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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
99/104

第99話

「入って貰って、あなた」

 消え入りそうなほど、弱くて小さな声だった。そして、ほんの少し震えていた。

 桔梗さんが部屋の中に招き入れてくれて、おずおずと中に入ると、お母さんがベッドの上で体を起こし、こちらに顔を向けていた。

 私と目が合うと小さく微笑んだ。痛々しさを感じ胸が痛くなった。

「あなたは誰? ごめんなさいね、こんな不躾な質問をしてしまって」

「いいえ、構いません。板尾紅です。えっと……」

「彼女は青の彼女だよ。既に結婚の約束もしている」

 結婚のことに関しては、お母さんが落ち着いてからの方がいいのかと考えていたが、桔梗さんは話しても大丈夫と判断したようだった。

「そう。青の……。あなた、私とベニさんの二人だけにしてくれる?」

 桔梗さんは心配そうにお母さんの様子を伺ったが、お母さんの笑顔に出会うと、諦めて退室した。

 ああ、桔梗さんはお母さんのことが大好きなんだ。

 こんな風に相手を一途に想い、深い愛情を与える姿は青と重なる所がある。

 そして、お母さんの相手に有無を言わせないその威力のある笑顔もまた青と重なる。

「ベニさん。こちらへ来て座って」

 ベッドの枕元に椅子が一脚置いてある。それに座るように促された。

 もしかしたらお母さんは、よく体調を崩すのかもしれない。この椅子は恐らく、桔梗さんがお母さんの看病をする時のもの。

 促されるまま、椅子に腰を下ろした。

「私のことが怖い?」

「怖い……ですか?」

 質問の意味がよく解らなかった。

「私はね、今の今まで、青を紫苑だと思っていたのよ? 普通、そんなこと有り得ないでしょ? 私は精神的におかしいのかもしれないわね」

「怖くないです。それだけ、受けた傷が深かったってことですよね?」

 お母さんは戸惑いがちに頷いた。

「お母さんだけじゃないです。青も、紫苑さんも、桔梗さんもみんなそれぞれ傷付いてます。見てるこっちが悲しくなるくらい。人は心が病んでしまったら、思いやりを持てなくなる。私の実の父が昔そう言っていました。この家族にあった出来事は青に聞きました。家族全員が心を病んでいた。だから、バラバラになってしまった。それぞれが思いやりの心を見失っていたから、歩み寄れなくなってしまった」

 偉そうなことをペラペラと喋ってしまったことを恥じて、口をつぐむ。

「いいのよ。あなたが思っていることを聞かせて」

 お母さんに促されて、再び口を開いた。

「今、青は強くなったと思います。私が青に会って間もない頃、青はお母さんに会うことを恐れていました。自分を通して紫苑さんを見ているお母さんを見ていられなかったんです。その当時、青は、自分は一度も愛されたことはないと思っていたんです。でも、今はそう思っていません。バラバラになった家族がまた一つになることを望んでいます」

 青の想いを私の口から話すことには限度がある。確かに私が一番近い存在であると自負しているが、だからと言って、全てを理解できているわけではない。

 それでも、伝わればいい。青の想いが……。

「紫苑さんを見つけたのは、最近です。私の友達の会社でアルバイトをしていました。紫苑さんは人と接する時の距離を築くのが苦手なんだと思いました。小さい頃から、友人というものが殆どいなかったんだと思います。だから、自分の思ったことを素直に表現することが出来ずに、乱暴な表現をしてしまうことがあります。だけど、紫苑さんは自分がしたことを深く反省しています。もう一度やり直したいと思っています」

 私は、紫苑さんのことも大好きだ。それは、お兄さんとしてだけど、それでも、紫苑さんには幸せになって欲しい。紫苑さんの理解してくれる存在が現れて欲しいと思っている。

「桔梗さんのことは、お母さんの方が理解していますよね? 今、家族が歩み寄ろうとしているんです。青と紫苑さんの勇気、見てあげてくれませんか? すぐに仲直りして下さいって思っているわけじゃないんです。ただ、二人の想いを二人の口から聞いて欲しいんです」

「青は、とてもいい方と巡り合ったのね。この家に入った時、あの子の表情がとても穏やかだったのは、あなたのお蔭なのね。あなたに感謝しなくちゃ。……ベニさん。手、貸してくれる?」

 私がお母さんを見つめると、ふうっと優しく目尻を下げた。

「私だけ逃げてはいられないわよね。息子達が頑張ってるのに、私だけいつまでも殻に閉じこもっているわけにはいかないわ。リビングに行きます。手を貸してくれる?」

「はいっ、喜んで。でも、無理だけはしないで下さい」

「ええ、大丈夫よ」

 心なしか、お母さんの頬に赤みが戻って来たように思える。

 その頬の赤みが示しているものが、希望であると、私は信じたい。そして、二人の勇気に触発されて、お母さんもまた勇気を振り絞ろうとしているのだと。

 うちの母よりも弱々しく小さな体を、支えながら、一歩ずつ慎重に歩いた。

 つい何分か前に会ったばかりなのに、私はお母さんが好きでたまらなかった。この小さな体を、元気に丸々太らせたいと思った。その優しい、悲しそうな笑顔を元気いっぱいの笑顔に変えたいと思った。

 リビングに入ると、男性陣三人が私に支えられて入って来たお母さんを驚きの表情で見ていた。

 桔梗さんが、いち早く反応して、私とは反対側に回りお母さんを支える。私と桔梗さんに支えられて、お母さんはソファに腰を下した。

「母さん。大丈夫なの?」

 青がお母さんを気遣わしげに伺った。

「大丈夫よ。二人とも、座って。話をしましょう。もう、逃げたりしないわ。あなた達の話を聞かせて。私の話も聞いて欲しいわ」

 お母さんの笑顔に少なからず安心したのか、青も紫苑さんもソファに腰をおろした。

「俺は……」

「待て、青。俺から先に話させてくれ」

 青が話し始めようとしたそれを、紫苑さんが遮った。

 青が頷くと紫苑さんは、一度唾を飲み込むと口を再び開いた。

「正直に言う。俺は、父さんのことも母さんのことも嫌いだった。それよりも嫌いだったのは、勉強だ。教師になんてなりたくなかった。友達を沢山作って、青みたいに外を駆け回りたかった。だけど、俺は弱虫だから、一つもそんな事言えなくて、少しずつ少しずつ不満が自分の中に溜まって行った。その不満が爆発したのが、大学受験だ。あんなに勉強したのに合格出来なかった。あんなに嫌いだった勉強を、あんなに必死にしてきたのに、全てが憎かった。父さんも母さんも青も、そして自分自身も。もう、どうでもいいと思った。これ以上、勉強なんかしたくない。だけど、勉強ばかりしていた俺には気付けば何もなかった。俺の周りには誰もいなかった。母さんを傷つけて、逃げ出したあと、俺は町を彷徨っていた。俺は、ある男に保護された」

 ある男というのが、今村先生なんだと私には解った。

「絵本作家をしているその男の家に転がり込んだ俺を、その人は何もしてくれなかった。ただ、その家を提供されている、寝床には困らない、だが、腹が減っても俺はどうすればいいのかが解らなかった。その人は俺にご飯を与えることも、話しかけることもしなかった。俺も黙っていた。ご飯は食べたい。でも、お金がない。俺には何も出来なかった。俺は空腹を耐えきれなくて、最終的にその人に、ご飯を食わせてほしいとお願いした。その時のその人の表情が今でも忘れられない。『なんだ、出来るじゃないか』そう言って、大きな口を開けて、笑ったんだ。俺に、何かをしたい、何かをして欲しいと思うなら、それを態度で、声に出して訴えなければならないことを教えてくれた。それだけじゃない、その人は、俺に色んな事を教えてくれた。俺にとってその人は恩人だ。今、こうして、ここにいれるのもその人と、あと、そこの女のお陰だ。きっかけをくれたのはお前だからな」


昨日は忙しく、投稿出来ませんでした……。すみません。

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