第102話
「紅。これが、出来上がったものよ。足りなかったら、言ってね」
ななちゃんに手渡された真新しい絵本を受け取り、感慨深げに見下ろした。
「ベニちゃん、よく頑張ったね。俺と会えなくって寂しかったんじゃないかな? 君の噂は紫苑からイヤというほど聞いていたから、あまり久しぶりという気もしないんだけどね」
久しぶりに会った今村先生の口振りは相変わらずで、懐かしむどころか呆れてしまった。
紫苑さんが私のことをどんな風に今村先生に伝えているのか気になるところではあったが、その後ろでとうの紫苑さんが鋭い目で私を睨みつけているので、余計なことを尋ねることは出来なかった。
「今村先生お久しぶりです。……凄い。なんかずっしりとくるっていうか。感無量というか、私の絵がこんな風になるなんて……」
「そうだろう、そうだろうとも」
ガハハっとななちゃんの隣でななちゃんのお父さんであるオジサンが豪快に笑っていた。
「また新作が出来たら、紅ちゃんに挿し絵をお願いするよ。俺は気に入ってるんだ、君の絵も君自身のこともね。出来ればもっとお近付きになりたいんだけどね、俺としては」
「そう言って頂いて光栄です」
笑顔を向けると、今村先生が手を出されたので、その手を取った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ君と仕事が出来て良かったよ」
やったぞ、という達成感が握手したことによってぐんぐんとせり上がって来るように感じた。
「紅ちゃん。君がこれから本格的にイラストレーターの仕事に携わるというんなら、こちらとしては君の手助けをしたいと思ってるんだが、自分のこの先はもう決めたのかな?」
オジサンの表情が、厳しいものに変わった。これが、ビジネスの話であるということだ。
「はい。イラストレーターとしてやっていく心積もりでいます。勉強しながら絵の仕事をしていきたいと思っています」
「そうか。君がそのつもりでやって行くつもりなら、こちらも君に仕事を回そうと思う。挿し絵の仕事が終わったばかりで申し訳ないが、一つ描いてもらいたい仕事があるんだが、やるかね?」
「はいっ。是非、やらせて下さい」
オジサンが持って来てくれた仕事は女性誌の3ページくらいの連載もののコーナーのイラストだ。月刊誌なので、毎月必ず記事に見合った絵を仕上げることになる。
女性ファッション誌なので、沢山の女の子が毎月私の絵を見ることになり、私の絵を売り込むにはうってつけだ。
遣り甲斐のある仕事だ。
その雑誌も実はこの会社で出しているものなんだそうだ。雑誌を刊行しているなんて知らなかったのだが、聞けば、名の知れた雑誌だったりする。
オジサン的には絵本オンリーでやって行きたかったのだが、絵本だけでは経営が行き詰まるので女性誌を出したら、案外売れたという感じらしい。
会社を出て、私は一人喫茶店に入った。
普段なら真っ直ぐに家に帰るのだが、今日は珍しく寄り道をしていた。
私と青はまだアパートにいたが、近いうちに桔梗さんの家へ移ることに決まっていた。
紫苑さんは、青の反対を押し切り、実家に帰っていた。やきもち妬きの青は、やれ部屋が狭くなるだの、やれ紅の近くにいたら何をするか解らないから駄目だとか、しつこく反対していたが、お母さんの青が反対した時の残念そうな顔を目にして、青が引く形をとった。
窓際の席に一人座り、今日ななちゃんに貰ったばかりの絵本を眺めていた。
恐らくこの本は、私の宝物になるのだろう。子供が産まれたら、読んで聞かせるのだろう。「ママが描いた絵なのよ」と、ちょっとだけ自慢したりするんだろう。これから、沢山の絵を描いて、子供に沢山見せてあげられるように、勉強も沢山しなきゃならない。
努力が目に見える形でここにあるということがとても嬉しい。
ななちゃんに貰った絵本は5冊だった。そのうちの1冊は母と健二さんに、1冊は桔梗さんとお母さんと紫苑さん、1冊はマスターに、1冊は私と青の手元に、そしてもう1冊は……。
「おお、紅ちゃん久しぶりっ。見ないうちに一段と奇麗になって来たんじゃない?」
喫茶店に入って来ただけで、その明るいオーラが店中に広がった気がした。
その後を躊躇いがちについてくる一人の女性。
「お久しぶりです。名取さん、奈緒さん」
私は立ち上がって、その場でお辞儀をした。
「そんな堅苦しいこといらないよ。さあさ、座ろう。紅ちゃんからお誘いがあって嬉しかったんだ。俺も奈緒も君に会いたいって思っていたんだよ」
相変わらず、気さくで話しやすい名取さんに私の緊張も多少は和らいだ。
二人に会うのは随分と久しぶりだ。私が初めて今村先生にお会いした日だったんじゃないかと記憶している。
あの日の奈緒さんから考えると、大分頬に赤みが帯びて、ふっくらして来ているように感じられる。
「お久しぶりです。奈緒さん」
勇気がいった。奈緒さんに話しかけるたったそれだけのことが、とても緊張して、私の腕は震えていた。
「久しぶり」
以前のような清々しい笑顔はもう二度と見れないと思っていた。だが、奈緒さんの表情には、以前にはない優しげな雰囲気が多分に含まれていた。
「紅ちゃんは、何か頼んだ? 俺、腹減ってるんだよね。食べてもいい? 奈緒は何か食べるか?」
「私はいいわ。今は胸がいっぱいっていうか、ちょっぴり緊張してるの」
私に笑顔を向けながら、胸を押さえた。
注文した飲み物が来て、それぞれ当たり障りのない会話を進めていた。
「あの頃の私はどうかしていたと思うの。あの頃って言うほど遠い過去ではないんだけどね。私の独りよがりな感情のせいで、青と紅ちゃんにしなくてもいい、苦労というか重荷を背負わせてしまったように思う。私ね、今、とても幸せなの。彼(名取さん)の有り難味を知ることが出来たし、自分の気持ちを見つめることが出来た。私ね、青のこと好きだ好きだって思い過ぎてて、相手への配慮ってものがまるで持てなかったのよ。いつも自分の気持ちだけを押しつけてた。青といるとね、嬉しいとか楽しいとかそういうのよりも先に私を決してみてはくれない青に苛々していた。どうして、何で、私じゃないの。私はこんなにも青が好きなのにって」
自分を責めるように小さく笑った。
「彼が私を救ってくれた。ずっと塞ぎ込んでいる私の隣りにずっといてくれた。飽きることなく、ただずっと傍にいてくれた。彼といるとね、楽しい気分になるの。沈んでいる自分が、馬鹿馬鹿しくなってくる。楽しまなきゃ損でしょって。全身で伝えてくるのよ。なんの言葉も発してないのに、解るの。気付いたら彼の手を取って外に出ていた。二人で色んな所に行って、色んな景色見て、壮大な驚くような自然の神秘とかをね見ていたら、何だか、一人の男に執着していた自分が馬鹿みたいだと思った。嬉しい時には嬉しい、悲しい時には悲しい、怒っている時には怒りを素直にぶつけられる存在がこんな近くにいたのに、どうして私は気付かなかったんだろうってそれに気付いた時、私は彼が好きなんだって気付いたの。あまりに近くに居過ぎて解らなかったのよ」
名取さんは、傷心の奈緒さんを連れ、日本中のあらゆるところへ引っ張り回したのだそうだ。その時には厳しく、時には優しい自然を二人で目の当たりにしているうちに、自分の心の中に潜んでいた気持ちにふと気付いた。
そういうことなんだろう。




