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風に恋して  作者: 皐月もも
第三章:風に揺れる水面
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おまじない

リアが目覚めると、太陽の光が部屋を明るく照らしていた。少し開かれた窓から心地良い風が吹き込んでくる。

そして……部屋に響くカサッと紙が刷れる音と、ペンの走る音。

リアは上半身を起こした。熱も大分下がったらしく、呼吸が楽だ。


(ずっと……?)


視線の先、テーブルに積まれた書類は昨夜ぼんやりと見えたそれよりも多い。レオはずっとリアの部屋で仕事をしていたのだ。


「あ、の……」

「リア」


リアがためらいがちに声を掛けるとレオがハッと顔を上げた。落ち着いた様子のリアを見て、ホッとしたように表情を緩めるとベッドに近づいてくる。


「熱は……まだ、少しあるな。食欲は?」

「お、水……を」


ぎこちなくレオと会話をするリア。レオは少しだけ笑ったようだったけれど、すぐに水をグラスに注いで渡してくれた。


「何か食べやすいもの……果物でも持ってこさせるから。着替えもしたほうがいい」


レオはそう言って、ポケットから紙を取り出して、小さく呟いた後、フッと息をかけて飛ばした。ヴィエントの呪術者が良く使う伝達手段。

チクリ、と……こめかみの辺りが疼いたような気がしたが、水を飲むとその冷たさにかき消されていった。


その後、何人かの侍女がすぐにやってきて、リアの着替えとベッドのシーツ交換を素早く済ませて出て行った。まだ微熱があってシャワーは浴びさせてもらえなかったが、身体をタオルで拭いてもらって少しスッキリし、リアはほぅっと息を吐く。

レオは侍女が来ると、テーブルの書類を抱えて今日の執務の確認に行ってしまった。


「リア様、果物をお持ちしました。テーブルで召し上がられますか?」


そして、侍女たちと入れ替わるようにカタリナが果物のたくさん乗ったお皿を手に部屋に入ってくる。リアは頷いて窓際のテーブルにつく。

オレンジ、林檎、葡萄、パイナップル、苺にさくらんぼ――色とりどりの果物が目の前に置かれる。選べるようにたくさんの種類を用意してくれたのだろう。どれも食べやすいように小さく切られている。

リアはその中からみずみずしい桃をフォークに刺し、口に入れた。ほんのりと甘さが広がっていく。

なぜだろう。とても、ふわふわした……嬉しい気分になる。

そこでふと視線を感じて顔を上げるとカタリナがじっとリアを見つめていた。


「あの……?」


リアは首を傾げた。何か、おかしいだろうか?

「ああ、カタリナ。早かったな」

「あ、はい」


そのときちょうどレオが部屋に戻ってきてカタリナがハッとリアから視線を逸らし、レオに頭を下げる。

レオはまた書類の束を抱えているので、今日もリアの部屋で執務をするつもりなのだろう。ローテーブルに書類を置いてリアの元へやってきたレオは、桃を食べている彼女を見てかすかに目を見開いた。


「リア、お前……桃を食べているのか?」

「え……?は、い」


リアはまた首を傾げ、フォークに刺さった桃の果肉に視線を移した。カタリナもレオも、リアが桃を食したことに驚いているのだろうか?


「あぁ、悪い。その……お前が桃を一番に選ぶのは、珍しい、というか……」


レオにしては珍しく歯切れの悪い、その答え。


「そう、ですか?」

「いや、食べたいのなら食べるといい。まだたくさんある」


リアはなんとなく居心地が悪いような気持ちで、もう一度桃を口にした。


(おいしい、のに……)


自分が桃を食べるのは、そんなに珍しいことだっただろうか?なんとなく目に留まった、というか……食べたいと思っただけなのだけれど。

確かに良く考えてみれば、積極的に食べることはなかったかもしれない。果物の中ではオレンジなどの柑橘系、甘いだけでなく少し酸味の混ざったものの方が好きではある。けれど、お皿に乗ったそれらを見てもなぜか“食べたい”とは思わなかった。体調のせい、なのだろうか。

リアはぼんやりと考えながらお皿の桃をすべて食べた。



***



カタリナが片づけを終えて部屋を出て行き、レオはソファで書類をまとめていた。

チラッとベッドに戻って本を読み始めたリアの様子を伺う。特に変わった様子はないように見える。熱も大分下がり、眩暈や頭痛もないようで足取りもしっかりしていたし、食欲も戻っているようだった。

だが、リアが桃を残さず食べた――そのことにレオは驚きを隠せない。リアは桃が苦手なはずだ。食感があまり好きではないと言って、自らすすんで食べるところを見たことがなかった。味や香りは問題ないらしく、加工してあるものであったり、紅茶のフレーバーであったりすれば好んで選ぶこともあったけれど。それが、あのたくさんの果物の中から桃だけをすべて食べた。


(記憶のせいか?いや……)


記憶が違っていても性格や食の好みなどの基本的な部分は変わらないはずだ。それなら、なぜ?

レオがそんな思考に気をとられていると、ヒュッと風が吹いて、レオの膝に小さな紙が落ちた。

セストだ。


『ルミエール王国との条約更新は問題なく終わりました。ですが……ユベール王子が2週間後の交流会への参加をご希望されております。いかがいたしましょう?』


交流会――半年に1回行われる貴族の集まり。いつの時代の王が始めたのだろうか、レオにとっては煩わしい習慣以外の何物でもない。ヴィエントの上流階級の者たちが集う暇つぶしパーティだ。

とはいえ、情報交換の場としても機能するそれは、それぞれの地域を治める貴族たちの様子を知るのにはちょうど良いのも確かである。

本来、ヴィエント王国内での催しではあるが、他国の王族を招待することもあり、大抵はちょうどその時期に会談をこの城で行ったり、今回のように相手の希望があったりした場合だ。

他国の王族が参加したがる理由は大まかに2つ。ヴィエント王国の内情を探りたいという野心と、大国の後ろ盾が欲しいがための側室選び。今回のユベール王子の場合はおそらく後者。


(あまり、いい状況とは言えないな)


ユベール王子は軍事政権を推している節がある。彼の父である現ルミエール王も、争いを起こすことや犠牲を払うことへの躊躇いが薄いようで、国内では紛争が多く、隣国とも揉めることが多い。武力で国を統べようとしているのは明らかだ。

今も、都市部から離れた貧困地域では内紛が起こっていたはず。国民からも不満の声が多くなっているようだ。そんな国内情勢をなんとか治めたいのだろう。要はヴィエントの戦力が欲しいのだ。

更に言えば、ユベール王子は前々から優秀なリアを欲しがっており、事あるごとにヴィエント王家と彼女自身の説得にやってきていた。争いが多ければ、それだけ被害があるということ。1人でも多くの才能あるクラドールが欲しい。

レオとリアが婚約してからはそれもなくなり、諦めたと安心していたというのに。

今のリアの精神状態では何が起こるかわからない。万が一、赤い瞳のことがバレたらユベール王子は迷わずリアを奪おうとするだろう。赤い瞳の所有者――クラドールとして何倍も価値の増したリアを、彼らの争いに利用するために。


(リアを欠席させる、か?)


レオはそう思い、ため息をつく。

それができないことはわかっている。まだ不安定なリアを多くの人々の前に出したくはないのだが、リアが城に帰ってきたことは、おそらく噂になってしまっている。本来毎回出席すべきリアは2度も続けて顔を出さなかったのだ。まだ “婚約”の段階とはいえ、未来の王妃が欠席続きでは貴族たちの不満も募るばかりだろう。

そして、ユベール王子の申し出を断るということは外交問題に発展しかねない。ヴィエント王国が大国で力があるとは言っても、揉め事は避けたい。レオの個人的な感情で、国を動かすことは許されない。

レオはもう一度ため息をついた。


『わかった。すぐに招待状を送ろう』


その言の葉は、風に乗ってセストの元へと飛んでいった。



***



その日の夜。

レオはリアの部屋のソファに横になって、窓から見える月をぼんやりと見つめていた。思考がまとまらない。

リアの記憶のこと、呪いのこと、今日のリアの行動、交流会のこと……

いろいろなことが浮かんでは消え、浮かんでは消え……どれもハッキリとした答えにたどり着かないまま同じ思考回路の繰り返し。

記憶や呪いについては、セストが帰ってきたら詳しい話が聞けるかもしれない。リアを連れ戻してから少しでもそばにいたいがために、レオ自身が行かなくても問題のない他国での仕事はセストに任せていて、城を空けることが多い。

セストもリアのことを心配しているのだろう、すべて引き受けてくれてはいるが、嫌味が増えたのは言うまでもない。

そんなことに思考が行き着いたとき、リアの眠るベッドの方から苦しそうな声が聞こえてきた。


「……っ、ゃ……ぅ……」

「リア?」


レオはパッと起き上がり、ベッドに近づいた。リアが苦しそうに顔を歪めてうなされている。


「リア、リア!」

「――っ」


レオが何度か名前を呼んで身体を軽く揺すると、リアは目を開けた。


「大丈夫か?」

「ぁ……はっ……」


起き上がったリアは大きく息を吐いた。その背中に手を添えて身体を支えるようにして、リアがかなり震えていることに気づく。そして、微かに嗚咽を漏らすリア。

「怖い夢でも見たか?」


そっとその細い身体を抱きしめてやると、リアはレオにしがみついて泣き出した。


「っ、ふっ……おさえ、られな…………いや、なのに……」


どうやら、赤い瞳の力を解放する夢を見たらしい。


「リア、大丈夫だから。悪い夢だ」

「ぅっく……っ」


レオはそっとリアの頬に手を当てて、溢れて止まらない涙を拭う。


「ほら、泣くな。もう大丈夫だから」


それでも、リアの瞳からは次から次へと涙が零れ落ちる。レオはフッと笑ってリアの目じりに溜まっているそれに口付けた。

頬に伝う涙の道筋を伝うように、軽く唇を触れさせては離すのを繰り返しながら顎までたどり着く。レオが顔を離すと、リアが潤んだ瞳でレオを見上げていた。


「泣き止んだな?」


クスッと笑って、リアの髪を耳にかけてやる。リアの翡翠色が揺らいだのがハッキリと見えた。


「ん、どうした?」

「……ぉ、まじない……」


小さく動いた唇。レオは息を呑んだ。

ああ、また……リアは記憶の海を彷徨っている。

その“おまじない”が2人の間にできたのはいつだっただろう。

幼い頃、よく泣いていたリアをあやすのはいつだってレオの役目だったし、レオはそれを自ら望んでいた。

庭で転んだとき、鍛錬がうまくいかないとき、レオと喧嘩をしたとき。先代オビディオが亡くなったときも、リアの両親が亡くなったときも……翡翠色の瞳から次々と溢れる涙を止めたくて、それを唇で掬った。

意識していたわけではない。

ただ、そうするとリアはいつもレオを潤んだ瞳で見上げて泣き止むのだ。


「おまじないみたい」


そう言ったのは、リアだった。おそらく、マーレ王国の神話か何かに影響されての言葉だったのだと思う。けれど、レオもその通りだと思った。

リアの涙が止まるおまじない。レオにしかできない、おまじない。


「あぁ……お前が泣いたら、このおまじないをしてやる。だから、ずっと俺のそばにいろ」

「ふふっ。うん!」


リアの笑顔は涙のせいだけではなく、キラキラと光っていた。

「そばにいろ」というレオの願いに頷いたリア。その言葉の深い意味には気づいていなかったけれど、それでもリアがレオを頼りにしてくれることが嬉しかった。

だが、今は――

「リ、ア……」


いけない。

目を逸らさなくては。今は、リアをこれ以上記憶の狭間に引き上げてしまうようなことをしてはいけないのに。

リアは夢を見て、少し不安定になっているだけで。そこにレオがいつもの癖でリアの弱った心に思い出という風を吹き込んでしまった。ここで、止めなければ……

そう、わかっているのに。


「おまじない……した、の?」


翡翠色の瞳は、レオの記憶と同じように潤んでレオを見上げてくる。濡れた頬がほんのりと桃色に染まり、薄く開いた唇から漏れる吐息の音まで聴こえるよう。


「れ、ぉ……?」

「リア、ダメだ。それ以上は――っ」


レオの自制も虚しく……リアがギュッとレオのシャツの胸元を掴んだ。

そして――


「レオ……」


今までで1番、ハッキリと、リアがレオの名を呼んだ。その甘えた声がレオの中で弾ける。

「んっ……」


次の瞬間、レオはリアの唇を塞いでいた。

抗えない。ずっと求めていた、その温もりがようやく自分の元に帰ってきたような錯覚。違う、リアは混乱しているだけだ、と……そんな理性の炎も、口付けの合間に漏れるリアの熱い吐息に吹き消されるように、薄れていった。


「はっ、ん……」


何度も角度を変えて、舌を絡めて、時折リアの甘い声が2人の唇の隙間から零れて。ベッドが微かに軋んで2人分の重みを支える。


「リア……」


レオの掠れた声。そっと、指先で頬をなぞれば、リアがはぁっと熱のこもった吐息をこぼす。レオを見つめるその瞳には、確かに情熱が映っている。


これ以上、進んでしまったら……止められないのに。


(っ、ダメだ……)


レオはベッドに腕を突っ張って目を瞑った。

ここで、踏みとどまらなくてはいけない。待つと、決めたではないか。どんなに時間がかかっても、少しずつ、歩み寄ると決めたのはレオだ。

だが……

目を開けてしまえば、リアがレオを見つめたまま熱い呼吸を繰り返している。


「――っ、リア」


額へ、まぶたへ、頬へ……何度も口付けを落としてもう一度唇を重ねる。

2人の吐息が交わる音、その熱が2人の体温と部屋の温度を上げていくようだ。レオの唇が、首筋を伝い、その熱い指がリアのナイトガウンの上着のリボンを解き、スリップの肩紐を引いた。


「……ぁ…………っ」


鎖骨に音を立てて口付けられ、リアが声を漏らした。露わになった肩を甘噛みし、レオの唇が肌蹴た胸元へと滑っていく。だが、リアの心臓に唇を押し当てたところでレオはピタリと動きを止めた。


(ダメ、だ――)


月明かりに照らされたヴィエントの紋章に、レオは少しだけ冷静さを取り戻す。

リアを苦しめたくない。

夜が明ければ、きっとリアはまた偽物の記憶の底へと沈んでしまうだろう。そうしたら、レオを受け入れてしまった自分を責めるに違いない。また、リアを危険に晒してしまう。


「――っ」


レオはグッと目を瞑り、できるだけ長く息を吐き出した。

……スッと、熱が離れていく。


「や……行かな、いで……」


急に心細さに襲われて、リアはレオの腕を掴む。


(熱い……)


それは、副作用でまだ下がらない熱なのか、それともレオの情熱に共鳴する自分の心なのか……

熱くて、自分のものではないように甘く疼く身体に戸惑う。触れられるのは自分がおかしくなってしまいそうで怖いのに、離れたくない。

矛盾している……


「行かないから」


レオはそっと額にキスを落として、リアの隣に身体を滑り込ませて抱きしめてくれた。


「このまま、おやすみ」

「ん……」


その温もりに包まれて、リアは目を閉じた。何も考えたくない。このまま、レオの腕の中で眠りたい。今だけは……



***



――トクン、トクン、と優しい鼓動の音が聴こえる。

それをもっと感じたくて、リアは音のする方へと身体をすり寄せた。すると、リアの身体を包む温もりがより近くなって、ギュッと抱きしめられた。

抱きしめられて……?


「――っ!?」


パッと目を開けると、少し肌蹴たシャツから程よく筋肉のついた厚い胸板が視界に映る。リアは思わず悲鳴を上げそうになって、慌てて口を閉じた。ゆっくりとレオから離れ、視線を上げる。レオの瞳は閉じられていたが、しっかりと抱きしめられていて抜け出せそうにはない。

筋の通った鼻、意外に長い睫毛、目元にかかる黒い髪……そして、形の良い唇。

ドキッとリアの心臓が音を立てる。それと同時に昨夜の出来事が思い出されて頬が熱くなった。

そうだ。自分は昨夜、赤い瞳を使う夢を見て泣いてしまったのだ。そしてレオはリアが泣き止むようにと優しい唇で涙を拭ってくれた。それから……溶けてしまいそうなキスを何度も交わした。どうしてだったのだろうか。リアはそれを受け入れた、いや、自ら望んだのだ。


(わ、私……っ)


リアは咄嗟に片手で口元を覆った。まだ、レオの熱が残っているような気さえする。レオの口付けの軌跡を、鮮明に思い出せる。レオの唇が辿った場所が熱い。レオと触れている場所が、熱い。


「ん……リア?」


腕の中でリアが身じろぎするのを感じてレオの意識がスッと浮上する。


「悪い、苦しかったか?」


レオはリアの頭を撫でて身体を起こすとベッドから抜け出した。窓の外、薄く空が白んでいるところを見ると、まだ朝の早い時間のようだ。リアが目を覚ます前にベッドを離れようと思っていたのに、彼女の温もりに安心したせいか、深い眠りに入ってしまったようだった。


「昨夜のことは……忘れろ。お前のせいじゃない。俺が……抑えられなかったんだ。ごめん、な」


レオはリアの髪の毛を一房指に絡め、キスを落とした。リアがレオを見上げている。戸惑いと怯えと……ほんの少しの情熱。


「ごめん。お前を苦しめたくないと思っているのに、俺は……」


リアを苦しめることしかできない。スッとリアから離れ、扉へと向かう。


「朝食までまだ時間がある。もう一度寝たらいい。まだ眠いのだろう?」


部屋を出る間際、レオは少しだけ振り返ってリアに微笑んだ。そうして小さく音を立てて閉まった扉を、リアはしばらく見つめていた。


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