ったセストだが、埃を吸い込んでしまったらしくリアもセストも苦しそうに咳き込んだ。
「その名を口にするな!」
肩で息をしながらエンツォが叫ぶ。その様子を冷静に見つめて、レオが静かに口を開いた。
「エンツォ、お前は誤解している」
「誤解?何が誤解なんだ?母さんが捨てられたのは紛れもない事実だ」
エンツォが呪文を唱え、その左手に剣が現れる。
「父上はお前の母親を愛していた。けれど、お前の母親は婚約直前に父親とカリストに騙されて純潔を奪われた。だから――くっ」
キン、と鋭い音がして、レオとエンツォの剣がぶつかる。
「でも最後にいい思いだけしようと抱いた?面倒な“初めて”の妹より良かったとでも?」
「違う!そうじゃない!」
グッと押し込まれるような剣の重みを受け止めながら、レオはエンツォの瞳を覗き込んだ。青みがかったその色は、確かにヒメナのもの。マリナともよく似ている。だが、映っているのは憎しみのみ。
「正義ぶった君たちの言い訳を聞いても、母さんと俺が苦しんだ過去も、母さんが壊れてしまった現実も、変わるわけじゃない!!」
「っ、く……」
レオは両手で剣を持っているというのに、左手だけでそれと同等の――いや、僅かに勝るほどの――圧力をかけてくるエンツォ。
「ねぇ、レオ。君とセストをここに運んで、さすがに赤ん坊は疲れちゃったみたいだね?」
風の声が聴こえなくなったことを言っているのだろう。エンツォは楽しそうに口元を歪めた。レオはその剣を受け止めながら彼を睨みつける。
「何が、言いたい?」
「わからないの?もうリアのことを守れないかなって言ってるんだよ」
そう言って、右手をひらひらとレオに見せつける。
「呪文を使えると言いたいのか?それは俺も同じだ」
両手でエンツォの剣を受け止めてはいるが、言の葉さえ紡ぐことができれば呪文は使える。
「ふーん、じゃあこれでどう?」
「――っ」
フッとエンツォの剣から重みが消え、剣が払われる。しかしすぐにそれはレオを目がけて振るわれた。剣のぶつかる音が絶え間なく響く、王の部屋。
(くそっ!)
速く重い攻撃にレオの呼吸が乱れていく。これでは呪文を唱えたとしても、本来の力にはならない。それとは対照的に、エンツォは余裕の表情だ。
「お前、くっ……何を、飲んで、いっ、る!?」
ありえない体力。何か薬を飲んでいるとしか考えられない。
「そんなの、企業秘密に決まってる。この攻防も飽きたし、そろそろ終わりにしようか……デストルクシオン」
「リア!」
囁くようにエンツォが呪文を唱え、地響きと共に竜巻がリアへと解き放たれた。レオの叫びはそれにかき消されて。
「――っ」
その衝撃に思わず閉じてしまった目を薄っすらと開けると、レオの視線の先で水のベールがリアの前に作られていた。それに吹き付けるエンツォの破壊の風。
「もうやめて、エンツォ」
リアが泣きながら両手で水のベールを支えるように腕を突っ張る。
「リア様、いけません。こんな呪文を使い続けたら貴女の体力が……」
セストがリアの腕を掴むがリアは弱々しく微笑んで「大丈夫」だと伝えるだけで、呪文は解除しない。
「やめる?そんな選択肢はない」
「うっ――」
エンツォの風が強まって、リアが顔を歪める。水のベールが風に押されてリアの方へとしなっていく。
「セ、ストさん……気を、貸して…………」
「でも――っ」
リアが力強い瞳をセストに向けて、セストはグッと言葉を飲み込んだ。そして、リアに気を送り始める。
「ふん、いつまで耐えられる?」
「エンツォ!やめろ!」
レオが再び剣を構えてエンツォに飛びかかる。けれど、エンツォはそれを軽々と弾いて、またレオとの攻防が始まった。
その間も、風の威力は落ちない。
「いいことを教えてあげるよ、リア。1年かけて君の記憶を確実に偽物へと入れ替えていたときに気づいたことだ」
(私の、記憶?)
水のベールを支えながらレオとエンツォが剣を交える様子を視界の隅に捕らえていたリアは、聞こえてきた自分の名にピクリと反応する。
「1つ面白いものがあった。君が“赤い瞳”で人を殺めたときの、ね」
“人を殺めた”
ドクン、と心臓が騒ぎ出す。全身の毛穴から汗が吹き出すような感覚。
リアが人を殺めた――?
「リア様、いけません!」
「え――」
ザッと水のベールが崩れてエンツォの風がリアとセストを吹き飛ばす。
「ぐっ、げほっ、くふっ」
「うっ」
壁際まで飛ばされた2人。水を飲み込んでしまったリアが咳き込み、セストもうめき声をあげる。
「セストさん!」
咄嗟にリアを庇ったセストは背中に竜巻が直撃し、かなりの傷を負っていた。リアはすぐにセストの背中に手を当ててトラッタメントを施していく。すぐに血は止まったが、頭を打ったのかセストは意識がないようだ。
「ふふっ、リア。可愛い顔が台無しだって言ったのに。あぁ、でも濡れた姿は色っぽいかもね?」
「わ、たしが……人を、殺したって……本当、なの?」
「やめろ!リア、聞くな!」
リアの身体が震える。それは、水をかぶって寒いからではない。
「本当だよ。でもショックのせいか、その記憶はちょっと歪んでた。だから本物の記憶を持っていた君も知らない」
エンツォがとても……美しい笑顔をリアに向けた。そして、レオに向き直る。
「さぁ、レオ。ここまで長かったけどさ、君の大切な人が壊れる瞬間をよく見ているといい」
「く、やめっ――」
キーン、と一際大きな金属音が響いて、レオの剣が弾かれた。同時にレオの鳩尾に、いつのまにかエンツォの右手に渦巻いていた風がグッと入る。
「ぐはっ」
「レオ!」
壁に叩きつけられて、レオは床に倒れこんだ。駆け寄りたいのに、リアの身体は動かない。先ほどの呪文でかなり体力を消耗してしまったのもあるし、身体が震えているせいもある。
「はっ、やめ……かはっ、リアっ!」
レオが苦しそうに呻いて、血を吐く。グッと拳を握って身体を起こそうとしてもうまく力が入らないようだ。
そんなレオの姿を一瞥すると、エンツォがゆっくりとリアに歩み寄ってきた。
「リア、最後のプレゼントにそれもちゃんと思い出させてあげる」
「エンツォ……」
あぁ、彼は……悲しみに、憎しみに心を支配されてしまっている。
どうして、こんな風になってしまったのだろう。
カリストが彼を虐げていたから?
マリナがヒメナとオビディオに一夜の逢瀬を与えたから?
カリストがヒメナの純潔を奪ったから?
それとも、初めから……オビディオとヒメナが出会ってしまったから?
違う。そうやって辿っていったらきりがないのだ。本能のままに、ときには定められた運命を受け入れて、生きてきた人々を責めることなど……
強いて言うならば……神がそれを望んだ、と。
そんな風に思うのは、リアが逃げているからだろうか。自分が彼に何もしてあげられないことへの、言い訳なのだろうか。
スッと座り込んで目線を合わせ、リアを見つめるエンツォの瞳は綺麗な海の色のようだ。深い、青。
「さよなら、リア」
そう、言われて……リアの頬に一筋の涙が伝った。
「レコルダール」
それが、リアに届いた最後の言葉――追憶の、呪文。




