絡まるオモイ
「リア様!」
図書館へ行った帰り、ぼんやりと廊下を歩いていると不意に声を掛けられた。振り返ると、セストが小走りに近づいてくる。
「お加減はいかがですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
リアは軽く頭を下げてじっとセストを見つめた。彼を見たのは久しぶりな気がする。
「あぁ、すみません。しばらくルミエール王国へ行っておりました。解熱の呪文を入れてからすぐに出発してしまったので……」
セストの言葉にリアは頷いて答える。
ルミエール王国はヴィエント王国の南に位置する国だ。光属性の呪文を使う民が住む国で、今はあまり情勢が良くなかったように思う。
貧富の差が激しく、貴族たちが贅沢な暮らしをする一方で一般市民は苦しい生活を余儀なくされている者も少なくないとか。とはいえ、都市部は裕福な層も多く、特にルミエール城が見える城下町は有名な観光名所でもある。ルミエール城が夜になると呪文でライトアップされるからだ。
「あの……やはり、呪いですよね?」
セストが言いづらそうに、リアに確認する。リアは彼からスッと視線をはずして廊下の奥を見やった。
セストの言葉は問いかけのようで、確信めいたトーンで紡がれた。あの現場でリアの様子を見た王家専属クラドールが呪いに気づかないわけがない。レオも同じ。
そして、リアも……
「侵食の呪いを、かけられているのだと思います」
侵食の呪い――心の隙間を感知してそれを広げ、意識を乗っ取るものだ。リアの場合、“殺す”という意識に侵食される。標的はほぼ間違いなくレオ。
手段は特に限定されていない。その目的――レオを殺めること――が果たせるのなら、何でも良い。力で敵わなかったから、赤い瞳を使おうとしたのだ。
自分を見失うということ。記憶の狭間でどちらの自分が本物なのか、わからなくなってしまった。おそらくそれが、リアの心の隙間。それも、故意に作り出されたもの。
つまりリアの記憶をいじったのは、侵食の呪いの伏線のようなものなのであろう。
じわっと、目頭が熱くなる。
「……っ、エンツォは、どう、して……」
どうして、自分にこんな呪いをかけたのだろう。
好き――だと、思っていた。いや、思わされていた。偽物の想いなのかもしれない、それでも、彼と共に過ごした時間は本物だったはず。その時間だけでも、信じたいのに。
「少しお話したほうが良さそうですね。リア様、少し私の執務室へ来ていただけますか?」
セストはリアの背中をそっと押して促した。
「エンツォは、貴女と同じ王家専属のクラドールとしてこの城で暮らしておりました」
キレイに片付けられた執務室、セストはソファに座らせたリアの向かいに座って静かに語り出す。
「彼が王家専属のクラドールとして城にやってきたのは、今から4年前になります」
引退したクラドールの1人の後を引き継いだのがエンツォだった。
「エンツォは、先代の王――オビディオ様の推薦で城へと招かれました。理由はもちろん彼が優秀だからです」
王家専属のクラドールとして必要なのは確かな腕。王族の健康管理はもちろん、定期的な国内各地区への往診による国民の健康管理や国内のクラドールの統率なども彼らの仕事だ。
流行り病などが出れば、その対策の指揮や病の研究などを率先してやらなければならないし、薬の開発も常に取り組んでいる。
「けれどもう1つ、大きな理由がありました。それは、彼がレオ様の母君――マリナ様のお姉様であるヒメナ様の子だからです。そして、これをオビディオ様がご存知だったかどうか今となってはわかりませんが……」
セストはそこで言葉を切ってリアを真っ直ぐに見据える。1度大きく息を吸って、吐いて、そして……
「エンツォはオビディオ様の子……レオ様のお兄様にあたるのです」
リアの目が驚きに見開かれる。
セストはスッと立ち上がると、机の引き出しを鍵で開け、呪文を唱えて中から古いノートを取り出した。それを持ってソファに座り直す。
「マリナ様はオビディオ様の側近を務めていた男の娘でした」
オビディオの即位に合わせて縁談の話が持ち上がり、ちょうど年頃の娘がいた側近に白羽の矢が立ったのだ。
2人は交流会などで何度も顔を合わせていたし、側近を務める父に会いに城への出入りの多かったマリナ……縁談はスムーズに進んだ。婚約の儀、結婚式、そしてレオが生まれる。政略結婚ではあったけれど、2人はとても仲睦まじく、何の問題もないように見えた。
けれど……
「ヒメナ様が嫁がれたのは、マリナ様が城へ王妃として迎えられた後です。変だと思いませんか?」
姉であるヒメナよりも先に嫁ぐ。それも、王族との婚姻。貴族の娘が結婚する場合、ほとんどの場合が年上の者からだ。家に縁談が持ち込まれれば、特に理由がない限りは姉のヒメナが王妃候補となるのが自然。
「オビディオ様が、マリナ様をお選びになったのではない……と?」
「ええ。縁談は最初、マリナ様ではなくヒメナ様とのお話だったのです。そしてお2人は恋仲にあった」
そう言って、セストはノートのあるページを開き、リアの方へ向けてテーブルに置いた。リアがそれに視線を落とす。丁寧で繊細な文字はレオの母親の筆跡だ。
『オビディオ様とお姉様は愛し合っていらしたのに……お父様もカリスト様もひどいわ。お姉様の、純潔を……』
最後はインクが滲んで紙がふやけて乾いたようになっていて、マリナがこれを書きながら涙を流していたのだと推測できる。
「これ、って……」
リアが両手で口を押さえた。その指先が震えている。
王との婚約は、紋章が刻まれた時に成立するものだ。その後、その紋章を“証”として、貴族や国民たちに正式な婚約者――未来の王妃としてお披露目があり、結婚式を終えて夫婦と認められる。
リアは結婚式の前にエンツォと行方不明になったため、形式的にはまだ“婚約者”なのだ。
「カリストというのは当時かなり勢いのあった公爵家、アレグリーニの当主です。どの貴族も彼とのつながりを求めていた。そして、彼はヒメナ様を気に入っていた……」
だから2人で協力してヒメナを王に嫁げぬ身体にした。紋章を刻むことのできない身体に。
「アレグリーニ……?」
「えぇ。エンツォの父親です。表向き、ですが……」
セストは日記のページを捲った。
父親に騙されて、ヒメナがカリストに嫁ぐことになってしまったこと。カリストと父親の思惑に気づきながらそれを防ぐことのできなかった自分を責める言葉がマリナの字で綴られている。
読み進めるリアの震えが大きくなっていく。
「そうしてヒメナ様はカリストの元へ、マリナ様はオビディオ様の元へ嫁ぎ、すべてが彼らの計画通りに進みました。けれど、たったひとつだけ……彼らも知らないところでそれが狂っていた」
セストはまたページをめくった。
『今夜、お姉様をお城へ招待することをオビディオ様とお父様にお許しいただいた』
そう始まっているその日の日記。
姉が嫁いでなかなか会えなくなってしまう前にと、尤もらしい理由をつけたこと。本当はオビディオとヒメナを最後にもう一度だけでも会わせたかったということ。そして……
『オビディオ様、お姉様、ごめんなさい。お2人が後で今夜のことを思い出すのはつらいことなのかもしれない。それでも私は、お2人で愛を確かめて欲しかった。たった一夜でも、夢を見て欲しかったの』
その後の日記はマリナがレオを身ごもったことを知る日まで、あまり書かれていなかった。書かれていても、城での出来事やオビディオと公務の合間に自由時間を作って異国を回ったことなど些細なことばかり。
「で、でも、これだけでは2人が兄弟だとは……」
オビディオとヒメナが一夜を過ごしたことは事実かもしれない。しかし、そのときに何があったかは2人にしかわからないし、仮に2人が肌を重ねていたとしても、エンツォがそのときの子だとは言い切れない。
「ええ、私も最初はそう思いました。これを……見るまでは」
そう言ってセストが日記の最後のページにはさんであった紙切れを手にとって広げた。日記より新しい紙に、難しい文字と数字の羅列。
「クラドールである貴女ならば、この意味がわかるはずです」
親子関係を示す、それ。リアの顔が真っ青になる。
「でも、でもっ……2人が兄弟なら、どうしてエンツォは……」
弟であるレオを殺そうとするのか。
「そうですね。それは、彼の生い立ちに関係があります」
セストは紙を折りたたんで日記の最後に挟み、続ける。
「エンツォが城に来ることが決まったとき、少しだけオビディオ様から事情を伺いました。彼が幼い頃から17歳で家を出てクラドールとしての修行を始めるまで虐げられていたらしいということと、ヒメナ様がそれと同じ時期に心の病に侵されてしまったことを」
だから感情が表に出なくなってしまったのだろうと。
城でのエンツォはいつも無表情で感情を読み取れなかった。誰かと会話をするのも必要事項のみ。リアは根気良く彼とのコミュニケーションを図っていたようだったが、エンツォが城で浮いた存在だったのは言うまでもない。
ヒメナがカリストに嫁いだ頃、アレグリーニ家はかなり羽振りが良かった。金に物を言わせてやりたい放題。それでも、いろいろなコネを持っているアレグリーニ家に従う者たちは多かった。ヒメナの妹であるマリナが王家へ嫁いでいるということも1つの理由である。
そして、セストがパラパラとページをめくり、ある日の日記をリアに見せる。
『お姉様が、お心を……どうしてこんなことになってしまったの?』
その日の日記も先ほどのページのように涙で紙がふやけていた。
アレグリーニの屋敷で虐殺事件が起こったことが震える文字で書かれている。使用人もほとんどが殺され、生き残ったのはほんの何人かと心の壊れたヒメナ、そしてエンツォだと。姉はおそらく残酷な光景を目の当たりにしたショックに精神が耐えられなかったのだろう、と。
しかし、リアがそこで視線を上げてセストを見た。
「マリナ様は、カリスト様の仕打ちをご存知なかった……の?」
ヒメナとエンツォが長年虐待を受けていたとして、その元凶であるカリストの死にそれほどのショックを受けたというのは確かに変だとも思うだろう。嬉しいとまではいかなくとも、自分を傷つける存在がいなくなってどちらかといえば安心する方が人間の心理としては正しいという解釈もある。
「オビディオ様もマリナ様も、エンツォが城に入るときの身体検査で知ったようです」
「そう、ですか。でも……ヒメナ様とエンツォだけ、助かったんですよね?」
犯人が“アレグリーニ”を憎む者だとすれば、ヒメナやエンツォだって標的になるはず。リアの疑問は正しい。
「犯人については……カリストの横暴に耐え切れなくなった貴族が何者かに依頼して、というのが当時の記録です」
“当時の記録”――セストがその部分を少し強調して言うと、リアは俯いた。
おそらく真実は……エンツォがカリストを殺め、それを外部からの襲撃に見せかけるために使用人たちも殺した。
「その記録ではエンツォも負傷していました。ヒメナ様には乱暴を受けた痕跡も残っていたと。それも、そのときのものだけではなくたくさん。ヒメナ様もエンツォと共に長年虐待を受け続けていたのです」
「――っ」
リアの頬に涙が伝う。ヒメナの境遇は、残酷すぎる。愛していた人と引き離され、違う男に嫁がされ、心が壊れてしまうほどの乱暴を受けて。
エンツォはそんなヒメナをずっとそばで見ていたのだ。それはある日、糸が切れるようにエンツォをその衝動へと駆り立てた。計画的だったのか、発作的なものだったのか、カリストを殺めてしまった。
「母親と自分が罪を問われないよう、使用人も殺して自分にも傷をつけ、あたかも襲われたかのように状況を作り上げたと考えるのが妥当です。もちろんしばらくはエンツォにも疑いがかかっていました」
アレグリーニ家を狙った犯行で、当主や使用人たちが殺されているのにエンツォとヒメナは軽症で済んでいる。疑いがかかるのも当然。
ヒメナは乱暴されて精神を病んでしまっていたから、被害者とされたけれど。
「ところが、妙なことにしばらくして存在しないはずの“犯人”がつかまるのです。中流階級のある貴族の男とその男に雇われた暗殺者です」
「え……?」
もしリアとセストの推測通りエンツォが犯人だとしたら、それは矛盾している。
「彼らの記憶には確かにその日の出来事が描かれていました。ですから、事件は彼らを犯人として処理されました」
軍は事件を調べるときに嘘を見抜くため、自白があった場合には精神科専門のクラドールを使って記憶を直接調べる。つまり、彼らは嘘をついていない。
今のエンツォならばわかるが、当時彼にクラドールとしての知識などなかったはず。軍やその道に精通したクラドールを欺けるほどの記憶操作を使えるはずがない。
「この矛盾がある限りは私たちも彼らを犯人として考えるしかありません。その事件後、ヒメナ様はご実家に戻られました。エンツォはクラドールになるために養成学校へ……」
そして長い年月を経て、彼は国が誇るクラドールにまで成長しヴィエント城へと入る。
オビディオやレオに復讐をしたいと願っていた彼は、リアと出会い、レオを傷つける手段として彼女を選ぶ。
「これも、私の推測になってしまいますが……エンツォは養成学校に通う前から自分の出生を知っていたのではないかと思います」
クラドールとして城に入れば厳重な軍の警備突破も問題なく、王族との接触――オビディオの診察をする機会もある。
「オビディオ様の診察を行った際に採血をしたのでしょう。親子鑑定で真実をハッキリさせたエンツォは、復讐をすることを決めたのでしょうね」
「ヒメナ様が、オビディオ様に捨てられたと思っているということですか?」
リアは止まらない涙を拭った。声が掠れてしまう。
「おそらくそんなところでしょうか。そのせいで、ヒメナ様と自分がカリストの元で苦しみ、ヒメナ様に至っては心を閉ざしてしまったのです」
それなのに、その妹と笑って暮らしていたオビディオ。エンツォを哀れんで城に迎え入れたと感じたのかもしれない。同情された、と。
そして、何も知らずに両親からの愛を受け、守られて、将来を約束されたレオ。幼い頃から苦しみ、血の滲むような努力をしてクラドールになったエンツォにとって、レオは最初からすべてを持っているように見えたのかもしれない。
城でのその光景は、彼の心にどんな思いを生み出したのだろう。
「兄弟であるはずの2人は、あまりにも違う道を歩んできたのです。オビディオ様が亡くなられて、おそらくその憎しみの矛先はレオ様に……」
リアはそれに利用されている。
「申し訳ございません。リア様を混乱させるかとも思っておりましたが……呪いのことをわかっておられる以上、話しておいたほうが良いかと判断しました」
混乱はしている。だが、その一方で理由を知って納得したのも事実。
先代オビディオは早くに亡くなったということは、今のリアも知っている。だからこそ、レオは27歳という若さで王位に就いているのだ。
レオの婚約者という立場であったリアは、エンツォを苦しめる存在だったのだろうか……?おそらくはレオと笑って過ごしていた自分。オビディオとマリナ、レオとリア……エンツォの心の傷を抉る存在だった?
リアは自分の心臓に手を当てた。ヴィエント王国の王妃――それ以上の、重さ。自分の存在が誰かを傷つけていると考えたことなどなかった。
セストはそんなリアをしばらく見つめていたが、やがてテーブルの日記を手に取るとまた机の引き出しへと戻した。
「貴女も……本当は、お気づきなのでしょう?エンツォが、すべての糸を引いていると」
リアは何も言わなかった。事実だったから。
最初から、気づいていた。エンツォの“気”が自分の中に入っていることに。研究室で記憶の渦に巻き込まれたときからずっと。作られた想いなのだと、気づいていたのに。それでも心のどこかで、信じていたかった。見ないふりをしていた――




